選ばれた男 3話「狂人」

赤紙は、俺を前線へ送ることはなかった。


赤紙が届いたその日に、雲ノ平の総司令部に呼び出された。


夜を徹して歩かされ、総司令部でお偉方数人のお目通りの後、目隠しで某所へ案内された。


目隠しとは余程のことであった。命令が出た後、家族にすら会わせてもらえないところをみると、何やらきな臭い仕事のようだ。


俺の人生もここで終わりのようだ。






馬に揺られ、たどり着いたのは渓流沿いにある洞穴だった。


大戦期の要塞跡だろうか?


ここで大佐バッジを付けた男が現れた。名は名乗らず、周りからも大佐としか呼ばれていなかった。


「貴様の任務は、ある人物の護衛だ」


蛇のような目をした大佐は、そう言うと腕を振り上げ、付いて来いという仕草をした。


要塞の奥には、鉄格子がいくつもあり、湿気とネズミと糞尿の匂いが漂う異様な空間であった。


一番奥まで行くと、金属でできた立派な扉があった。


「この中にいる者を見張っておけ。数日内にここを出立し、某所へ向かう。それまでお前は、こいつの世話をし、また逃げ出さないように常に目を張っておけ。6時間で交代だ」


大佐がノックすると、中から兵士が一人出てきた。


「やっと交代が来ましたか。助かった。頭がイカれそうだ」


兵士はそう言うと、大佐に一礼して出ていった。


「良いか。こいつはただの狂人だ。だがな、さる理由があって殺すわけにも、そして活かすわけにもいかぬ。それにまあ、狂人のくせに生意気な奴でな。手錠はできぬし、飯は私よりも良いものを食べている。だが、わかるな。そういうことだから、丁重に扱うんだ。殴ったりしてはいかぬ。ただ無視しておけば良い。我々は出立の準備で忙しい。頼むぞ」


そう言うと、大佐は中に俺を小突くように入れ、扉を締めた。重い金属音が鳴った。






「また新人さんかい?」


暗がりの中から、品のある声がそう言った。


「やあ助かった。さっきまでの奴はろくな教養も持ち合わせていない猿であったらな。前々から頼んでいた少しは日本語がわかるやつだと良いのだが・・・」


声は少しずつ近づいてきた。扉近くの明かりが届くところで、ピタリと止まった。白い足だけが見えた。


「えらい若造だな。恐れるな。私は狂ってなどいないし、凶暴な獣でもない。日本国最後の知性だよ」


男はもう一歩歩み出た。


痩せているが逞しい体、髪を後ろに縛り、無精髭に覆われているが、目は暗闇でも光っていた。


歳は声からすると40代であろうか?


「・・・それ以上近づくな」


「恐れるなと言っただろう。お前を殺したところで、歴史は何も動かぬさ」


足が震えていた。だがこの一言で、妙に落ち着いた。




「私は北方堅作と申す者だ。日本人だ。父祖の代からお前が属している自称大日本帝国の歴史家をやっている。大日本帝国か、ははは、今日本にいくつの大日本帝国があると思う?新日本帝国や真日本帝国、日本連邦や大和王国、果ては日本社会主義共和国まであるらしいぞ」


北方という男はそう言うと、腰に手を当てながら歩き始めた。


「さあ、無学な頭に洗脳の味噌汁を流し込まれたお前には、私が直々に説教をしてやられなばなぬ。私は日本人で最も優秀な賢者であり、科学の力を信じるものであり、真理を探求し続ける哲人であり・・・日本の歴史を知る唯一の人間である」




完全に狂人だ。


なんでこんな男が、これほどの待遇で生かされているのだろうか?


強制収容所や牢獄をいくつか見たことがあるが、そこは半裸の餓鬼と化した人間が、何も考えずただひたすら苦しみながら死を待つところであった。だがこの男、上等なシャツと軍パン、それに革靴を履いている。栄養状態は俺より良さそうだし、少なくとも三日に一回は風呂に入っていそうだ。


大佐の顔色を見るに、こいつのこの待遇は上層部、それもかなり高位の権力者によって決められているようだ。でなければ、我が大日本帝国の大佐ともあろうものが、シャツや革靴を奪い、豪華な食事を横流ししないわけがない。




「貴様は名をなんと申す」


「言ってはならぬと言われている」


「ではコギトと名付けてやろう。よく聞け、コギトよ。今の世を何と見る?地獄か?どうだ?否、地獄ではない。もちろん天国でもない、ここにあるのは現実だ。アダムとイブの罪など始めから無かったのだ。この圧倒的な現実を前にすれば、人間は神の存在どころか自らの存在すら否定せざるを得ない。我々は史上始めての経験をしている。ギリシャやローマを忘れた中世の欧州人ですら、我々の虚無感を共有できないだろう。我々は知性の限界から真っ逆さまに、原始の自然へと回帰したのだ。輪廻のように円環状ではない。まさしく階段が突如消え去り、そのまま奈落へと落ちたのだ。先人が築いたあらゆるものは破壊しつくされ、我々はその残渣物を奪い合い、何とか糊口を凌いでいる。それがどのような仕組みなのか、本来どのように使うものかもわからない。ただただ我々は過去を別次元の歴史へと分断し、自らの正気を保っているのだ。だから我々は破壊するしかしない。すべてを破壊し、そしてその先に我々の歴史が始まるのだ」




北方は呼吸を忘れたかのように捲し立てた。


歩みを止め、鳩のように胸を膨らませると、また話し始めた。


「我々の先祖たちは、今では考えられないくらい巨大な構造物であった。それでいて個人は自由であった。今のように、弱い人間は殺されるか奴隷にされることが硬い地盤を持った概念と化している現状とは真逆の世界だ。そして人は、巨大な帝国を作り、巨大な建造物で覆われた都市を築き、巨大な戦艦や宇宙船を作り上げた。人は百歳まで平和に暮らし、子は死なず、食い物は捨てるほど世に満ち溢れていた。だが、先人は滅びた。何も学習せずに。なぜか?あれだけ高度な世界を作り上げながら、彼らは全てを引き倒した。自らの手で。それはなぜか?私はある古老からその答えを聞いた。古老はまぎれもなく大戦期に生きていた人間であった。生きていたのだ。この山中の要塞跡に、彼らは生きていた。太陽と大地の熱を使い、野菜や果物を育て、きれいな空気と高度な医療技術により、彼らはずっと生きていたのだ。その中でもとりわけの古老は、大戦前にある秘術を受けたと言った。古老は二百歳を超えていたのだ。だが彼らは愚かであった。大戦後も長々と地中で生きていた彼らは、熱エネルギーを産む機械の故障・・・地震による故障により、現実へと湧いて出てきた。彼らは全くの愚かな生き物に成り下がっていた。武装もせずに我々の前に現れ、水を乞うた。日本語が通じたことに涙までしていた。だがそれまでであった。我々は同じ日本人かもしれないが、我々は現実の世界の住人だ。我軍の畜生にも劣る下劣な豚共には、彼らは欲望の消費財でしかなかった。これは彼らにとって忘れられた概念だった。我々に数年後の今日はないのだ。我々は獲物を見つければ即座に喰らい、腹に収める。腹に入れてしまえば、奪い取られることはなく、腐ることもない。ましてや腹の足しにもならず、金にもならない物など物ですら無い。存在し得ないのだ。だが彼らは自らの価値を見誤っていた。ただそれだけのことであった。私は涙ながらに乞い、古老ただ一人を歴史の簒奪者から貰い受けた。古老は絶望のあまり、数日で死に絶えた。だが、その短い時間、私は歴史を聞いたのだ」


北方はまた立ち止まり、拳を突き上げ強く握りしめた。


「コギトよ。古老は、語った。三度目の大戦の直前だ。古老はそこで生きていたわけではない。だが彼は知っていた。彼は輪廻を超えた存在だったのだ。末恐ろしいことだ。彼は生まれながらにして七〇歳を超えていた。だが彼は生まれたばかりの赤子であった。脳と体は分けられたのだ。人の手によって。古老は大戦前の空気を微かに覚えていた。大戦前、世界は史上最も豊かであり、そして病んでいた。あらゆるところで豊かさを得るための代償が巨大な幹となり、空を葉で覆っていた。根はもうどうしようもなく地中に広がり、そして見えなかった。いや、見なかった。時の権力者は、今では考えられないくらいの絶大な権力を手にしていながら、彼らは見なかった。そして彼らの取り巻きもそこから目をそらしていた。だが、根はやがて地中を貫いて一斉に芽吹き、枝からは巨大な重い実がいくつも落ちた。大戦の本当のきっかけは、ここ日本だった。そう、この国が世界を滅ぼした炎の最初の火口となったのだ。ある一人の男がいた。男は怒りに満ちていた。男は貧しかった。男の家族も友人も皆貧しかった。いや、今でいう貧しさではない。相対的な貧しさ、そして尊厳の貧困だった。政治は腐っていた。老いていた。二度目の大戦に至る歴史の流れ、そして大戦後の新たな流れ、その中で一貫していた世界の礎が、もはや腐り果てていた。だが、権力者たちはそれを認めなかった。人間の業だ。欲は目を暗まし、それでいて世界は固く閉ざされていた。そこら中が悲鳴を上げているエンジンだと思ったら良い。エンジンくらい見たことがあるだろう?あれは無数の部品によって成り立っている。だが、当時の世界という名のエンジンは、もはや動けないほどブクブクと太り、誰も理解できないくらいに複雑になっていた。あともう一押だった」




「男は歴史上類を見ない運動を始めた。その時代、人間はあらゆるものに繋がっていたという。今では想像もできないが、離れた家族や友人と、また異国の人間とまでも、人々は無線のようなもので連絡から情報の共有まで行っていたという。私はなぜこの様な危険なシロモノを時の権力者が許したか大いに疑問だ。今の鼻が利く連中なら、真っ先に破壊するだろう。男はその技術を使い、仲間を集めた。そして仲間が意外に多いことに気づいた。男はきっかけを作れば、人々は猪の群れのように動くことを知った。男は長い時間勉学に励み、長い時間働いていた。だがそこには何もなかった。空虚だ。豊かであるにもかかわらず、男は飢えていた。それを当時の人間は皆、知っていながら放置していた。人間はもはや人間でなくなっていたのだ。男はある地方の役人の長官を襲い、生きたままガソリンで燃やした。その暴挙を、例の無線を使い世界にばら撒いた。恐ろしいことだ。人はそこにいたかのように、この純粋な暴力を感じることができたという。男はこれで一躍革命家となった。男は次に仲間を集い、国家権力に属する人間数名を誘拐し、拷問の末、あらゆることを暴露させた。それは金や利権の類だけでなく、人々が目を瞑っていた自明のことまで、すべてを吐き出させた。これも世界にあっという間に広がった。世界にだ。日本だけの問題ではなかった。大陸やアメリカだけでない世界だ。全ては悪で繋がっていたのだ。権力とはそういうものだ。我々からしたら、当たり前のこと過ぎて滑稽だが、史上最も知性に溢れた人間たちがそれを聞いて憤慨した。全ての秩序はこの一押で一気に崩れていった。男はさらにこの奇怪な革命運動を続けた。まさに奇怪だった。男は権力を得るために革命を起こしたわけではなかった。男は単純な破壊、ただそれだけしか興味を示さなかった。破壊、破壊、破壊、男は金も女も権力も名声までも要らず、ただ醜く太ったエンジンをあらゆる角度から壊し始めた。革命運動は世界に広がった。そして起きたのが、第三次世界大戦とそれに続く第四次世界大戦だ。まずあらゆる物は焼き尽くされ、そして残ったものは撃ち殺されるか殴り殺された。古老はその中で山中の要塞に仲間と逃げ隠れた。そして我々と会合したのだ。だがいずれ墓泥棒たちにでも見つかったであろう。だが、そこには私がいた。私は女や過去の遺物には目もくれず、古老の記憶を手に取った。古老は最後に言った。人々は夢から覚めたのだと。人々をつないでいた強力な鎖が、増え続ける欲によりついに切れたのだ。私達はこれで楽園に還るのだと」




俺は呆けたようにその場で立ち尽くしていた。


これは狂人の世迷い言ではなかった。初めて聞いた話だが、今まで聞いた話、感じた事、経験した全てがこれで一つになった気がした。


「コギトよ。お前は少しは見込みがあるコギトだ」


「俺は、猪山サスケ・・・いや、亥遊村のコシザルだ」


そう言うと、北方はニヤッと笑った。


「善い名があるではないか、コシザル」

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