第60話 二番目の弟子は舵をきる

その男は白い布を片手に無造作に持ち、人の波を背に受けて立っていた。




特徴的な大きめの切れ長の目は、涼しげな京風でありながら、しっかりした眉や鼻に支えられ武士らしい精悍さも併せ持っている。


身の丈は六尺ほど。大柄だが、身肉は引き締まっており、隆々というよりはむしろしなやかさを感じさせた。




男は総髪の輪郭を斜陽に赤く染めながら、人波をかき分けてこちらに向かって歩いてくる。






「なんだ、お主。こちらに来ていたのか」


その男、柴田勝家は気安く利家に話しかけた。


「河村殿に誘われましてね。いやー、盛り上がりましたね!流石、柴田殿です」


利家の賛辞に勝家は微妙な表情を浮かべた。


「あ、ありがとう?お主と違って、彦右衛門は笑い過ぎて死にかけておったがな」


「会いましたよ。本丸の所で。倒れてぴくぴくしてました」


「そうか。あの野郎、今締めてるふんどしで無理やり使徒にしてやる……それより、隣の少年ははどこの侍だ?織田家中では見かけない顔だが」


勝家の視線が龍興に注がれる。龍興は背中に力が入った。




「なんか、斎藤方だそうで。ならず者を虐めてたんで止めに入ったら、まんまと馬を盗まれましてねー。怒るんで、なんかしてやるって言ったら、柴田殿に会いたいって。とりあえず、一緒に森部の城下町を見て回って、祭に参加してきましたー」


龍興は、斎藤方と聞いて勝家の気を損ねるのではないかと心配したが、杞憂だった。


むしろ、勝家は龍興に同情した。


「災難であったな。馬といい、馬ウェイクに絡まれた事といい。お主、今日は馬に難有りだ」


「あ、いや……」


龍興は呑まれた。まさか気遣われるとは……度量が違う。そう思った。






「さて、私に会いたいとか。用件を聞こう」


そう勝家に切り出され、龍興は戸惑った。


始めは興味本位、もし会えたら懐柔するなり、恨み言を言うなりしようかと思っていた。


しかし、えろ教や柴田勝家という人間に参ってしまった今、何を言えばいいのか。




いや、言いたい事はあるのだ。


あの降臨祭で芽生えた願い。斎藤龍興の夢。


しかし、斎藤龍興には許されぬ夢。






えろ教と、柴田勝家と共に、生きたい。






言いたくても言ってはならぬもどかしさに、龍興は唇を強く噛んだ。


そうして気が付けば、涙が溢れていた。


言葉をせき止めた分、そちらが決壊したのか。


止めようとしても止まらぬ。それどころか、嗚咽まで出る始末だ。




(今日のわしはおかしい。我慢が効かぬ。まるで赤子にでも戻ったようだ)


龍興は袖で目を拭い続けた。








一方、希美は狼狽えていた。


「ど、どうした?何かあったのか?」


聞いても少年は、ただただ泣くばかり。


困って利家に助けを求めた。


「おい!なんで泣いてるんだ?!」


「知らないっすー。なんか祭の時からずっと泣いてるんで」


(使えねえな、馬ウェイク!)




「ああ!もう、仕方ないな」


希美は我が子が泣いていた時にしていたように、龍興を抱きしめると背中をトントンと叩いた。


抱きしめた瞬間、龍興の体がびくりと反応したが、後はおとなしく希美の腕の中で泣いている。




利家はその様子を見て、


「あー、後は二人でしっぽりと楽しんで下さい。じゃ、俺ちょっと行く所があるんで」


などと言い、さっさと退散してしまった。


「お、おい!」


龍興を抱きしめたまま慌てる希美に、利家は不穏な言葉を残していった。




「もし牛一に会ったら、俺、今夜は睡蓮屋に泊まるって伝えておいて下さいねー」


「ちょっと待て!太田牛一が来ているのか?!」


「来てますよ。一緒に来たんで。なんか、えろ大明神降臨祭は、柴田殿の一挙手一投足を一言一句漏らさず記録するとか息巻いてましたぜー」


「うわーー!信長公記が!!後世にえろ祭が!!」






利家は言うだけ言って去っていった。


希美は、えぐえぐと嗚咽を漏らす少年に、このままでは埒が明かないと話しかける事にした。




「何か辛い事があったか?」


胸元で首を振る龍興に、希美は重ねて話しかけた。


「あー、なんか欲しいものはあるか?私が馳走してやるぞ?」


やはり、首を振る。どうしたものか。


「おっし!おいちゃんにできる事があれば言ってみ?叶えてやるぞ?……あー、おいちゃんの首くれ、とか無しな!」


戦国ジョークはジョークにならない。


希美は龍興の様子を窺い見た。








龍興は『できる事があれば叶えてやる』という希美の言葉に、強く心惹かれた。


(今日だけ、今日一日だけなら、許されるのではないか?)


誰も知らぬ今日だけなら、夢を見ても誰知らず終わる事ができる。


龍興は嗚咽でしゃくり上げながら、ようやく声を出した。








「き、今日だけ……っく、今日だけっ、わしをっ弟子にして……ください」








「弟子?!」


希美は驚いた。斎藤方の侍だというから、意趣返しにでも来たのかと思っていたのだ。




「まあいいや。別にいいぞ」


特に断る理由もない。希美はあっさり許した。


少年は擦り過ぎて赤くなった目を丸くして、希美を見た。


「別に、今日だけに限る必要もないしな。よし、お主、今日から私の二番弟子な!といっても、弟子って何してるか知らないけど。お主、名は?」


「さい……いや、えろ兵衛と呼んで下され」


「えろ兵衛?!」


「えろ大明神の二番弟子、えろ教徒えろ兵衛です」


(えろが過ぎるんだけど!?まあいいか……)


希美は、久五郎から奪ったふんどしを少年に渡した。


「えろ兵衛よ、弟子の証だ。これをやろう」


「こ、これ、使徒様のふんどし頭巾!?」


「久五郎からかっぱらってきた。ただ、一応神髄を会得しないとやれぬもの故、神髄会得するまで被ってはならんぞ」


希美は鬼である。一番弟子の御褒美を二番弟子にスライドさせるとは。


だが気にしない。


使用済ふんどしならいくらでも量産できるのだ。




二番弟子は感激にうち震えた。


ふんどし頭巾を変態扱いするまともな感覚は失われてしまったようだ。


「これはわが家の家宝として、子々孫々まで伝えまする!」


「それは許されぬ所業ぞ!」


斎藤家末代までの恥となろう。






辺りは日が落ち、夕闇に包まれつつある。


希美は少年が馬を盗まれていた事を思い出した。




「そろそろ暗くなってきたな。家まで送ろう。どこに住んでいるのだ?」


龍興は言い辛そうに口に出した。


「稲葉山城に……」


「ほう。斎藤家当主の近習か何かかな?」




龍興は希美の質問には答えずに小さな声で呟いた。


「……帰りたくない」


城には自分の居所が無い。息苦しい場所だ。


斎藤の名と周囲が龍興を縛りつける。




希美は龍興の表情を見て考えた。


(なんだか情緒不安定みたいだし、問題があるお家なのかな)


「ならば、家に来るか?なに、弟子の面倒を見るのは師の務めよ」


希美の言葉に、束の間龍興は幸せな夢を見た。


だが、夢は夢でしかない。


龍興は、断腸の想いで首を振った。






帰路、もう随分先の見え辛くなった道を、龍興は希美と共に馬を走らせながら奇妙な安心感を感じていた。


それは、たまに現れるいかにもな賊キャラを、まるで謎の跳ねる星形生物をかじったかのように、そのまま馬ではね飛ばしていく希美の異常な無敵さからではない。


自分という人間を受け入れてくれた師が傍にいる。


それが龍興にとってはかけがえの無い事だった。






龍興は今日だけの師に、ずっと悩んできた胸の内を吐露した。


「お師匠様、わしはずっと良い主たろうと真面目に取り組んできたのです。しかしうまくいかぬ事ばかり。誰もわしを認めず好きな事を言うて非難する。どうして世の中は、真面目に頑張る人間が報われぬのでしょうか……」




希美は前方を向いたまま答えた。


「真面目に頑張ったら報われるなんて、嘘だぞ」


「はへ?」


龍興は変な声が出た。


「私はな、とにかく不器用で頭の回転が鈍い。その分人より誠実に頑張るが、結局人より劣るのよ」


(お師匠様が人より劣る?まさか……)


龍興は希美をじっと見た。


希美は続けた。


「悩まぬわけではない。たが、人事を尽くしてうまくいかぬものをずっと悩み続けて進まぬ、それは自己憐憫だと、ある時気付いた」


「わしは自分を憐れんでおるのか」


「そうかもな。憐れんで、自分で自分を慰めておるのかもな」


「……」


龍興は何も言えぬ。


「私は自分ができぬから、頑張るのよ。まあ時にはサボるがな。結局の所、自分を救うのは自分だけという事だ」




「あなたは神だ。神は、人を救わぬので!?」


龍興は叫んだ。


「甘えるな!」


希美は一喝した。


「神が人を救うなら、この世から不幸は消えて、人は努力などせぬ馬鹿になっておるわ。そもそも、人の所業の尻拭いをなんで人より偉い神がするんだ?」


「それは……」


「まあ、私は会える神だからな。えろ教徒も領民も全力で支えるし助けるさ。ただ、どう生きるか決めるのはやはり人だよ」


龍興は考え込んでいる。


希美は龍興に馬を寄せ、肩を叩いた。


龍興は不安そうに希美を見る。


「お前は私の弟子だ。お前が決めた事は、私が全力で支えてやるよ」




龍興は頷いた。その目は何か決意を宿している。


希美はというと、


(あっぶねー!神頼みとかされても、何にもできんから!できても応援くらいだから!)


実は適当な事を言って誤魔化していた。










龍興は、この時決めたのだ。




えろ大明神柴田勝家の弟子という夢は、斎藤龍興に戻れば終わる。


一国の主として、敵を師と仰ぐのも、えろ教に人生を捧げるのも許されないだろう。


しかし、斎藤龍興としてえろ教の仲間と勝家のためにできる事はある。






美濃斎藤と尾張織田の同盟。






これ以上、師と敵対したくない。


森部の地で共に盛り上がった仲間を攻め殺したくない。




龍興は、自分のために人生の舵をきったのである。

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