晴天に降る雨

「優秀なスパイって……淑蓮すみれのことですか。

 桐谷一家、総出で、ヤンデレ一派と争わせるつもりじゃありませんよね? 妹の次に、母親がサングラスかけて、待ち伏せしてたら自爆しますよ?」

「いや、桐谷の血族は、手に負えそうにないからそんなことはしない」


 人の家族を遺伝子改造した超人ミュータント扱いするな。


 水無月さんの家から離れた俺たちは、住宅街にある公園で腰を落ち着ける。なにを余裕かましているのか、マリアはブランコで遊んでいて、淑蓮は俺で遊んでいた(誤字ではない)。


 ベンチに腰掛けた俺は、おごってもらったジュースを口に運ぶ。


「で、どうやって、人の妹をたぶらかしたんですか?」

「なに、女性を口説くには、甘いマスクと甘言とお砂糖たっぷりの甘味があればいい。甘くて甘くてたまらない世界というものに、人間誰しも、逃げたくなるものだからな」

「そういう誤魔化し方は、俺の得意分野なんでやめてくれません?」

「やめてくれません」


 微笑む雲谷先生を見つめていると――正面に、淑蓮の顔が飛び出てくる。


「お兄ちゃん!! 妹をかまってくれないなんて、お兄ちゃん!! 妹独占法に違反するんだよ、お兄ちゃん!! なでてなでてなでて、ちゅーして!! カワイイ妹に、愛をたっぷり、口から注入して!!」


 今度、寝てる時に、わさびとからしとしょうがを注入しておくから勘弁して♡


 わーわーわーわー、耳元でちゅっちゅっしながら、うざったい妹が甘えてくる。根負けした俺は、黙らせるために頭を撫でてやる。


「どうせ、俺を出汁だしに使ったんでしょ? 水無月さんも、よく、うちの風呂を汲みに来ますからね」

「桐谷、お前の家の風呂には、泉が湧いてるのか……?」


 うちの風呂でくのは、風呂とヤンデレの頭だけだよ!!


「ま、合ってるがな。あのままいけば、桐谷を隠匿されて、淑蓮たちの敗北は確定する。否が応でも、私と、手を組む必要性があったってことだ」

「淑蓮たち……ってことは、由羅もですか?」


 煙草たばこを咥えた先生は、ブランコで大はしゃぎしているマリアを見つめ、こくりと頷いた。


「誘導役が必要だったからな。衣笠は、桐谷彰コピーを創造しようとするくらい、本物に酷似した偽物を偽るのが上手い。あのふたりが疑似餌に引っかかるかは賭けだったが、どうやら、こちらに天運が傾いたらしいな」

「随分と、人を操作コントロールすることがお得意ですね。

 人間は、ラジコンじゃないんだぞ!! 淑蓮、今すぐ、オレンジジュース買ってきてくれないか!?」

「桐谷、お前にだけは言われたくない……本当に、お前にだけは、言われたくない」


 パシリ特急である淑蓮が発車して、あっという間に、オレンジジュースを片手に戻ってくる。顎元を撫でてやると、とろんとした目つきをして嬉しがった。一生、こうして、片手間に使ってあげたい愛らしさである。


「ようし、もう一回、行ってこーい!! 30分ほど帰ってくるなよー!!」

「……桐谷」


 久方ぶりに、淑蓮に芸を仕込んでいると、無感情に声をかけられる。


 うつろな瞳を宙に向けた先生は、火のいていない煙草の先に、視えもしない煙があるみたいにして……煙たそうに、目をしばたたかせた。


「私は……なにがしたいんだろうか?」

「かくれんぼでしょ?」


 くすりと、先生は笑う。


「昔」


 彼女の目線の先。


 透明な煙の背景スクリーンの向こう側で、マリアが、ぎこぎことブランコを揺らしていた。


「兄とブランコをしたんだ」


 ただ、寂しげに、先生は微笑む。


「運動が苦手だった私には、それは、あまりにも恐ろしく映って……同級生たちが、ブランコで遊んでいる姿をうらやましそうに見ていた……いや、うらやましかったんだよ、実際……自分の出来もしないことを、楽しそうに実現していて……彼女たちは、翼が生えた天使のようにも視えた……」


 話を聞いている俺の視界にも、先生の眺めている過去かつてが重なったみたいだった。子どもたちのはしゃいでいる歓声、その輪の中には入れずに、ひとりで取り残されている寂しげな少女の姿を。


「そんな私を、見てはいられなかったのか……ある日、兄が、私を公園へと連れ出した……今日みたいに、青空が広がる良い天気の日だった……」


 人差し指と中指で、煙草をつまんだまま、先生はゆっくりと顔を伏せる。


「座った私を足で抱えるみたいにして、立った兄が、勢いよくブランコをいだ……その時、確かに……そう、確かに……私にも、翼が生えていたんだよ……桐谷……空を飛んでいたんだ……兄も……私も……笑っていた……笑っていたんだ……あの時、あの場所で、王子もツバメも幸せだった……鉛の心臓は、動いていたんだ……」


 晴天。


 ぽつぽつと、地面に、雨粒がこぼれた。


 たったひとりの彼女から、寂しげな雨が、ゆっくりと降っている。ただ、俺は目を背けて、悲しい天気を見ないようにする。


「桐谷……」


 うなだれている先生は、かすれた声で言った。


「私は……いったい、なにを……なにをしたいんだろうな……桐谷……私は……いったい、なにを……」


 俺は、立ち上がる。


 そして、歩き始める。


「先生」


 彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。


「尿意で話が頭に入ってこないので、ちょっと、トイレ行ってきていいですか?」

「もう、お前、本当に……好きにしろ」


 俺は、トイレに行くフリをして――駆け出した。

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