ある日の手紙
慌ただしい夏が過ぎていく。この国は全体として寒い地域ではあるが、いよいよ暑い夏も九月まで引き延ばされるようになってきた。春夏秋冬が三カ月ずつある、個人的には、良い気候になってきたと感じている。
そろそろ新しい小説など書きたいと思いつつ、借りてきた本や映画などをつい消化してしまう。せめて文章を書く癖は抜かぬようにと、こうして手紙を書き連ねている。どのような内容であれ、私が書くことをやめないでおられるのは、あなたのおかげであると感謝したい。
さて、相も変わらず、生誕という拭いきれぬ恥辱を、親不知で噛み締めるような日々を続けている。
誰のせいにもすまい。
生誕は、地震雷台風と同様に逃れられぬ天災なのであって、誰が悪いといった次元の話ではないと信仰しているからだ。
それはそれとして、私は反出生主義者であって、これ以上に煉獄の同胞を増やすことはないと考える。
『子は授かりもの』という言葉には、産んだ者に全責任を背負わせぬ優しさを垣間見るので、強く反対するものではないが、理屈としては、子供というのは能動的な生殖行為によって為される。つまり、確固たる意志の力によって、止めることができる。
というか、我々人間が、僅かなりとも意識的に為せる行為は、『何かをしない』ことによってしか達成できぬのではないかとも思う。
産まれたいと思っていても、条件が合わねば流産する。
生きたいと思っていても、外からやってくる死は避けられない。
死にたいという願望すら、時として高度な医療や科学技術が食い止めてしまう。
酷い話である。
聞けば、大変な気候変動によって、人類は今世紀もしくは来世紀初頭までに破局的な事態を迎える可能性があるという。
私としてはまさに願ったり、というか、悲しみと苦しみの権化であるところの生誕と生存が、まさに我らが間借りする地球の報復によってもたらされるのであれば、安息な話である。
願わくば、その日が真綿で首を絞められるさなかに訪れぬことを。
あまりものを考えずにつらつらと書き続けてしまったついでに、ふと思い浮かんだことを記す。
人が人であるための主体、主役と呼べる場所はどこか。
脳、ではないと思う。
もしそうであるならば、生きたいと思ったら生き続け、生きたくないと思ったら直ちに死ねるようになっていなければならない。
脳は身体を動かすために発達した臓器だ。ならば、手足だろうか。それも違う。四肢切断で生まれてくる人というのもいる。
換えの効かないもの。心臓。近い。が、まだ確信ではないという予感がある。
血管。これは私見として納得できる。全身に張り巡らされた血管、
それがどうした、という話ではあるが、正体不明の不健康や不調に見舞われたときには、血の流れが悪くなっているかもしれない。
また、人間の正体が“管”であるなどというのは、私にとって、とても愉快な結論で、明日からしばらくは楽しげな日々が過ごせそうだ。
では、同じような管持つ友よ、また。
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