天井を仰ぐ


 もうやめにしようよと彼女が言う。そのことに私はどうしようもなく寂しくなって、彼女の体を固く抱きしめた。

 いやだよ、も、いいよ、も出てこなかった。私の喉は潰れたように息ができなくなっていて、声を出そうにも掠れた喘ぎしか出なかった。心の底にひたりと滲んだ絶望と寂寥をごまかすかのように私は一層強く彼女の肌を抱きしめる。


 私には拒否権がないのだ。

 私では彼女の特別にはなれなかったのだ。


 今夜が最後だと私の中の特別な人がそう言った。私には拒否権がない、私はそれに従わざるを得ない。


「ごめんなさい」


 不意について出た謝罪の言葉は不安定に揺れていて、鼻が詰まっていてどうしようもなく鼻声になって素っ頓狂だった。鼻の奥がツンとして何かの拍子に溢れ出しそうな感情と決壊しかけた涙腺を堪えながら私はホテルの天井を仰ぐ。何に対しての謝罪なのか、私自身も知らず、ただ謝罪を繰り返していた。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


 結局その日はキスも何もすることができずに、ただ現金二万円を拒む彼女に無理やり押し付けて帰った。ホテルに彼女を残して一人で外へ出ると、堪えていた涙も感情もただ浮かれた熱が冷めてしまったように引いていて、蠅のように寄って来るクラブのキャッチを無言で潜り抜けながら帰路に着いた。

 世界と音が、私だけを切り離して遠くに行ってしまったような錯覚だった。音が乖離して、崩れた音粒が不協和音となってくぐもったまま私の鼓膜に届く、私の見る世界は全てがスローモーションで、全てが他人行儀に、私が存在しなくても進行して行っているように見えた。


 この世界に私は必要がない。


 その事実をなぜかはっきりと他人事のように認識できて、簡単に認識できてしまっている自分をひたすら嫌悪した。

 家に帰ると当たり前だが両親は寝ていて、やっと孤独になれたのだと思うと冷めていた感情がとめどなく溢れて、玄関に崩れ落ちるように倒れてひとしきり泣いた。声をあげることも叶わず、ただただ溢れる涙と大波で押し寄せてきた感情に揉まれながらすすり泣いた。


 体感では三時間ほど経った頃、ようやく涙が枯れてきてそのことに一安心しながら自室に戻る。ベッドに倒れこみ、白色の天井を見上げてついさっきもホテルの天井を見上げていたなと思う。あの時の私はただ感情を堪えるためだけに見上げていた。それなのに今となっては何も残っていない。あの溢れんばかりの熱も、涙も、感情すらも抜け落ちてただ虚無に浸っていた。


 腕に微かに残ったキョウコの熱を確認しながら眠りにつく。


「私、好きだったよ」


 呟いて、微睡みの中へと溺れて行くのを自覚した。


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