やさしくてあまくてとろけるような

「1・2・3!」


 彼女が小さな手を広げると、忽然とスポンジのボールが現れる。


「すげーじゃねぇか、  ! 今のどうやったんだ!? 兄ちゃんにも教えてくれよ!」

「えへへ」


 幼い兄妹は、ゴミ溜めの中で笑っていた。


 異臭。台所には生ゴミがうず高く積もって、大量のハエがたかっている。割れ落ちた皿の破片が床に散乱していて、雑多にまとめられたゴミ袋からは、カップラーメンと弁当の容器があふれていた。


 床には、点々と、血の跡が続いている。


 片目のまぶたが腫れ上がって、固まった血が両鼻に詰まっている渚は、ランドセルを下ろしてから笑った。


「もう一回、見せてくれよ!」

「いいよぉ、お兄ちゃんにだけとくべつね」


 再度、同じ動作を繰り返す。


 また、右手から左手へと、スポンジのボールが移動していた。感動した渚は、感嘆を口から漏らす。


「やっぱり、  は天才だな! 兄ちゃんのホコリだ! しょーらいは、どんなすげーヤツになるんだろうなァ! 俺はァ、それを見るのが楽しみだ!」


 渚は、妹の頭を撫で回す。くすぐったそうに、彼女は目をつむった。


「……今日は、いじめられなかったか?」

「うん、だいじょうぶだった!」

「勉強、ちゃんと、できたか?」

「うん、静かにしてたら怒られなかった! でも、後で、お兄ちゃんが部屋に来いって言ってたよ!」

「そうか」


 愛おしさに、彼は目を細める。出来損ないの自分とは違って、特別な存在である彼女が、このゴミ溜めから抜け出せることを祈って。


「  」


 彼は、ささやく。


「お前だけは、絶対にお兄ちゃんが守るから」


 抱きしめると、彼女は、嬉しそうに身を寄せてくる。


「  の尊敬できるお兄ちゃんに……みんなに自慢できるようなお兄ちゃんになるからな……きっと、この世界には愛があるんだって……希望も幸せも夢も未来もあるんだって……教えてやるから……だから……」


 ぎゅっと、力強く、彼は誓った。


「笑ってくれ」


 最愛の妹は、笑った。まるで、この世界が綺麗であるとうたうように。ゴミ溜めに沈む人間が、どこにもいないと実証するかのように。


 彼女は、笑っていた。


「  は、将来、どんな人になるんだろうな……兄ちゃん、楽しみだ……」

「うん、うんっ! あのね! 私ね! しょうらいは――」

「なぎさぁ!!」


 隣室から飛んでくる怒鳴り声。びくりと、妹が身を震わせる。


 妹を落ち着かせるために、渚は微笑んだ。


「耳栓、付けて、お勉強できるか?」

「……うん」

「笑ってくれ、  」


 彼は、笑う。


「笑ってくれ」


 渚は隣室へと足を運び――いつもの時間が始まった。




「アキラくん! 傘! 傘、もってきなさい! 外、酷い雨だから! 傘もたないで行ったら、ずぶ濡れになっちゃうわよ!」

「要りません」


 俺は、短く、介護職員のおばさんに答える。


「きっと、あの人は差してないから」


 いぶかしむ彼女に頭を下げて、どしゃ降りの中へと足を踏み出す。


 あっという間に、シャツもズボンも重たくなった。水分を吸い込んだ髪の毛が垂れ下がって、足先まで冷たさに凍えていく。分厚い曇天に見下されて、悲しみに暮れている家々を横目で捉える。


 豪雨が、視界を閉ざしていく。


 耳の奥で残響する雨音が、頭の中で反響リフレインして、繰り返される返響アンコールに応え続けていた。


 雨の線に、人の影が重なる。


 誰も彼もが消えた世界で、彼女だけが立っていた。


 長身の彼女の顔は、濡れ落ちた前髪で隠されている。かろうじて、口に煙草を咥えていることだけはわかった。


 突っ立っている彼女は、片手にジッポライターをもって、口元へと運んでいく。


 かち、かち、かち。


 虚しい音が、通りに響き渡る。


 雷鳴が、鳴り響いた。


 白色の閃光が周囲を照らして、雲谷渚を世界に晒した。


 幾度となく、灰色の雲に稲光が差し込み、暴れ狂うように光の筋が視えた。足元の水溜りに映り込んだ先生は、生きることを放棄したかのように、憂鬱そうな立ち姿で立ち尽くしている。


 俺は、彼女と向かい合う。


 ただ、沈黙をもって、彼女と通じ合った。


「……生涯で、人とすれ違う回数は何回だと思う?」


 俺は、無言で、彼女を見つめる。


「おおよそ、10万人。

 10万回、私は、刺し殺してやろうと思った。愛なんてもの、たったの数秒で、消え去ることを実証したかった。どこかの誰かに愛されているどなたかが、目の前で、無為な愛情に絶望して死んでいく様を視てみたかった」


 顔を伏せたままの彼女は、か細い声でささやく。


「桐谷……なぜ、愛なんて言葉が正当化されると思う……人間社会の維持に不可欠だからだ……道徳も倫理も正義も、すべては、人間社会の定常のために用いられる詭弁に過ぎない……この世界が不幸で満ちているのは、人間のために作られたものじゃないからだ……だから、物語の中だけ、世界は人に優しく出来る」


 語る言葉に、答える必要はなかった。


 ただ、彼女は、話したいだけだ。俺の言葉を必要とはしていない。


「鉛の心臓は残らなかった……兄は、神の下に召されてなんかいない……ただ、裏切られ、苦しんで死んでいった」


 先生は、そっと、顔を上げる。


 髪の隙間から、なにも宿さない両目が、こちらに向けられていた。


「残ったのは」


 雷が――


沼男スワンプマンだけだ」


 落ちる。


 雷鳴が空を切り裂き、鼓膜が痺れるほどの大音響が世を揺らした。


 目の前の沼男スワンプマンは……いや、雲谷渚は、煙草を咥えたまま、こちらをじっと見つめ続ける。


「雲谷渚は死んだ。だが、沼男スワンプマンは生きている」

「……兄のフリをして、どうなるって言うんですか?」

「語られない」


 きれいな瞳の彼女は、つぶやいた。


「なぜ、沼男スワンプマンが男のフリをしたのかは……語られることはない。ただの思考実験だからだ」


 俺は、ポケットに手を突っ込んで……レシートを取り出す。


 彼女にソレを放り投げる。水溜りに落ちて『雲谷渚は、既に死んでいる』の文字列が、滲んで消えていった。


「あっそ」


 俺は、あくびをして、先生を見つめる。


「先生、わざと、俺を老人ホームに向かわせたでしょう? わざわざ、嘘泣きまでして俺の気をいて、行動を誘導してみせた」

「…………」

「その上で」


 俺は、つぶやく。


「本当の話を聞かせただろ。あんたは、兄と自分の過去さえも、俺を籠絡するために利用したんだ」

「……なんで、そう思う?」


 からかうように、俺はスマホを振った。


「モモ先生にカマかけて、全部、聞き出したから」

「……結局、お前、大層なことを言って人から聞き出してるじゃないか」


 カマにかかった。本当は、モモ先生に電話なんかしちゃいない。今の発言は、介護職員のおばさんから聞き出した話が真実であることの証左だ。


「コレが、俺の答えの探し方なんでね」


 先生に近寄った俺は、彼女の前髪をかき分ける。目と目が合って、無感情が、こちらを射抜いた。


「ようやく、雲谷渚の裏に隠れてる誰かさんが視えてきましたよ」

「…………」

「先生、貴女は愛を過大評価している」


 ささやくと、先生の顔が、微妙に歪んだ。


「愛なんてものは、そんな大層な代物じゃない。そこらへんにありふれていて、普段、人は踏んづけてないがしろにしてる。そういったものを表象化して、有難がるのを創作って言って、大画面スクリーンに投じられるんだ。

 貴女がかたってるのは、うぶな乙女が恋した空想の“愛”だよ」


 俺は、笑いながら続ける。


「世の中には、凶器スタンガンで愛を語って、自傷行為で愛をささやき、神格化して愛を興じて、他人を投影して愛に振り回されるヤツもいる。どいつもこいつも独りよがりで、それでいて、俺のことを一番に大切にしている。

 大切にしたいのに、愛してるのに、相手の迷惑も考えられないようなバカげたことをしちまうもんなんだよ」


 ゆっくりと、先生の、目が見開いていく。


「愛ってのは、醜くて汚らしくてくだらないんだ。人は人を愛のために殺して、道徳も倫理も正義も、どこか彼方へと消し飛ばす。逆だよ。人間社会の維持を崩しかけてるのは、間違いようもなく、等身大の人間を狂わせる“愛”だ」


 俺は、先生の頬を両手で挟んだまま、ニヤリと笑う。


「先生、俺の商売道具を教えてやるよ」


 そして――


「少女漫画の表紙にるような、やさしくてあまくてとろけるような――」


 彼女の唇にキスをした。


「愛だ」


 呆然と立ち尽くす先生から離れて、俺は歩き始める。


 捨て猫の入れられた段ボール箱に、誰かが差し掛けた“”を奪い取り、『雨に唄えば』を歌いながら去っていき――


「ゴラァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! なんてことすんだ、この人でなしがァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 見知らぬおっさんに、めっちゃ怒られたので傘は返した。

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