悪逆の極み・中編

「そ、宗乙そういつ⁉ 御仏に仕える僧侶になんてことを……!」


 帰蝶きちょうは悲鳴を上げ、父の利政としまさに悲愴な眼差しを向けた。


「父上がこんな乱暴なことをするお方だったなんて、私知りませんでした……。やっぱり、私を利用して頼純よりずみ様を殺そうとしていたのですね。酷いです、あんまりです。父上のことをお慕いしていたのに……。なぜ、あんなにもお優しかった父上が私を陥れようとなさるのですか」


「…………帰蝶よ」


 まだ薬が完全には抜けておらず体調の悪い利政は、いささか難儀そうに腰を上げると、涙を流している帰蝶に歩み寄ってそっと手を伸ばした。


 帰蝶は、ほんの一瞬、父が自分の涙を拭ってくれて「俺が頼純殿を殺すはずがない。全ては誤解だ」と言ってくれることを期待した。だが、そんな期待はすぐに裏切られた。


 ドン、と利政は帰蝶の華奢な肩を押したのである。突き放された、と思った次の瞬間には帰蝶は尻もちをついていた。


「ち……父上?」


 呆然と、凄絶な笑みを浮かべている父の顔を見上げる。

 これまでずっと自分を可愛がってきてくれた父に冷たく突き飛ばされたという事実が、この心の幼い少女には衝撃的すぎて、帰蝶はさらにボロボロと涙をこぼしていた。


「この父が、お前を陥れただと? 心外じゃのぉ……。

 お前たち女は、弱くて役立たずな生き物だ。子を産ませるごとぐらいしか使い道が無い。それを、我が国盗りの道具として大いに活用してやったのだぞ。……『立派に父のお役に立てて幸せです』と感謝するべきであろうがッ‼」


「ひ……ひぃっ⁉」


 利政は、帰蝶を荒々しく足蹴にしようとした。


 その直前、深雪が咄嗟とっさに帰蝶を抱きしめて庇い、背中に蹴りを受ける。


「あぐぅ……!」


「み、深雪!」


「どかぬか、裏切り女ッ。どけ、どけ。娘への説教を邪魔するな」


 ゲシ、ゲシ、ゲシと利政は妊婦の深雪を数度に渡って蹴った。「やめて!」と帰蝶は泣き叫ぶ。


「深雪は、父上の子供を身籠っているのですよ! やめて! ……新九郎兄上、喜平次兄上! 父上を止めてください! 深雪のお腹の中には、私たちの弟か妹が……」


「な、何だと⁉ 父上、それはまことですか!」


 利政の鬼気迫る姿に圧倒されてさっきまで金縛りにかかったように動けずにいた新九郎が、妹の言葉に驚いて父に詰め寄った。喜平次はどうやら知っていたらしく、深雪が暴行されるさまを平然と見物している。


「おやめください、父上。それが本当ならば、れっきとした美濃武将の娘である深雪は父上の側室として迎え入れられるべきです。深雪……いや、深雪殿を蹴るのをやめてください」


「うるさい! こいつが裏切ったから、頼純は逃げたのだ。こんな女、八つ裂きにしてやる」


 頭に血がのぼっている利政は、残忍性がいよいよ増してきている。深雪が口から血を吐いても、自分の息が上がるまで暴行をやめなかった。利政の体調がもしも万全だったら、そのまま蹴り殺していたかも知れない。


「はぁはぁ……帰蝶よ。お前を大事に大事に慈しみ、『源氏物語』の不倫やら略奪愛やらが描写された箇所を抜いて読み聞かせ、醜い物事をお前の目や耳に触れぬように細心の注意を払ってきたのは、なぜだか分かるか」


「……そ、それは父上が私のことを大切に想ってくれていたから――」


「カッカッカッ! これは面白い! まだそんなめでたいことを言っておるのか。さすがは俺が作り上げた最高傑作、どこまでいっても純粋で愚かな子じゃ。

 しかし、残念ながらはずれだ。まむし渾名あだなされるこの俺が、そんな馬鹿らしい理由で子供を大事に育てるものか。

 お前をこの世に二つとない純真無垢な娘に育て上げたのは、邪魔な政敵を滅ぼすための『最後の切り札』としてお前を使うためだ。いつか将来、この俺の武力では倒し難い強敵が現れた際に、その武将に嫁がせ、そやつを油断させて抹殺するために……な」


「ど……どういう意味ですか。私にはぜんぜん分かりませぬ」


「俺は自分で言うのも何だが、さんざん悪事を働いてきたせいで天下に悪名がとどろいておる。敵と和を結ぶふりをして謀殺する……などということは、若い頃から両手で数えられぬほどやってきた。それゆえ、お前が生まれた頃には、この俺が『仲良くしよう』と微笑んでも、信じる者など美濃国内にはほとんどいないようなありさまであった。

 そこで、幼少期からすでに天女のごとき美しさであったお前に目をつけたのだ。蝶よ花よと猫可愛がりして、心優しい姫に育て上げれば……お前を妻にした男は、お前の美しく清らかな心に胸を打たれ、必ずや惚れこむ。この娘のためならば命もいらぬと篭絡される。

 ……そして、『』という馬鹿々々しい妄想にとらわれるはず。そうすれば、この俺に対して、いずれは隙を見せるに違いない。まんまと俺の罠にはまって、簡単に殺すことができるであろう。――我が愛娘よ。これが、お前を慈しみ育てた理由だ」


 利政は、肩で息をしつつも、得意げに笑いながらそう語った。帰蝶は、父から想像もしていなかった「自分が愛育された理由」を聞き、愕然がくぜんとなった。


「つ……つまり、私は小さい時から、別に父上に愛されていたというわけではなかったのですか? 最初から私をいくさの道具にするつもりで育てていたと……。

 で、では、嫁入りが決まった時から、父上は頼純様を殺すつもりだったのですね⁉」


「おう、その通りじゃ。だが、陰謀を企てたのは俺だが、お前も共犯だ。お前自身が、頼純を死の道へといざなったのだからな。頼純は純情可憐なお前に惚れさえしなければ、俺に隙を見せるようことはなかった。くだらん愛とやらに惑わされ、奴は破滅したのだ。ハッハッハッ」


「酷い! ひどいひどいひどい! そんなの……そんなの……人間のやることではありません!」


「ああ。だから、俺は人々から『蝮』と呼ばれている。俺は、国盗りの野望のためならば我が子であっても使い捨てにする、冷酷非道の『美濃の蝮』じゃ。恨むならば、父の本性を見ぬけなかったお前の馬鹿な頭を恨むがいい」


 利政は、冷ややかにそう言い放った。


 帰蝶は「うわぁぁぁ‼」と号泣し、自分の頭をかきむしりだす。


 口から血を流している深雪が、弱々しい声で「姫様、しっかりしてください」と励ますが、その言葉が届いているかどうかは分からない。帰蝶は、気が狂う一歩手前だった。


 自分が信じていた物は、全て嘘だった。

 自分という人間は、冷酷な父によって作り上げられたただの道具だった。

 そして、他でもない自分が、愛する夫を破滅させた原因だった……。


 受け入れがたい真実を突きつけられ、帰蝶のもろくて幼い心は粉々になっていく。


「あなたには、必ずや天の罰が下ります。帰蝶様と頼純様の純愛を踏みにじった、その天罰が。覚悟していてください、斎藤利政」


 深雪が、泣き喚いている帰蝶を強く抱きしめながら、利政をキッと睨んだ。


 さっきまでは利政に殺されることを恐れて震えていたが、死の恐怖よりも大切な姫様の心を破壊した利政に対する烈しい怒りのほうが勝ったのだろう。この気弱な少女が、自分をしいたげてきた冷酷な男に対して初めて逆らっていた。


「愚図でのろまな深雪のくせして、よくぞこの俺に物申したな。褒めてやる。

 ……裏切り者のお前を血祭りに上げることは最初から決めていたが、褒美として面白い趣向であの世に送ってやろう」


 利政は、ニタァと不気味に笑う。

 ねやでさんざんいたぶってきた少女が初めて見せた勝ち気な眼差しに、嗜虐心をくすぐられたらしい。勇気を振り絞って自分に立ち向かってきたこの臆病な娘に死の直前まで阿鼻叫喚の悲鳴を上げさせ、涙と鼻水を流しながら命乞いをさせてやりたいと思った。


「喜平次ッ。村から牛を徴発してこい。この裏切り者を牛裂きの刑に処する!」

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