[1-17] 学は以て已むべからず
イリスが
発見されたふたり分の死体は検死の結果、≪
最初は奇怪な魔法殺人事件と思われたが、伯爵側の調査によって次々と驚くべき事実が明らかになった。
まず、ふたりが死んでいた集合住宅の一室からは非合法な薬品や暗器などが押収された。
さらに部屋自体も実在しない商人の名義で借り上げられていた。
そして死んでいた男たちはナイトパイソンから依頼を請けて破壊工作や調査、暴力沙汰、時には暗殺をも行う冒険者崩れだった。
どうして彼らが死んでいたのかは分からない。仕事上でヘマをして始末されたのかも知れないが、具体的には分からない。
何にせよ、城の近くに拠点を構えていたことと言い、彼らが伯爵家に対する攻撃のため用意されていたことはほぼ確実だ。
その部屋からはもうひとつ重要な手がかりが見つかっていた。
殺された男が最後の力を振り絞って書き残したと思われるダイイングメッセージ。吐血した血液で床に書かれた文字に曰く、『黄金の鳥 裏口 隠し部屋』。身体の下敷きになって隠されていた。
これを重要な手がかりと見た伯爵は、返す刀で黄金の鳥にも兵を差し向け、ナイトパイソンの拠点と……多くの死体を発見した。
ナイトパイソンは街ごとに活動拠点を設けているが、伯爵側はエルタレフにおける拠点を把握したつもりで居た。実際にはそれはダミーであり、黄金の鳥こそが本物だったのだ。
何故全員殺されていたかのかは全く分からなかった。明らかに複数の魔術師による襲撃だ。内部抗争か? 他の犯罪組織による殴り込みか? ナイトパイソンに恨みを持つ者による攻撃か?
何にせよ残された伝票や書き付け、書簡や連絡文書からはナイトパイソンに関してかなりの情報を得ることができた。
拠点壊滅事件を謎として残しながらも、対ナイトパイソン排斥作戦は次の段階へ進んだのである。
* * *
最初に襲ってきた男たちが
彼らを追跡した時、明らかに仮住まいでしかない何も無い部屋に行き着いた時はがっかりしたが、連絡のためどこかで接触があるだろうと泳がせておいた結果はビンゴだった。
感情のトレースによる追跡を行った結果、
そして、夜を待ってベッドを抜け出し、
ちなみにダイイングメッセージは当然ながら、ふたりを殺した
少々不自然だったかも知れないが、伯爵に情報を与えて誘導する事ができた。
就寝前、
このメモはベネディクトが書いたものだ。昼間はずっとキャサリンお嬢様のふりをして暮らさなければならない以上、仲間たちから話を聞く機会も無い。だが護衛として雇われている
この調子で裏からこっそり伯爵を支援すれば、
今回は
――しかし……領内統括する幹部が、領で一番の都市には居ないんだな。領主様のお膝元だから敢えて避けてるのか?
いずれにせよ、離れた街となると
とすると、今
――内通者、だな。俺はそっちを探すか。おあつらえ向きに感情察知の能力があるわけだし。
あとギルド職員はもういいとして、昨日のジェなんとかって奴が言ってた内通者の召使いも、ひょっとしたらナイトパイソンの上層部が再接触を図るかも知れない。あいつが怪しいって事、それとなく伯爵様に伝えらんないかな。
これだったら仕事場は城の中だけになる。
影武者の仕事をこなしながらでもできる事だった。
* * *
キャサリンの影武者になるとは言っても、キャサリン本人の生活はほぼいつも通りだ。
ただし、
そのどちらを本物が、どちらを
髪は≪
そして同じ服を着れば、なるほど確かに鏡の中には、あのキャサリンお嬢様と瓜二つの少女が居るではないか。
本物と偽物で扱いに差は付けず、使用人たちはどちらに会っても『キャサリンお嬢様』として接する。
果たしてこの作戦に意味があるのか
それと、領民の前に顔を出すような用事があれば当然それは
『別に会話をしたりする必要は無いから』というのは伯爵の弁。今のところ
キャサリンとしての生活はなかなかに忙しかった。
まずは勉強。必須教養として、家庭教師から
続いて花嫁修業。刺繍や裁縫、料理などの家事一般。小学校の家庭科レベルだが掃除や洗濯も一応やる。普段は使用人任せにしていることも自分でできるようにならなければならない。
これがシエル=テイラに生きる貴族女子の日常だった。
『どんな環境の家に嫁ぐか分からないから』という建前こそあるものの、どちらかと言えば単に『これができるのが当たり前だから』『できないと恥ずかしいから』という同調圧力的文化の産物だった。
ちなみに、どうあがいても知識や学力や習熟度は誤魔化せないので、家庭教師の先生方もどっちがどっちか知っている立場だったりする。
「……素晴らしい。イリス様、あなたは数学の天才やも知れません」
「それはどうも……」
黒板ひとつに机ひとつという勉強部屋。
横髪がぐるんぐるんロールしているので、
日本の基準なら中学生レベルだろうか、という数学の問題を解いたら褒められたのだが、地球に生きた前世の長次朗は一応理系で大学を出ていた。このレベルの問題ならできて当たり前なので、感心しているモーツァルト先生の視線がちょっと痛い。
「ときに、イリス様は魔術師なのですよね。
実は私、魔法も教えているのです。残念ながらキャサリンお嬢様には素質がおありではなかったもので、理論のみに留め、魔法の学習は終えているのですが」
「へえっ、そうだったんですか」
意外な事実。モーツァルト先生は魔法使いだったらしい。
どっちかと言うと音楽の方が向いていそうな外見なのに。
実は貴族としての必須教養には魔法理論(と、才能がある人は実践)も含まれている。キャサリンは魔法の才能が無いから実践をやらないし、理論の方は修了済みということで既に時間割から外れているのだ。
「失礼ですが、先生は魔法はどの程度?」
「冒険者のよく使うレベル分けで言いますと、基礎の術がレベル2、火の元素魔法がレベル1です。いや、お恥ずかしい。私は最初の一歩を教えるのが仕事なものでこれで充分、とズボラをしているうちに。
イリス様は?」
「わたしは水と風がレベル3です。他もいくらか」
「なんと、その歳でレベル3は流石と言うほかありませんね」
全ての魔法には便宜的に習得難度として『レベル』が定められている。
どのレベルの魔法まで使えるかというのが、実力を測るバロメータであった。
モーツァルト先生の実技能力はあくまで『素人にしてはなかなか』程度だ。
『イリス』の実力を評するなら『この年で既に一人前なのは凄いがそれ以上ではない』と言ったところ。
それでも成長に従って実力を付け大成していたことだろう。ルネに目を付けられさえしなければ。
ちなみに
だがその実力に驕ってはいけないと
「よろしければイリス様の魔法を少しお見せ頂きたいのですが」
「さすがにそれは。だってキャサリンお嬢様は魔法が使えないんですから、魔法の気配がしたらわたしが偽物だってバレちゃいます」
「おっと、確かに。申し訳ありません」
モーツァルト先生は申し訳なさそうに笑う。
この会話もアウトという気がするが、今はお抱えの魔術師が敷いた陣によって城全体が探知・情報収集系の魔法から防御されている。気にするべきはローテクな盗み聞きくらいだった。
――ま、それを俺が気にするのもなんだけど……感情探知を掛けといた方が良いか。
もしかしたら今も内通者が
盗み聞きが出来るような場所にはそもそも人が居ない。廊下を行き交う召使いたちのくたびれた残業サラリーマンみたいな灰色の感情が流れ込んでくる。
――特にそれらしいのは引っかからないな。もう少し範囲を広く……
しようとした時だった。
いきなりすぐ近くで何者かの警戒心がふくれあがったのを
――なんだ? 誰だ!?
さっきまでは特に気になるような反応ではなかったと思うのだが、それが急にピリピリとした警戒心に変わった。気楽に廊下を歩いていたら前方から取締役が出てきた瞬間の平社員みたいに。
伯爵にでも会ったのかと思ったが、反応を探る限りそうではない。
そいつは誰かに会ったとか何かを見たという様子ではなく、一直線に
――俺の所へ来るに当たって気を引き締めている? にしては妙にネガティブな反応なんだが……
心持ち気を引き締めて待ち構えていると、やがて、扉が控えめにノックされた。
「どうぞ」
モーツァルト先生が声を掛けると、ひとりの男性召使いが入ってきた。
これと言って外見的な特徴が無い、ちょっとオドオドした雰囲気の若い男だ。
「幾何学授業用の教材、お持ちしました」
「ご苦労様です」
彼は抱えてきた三角やら半円のパネルをドサドサと教卓の上に落とした。
学校によくある黒板用に図形を書くための定規だ。
彼は先生と
だが、特に
男は部屋を出て行ったが、しかし部屋を出たところで数秒止まり、それから足音を殺すように離れていった。
「先生、今の方は?」
「ディアスさんですね。最近、私のお手伝いをしてくれているんです。『この歳からだが知識を深めたい』とおっしゃいまして、自分も教わりながらお手伝いがしたいと」
「そうですか……」
――まさか……こいつか?
怪しい。怪しすぎる。誰だって突然学問に目覚めても悪くないが、感情の反応を併せて考えるとクサすぎる。
「あの、先生。ごめんなさい、ちょっとお手洗いに……」
「どうぞ。ですがご注意を。この教室を出たら、あなたは『キャサリンお嬢様』ですからね」
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