血吸の槍、吠える

「くっ……!」


 造酒丞さけのじょう定明さだあきの早業をギリギリでかわして、左に逃げた。


 しかし、定明は息つく暇も与えぬ追い討ちをかけ、遮二しゃに無二むに槍を繰り出してくる。大熊のような体格のくせして思いのほか俊敏だ。道場山で戦った今川軍の隠密(御宿みしゅく虎七郎とらしちろう)よりも実力は数段上だろう。


 造酒丞は嵐のごとき七連続の突きを敏速な身のこなしで何とか回避したが、最後の一撃だけわずかにかすってしまった。右頬の傷口からポタポタと血が滴り落ち、足元の黄葉が一葉だけ紅葉色へと変わる。


(槍さばき自体は単純で一直線の攻撃ばかりだが……こいつはなかなか厄介な敵だぞ)


 定明はほんの一瞬すらも迷わずに次から次へと電光石火の突きを放ち、逃げ回る敵に反撃の隙をいっさい与えない。わずかでも気を抜いたら、グサリと串刺しにされてしまうだろう。最初槍はなやりの勇者と渾名されるほどの槍の遣い手である造酒丞ですら、定明のこの怒濤の槍戦法には舌を巻かざるを得なかった。


(しかし、付け入る隙が皆無というわけではない)


 敵味方から「勇者」と呼ばれている造酒丞の肝っ玉の太さは伊達ではない。命の一つや二つ投げ出す覚悟さえあればあんな槍術は何とかなる、と造酒丞は考えていたのである。


 どれだけ疾風迅雷の早業でも、動きさえ単純であったら、あらゆる技を見切る慧眼を持った造酒丞ならば半刻(約一時間)はよけ続けることは可能だ。そして、逃げ回りながら逆襲の時を狙うのではなく、敵の猛攻を回避しつつあえて前進し、槍の間合いの内側に入り込んでやれば……いくらでも反撃は可能ではないか。


「そら、そら、どうした! さっきから逃げてばかりではないか! 刀を抜いて抗わねば、我が血吸ちすいの槍の餌食となるぞ!」


「拙者が逃げているだと? フン……笑わせるな。我が戦術の極意は、速攻・強行・不退転だ。拙者は死んでも逃げぬ。今まではおぬしの技を見極めるために様子を見ていただけだ。次からはおぬしが拙者から逃げ回ることになるであろう」


「ハッハッハッ。……ほざけッ‼」


 定明は刃をきらめかせ、血吸の槍を再び造酒丞の首筋めがけて放つ。


 その直後、造酒丞の両眼がキラリと光った。


(見切った!)


 心の中でそう叫びつつ、地を蹴る。


 そして、槍の刃が自分の左肩を切り裂いて血を吸ったのも構わず、定明のふところへと大胆にも飛び込んだ。


「な、何だと⁉」


 まさかこの大猛攻に臆することなく自ら飛び込んで来る奴がいるとは思っていなかったのだろう。定明は驚愕の声を上げた。


 槍の間合いの内側に入り込まれ、防ぐこともできない。


 造酒丞は、飛矢のごとき勢いで定明に迫る。そして――。


「せいッ‼」


 土手っ腹めがけ、丹田たんでんに気を集中させた必殺の拳を放った。


 造酒丞は自分の領地に出た狼を酔っ払って素手で殴り殺したことが三度ほどあり、その狼は頭蓋骨が粉々になっていた。その一撃が、定明の腹のど真ん中に命中したのだ。


「う、うぬぅ……!」


 さすがの定明も、唸り声を上げてヨタヨタとよろめいた。


 だが、ほんの一瞬である。すぐに持ち直し、バッと飛び下がって造酒丞と距離を取った。


(凶暴な獣を一発で撲殺できる強烈な一撃だったというのに、少し怯んだ程度とは……。こいつを素手だけで倒すのは絶対に無理だな)


 などと思いつつも、造酒丞は本気でこの化け物を拳一つで殺せると考えていたわけではない。戦闘狂の定明を何とか弱らせて、「自分たちは快川殿に会いに来ただけなのだ」というこちら側の主張を定明に聞かせるのが目的だった。


 しかし、悪いことに、定明は造酒丞に手痛い反撃を受けたことでますます闘志を燃え上がらせていた。火に油を注いでしまった、と言っていい。


「ふ……フフフフ……フハハハハ! 俺の槍さばきをこうも簡単にあしらうとは、何という豪傑だ!

 ……この明智あけち彦九郎ひこくろう定明! ついに! ついに! 宿命の好敵手を見つけたぞ! 今日は佳き日なり! さあ、さあ、もっと戦おう! 死ぬまで殺し合おう!」


 楽しい、楽しいぞぉー! と喚きながら、定明は血吸の槍をグルングルンと片手だけで棒切れのように振り回しながら造酒丞に突進した。


 近くにいた配下の兵たちが巻き添えを喰らいそうになって「ひぃー!」と言いながら槍の間合いから逃げ出しているが、気にしない。つむじ風を起こせそうなほど旋回させた槍をその凄まじい勢いのまま横に薙ぎ、造酒丞に叩きつけようとした。


「その技は、少々雑すぎるな!」


 造酒丞も、やはり戦いが好きな男である。ちょっと楽しくなってきたのだろう。フンと笑いつつ、髭もじゃの大男に向かっていく。そして、定明の大技を喰らう直前に高く飛んだ。


 槍はくうを裂き、造酒丞は空中から再び拳を繰り出す。


 だが、定明とて攻撃一辺倒の馬鹿ではない。咄嗟とっさに首をひねらせ、頬面めがけて飛んで来た拳を巧みにかわした。


「やるな、髭もじゃ」


「髭もじゃって言うな。俺の名は明智彦九郎定明だ」


 定明はそう吐き捨てつつ、造酒丞の追い討ちを警戒して槍を繰り出せるだけの間合いまで後ろへ下がる。


 その後も、定明が猛攻を仕掛け、造酒丞がそれを華麗にかわして反撃、槍の間合いの内側に入り込まれた定明が後退する……という攻防はしばらく続いた。

 その間に定明は数発の拳や蹴りを喰らったが、全く堪えていない様子である。やはり、大熊をどれだけボコスカ殴っても死なないのと同じで、恐ろしく頑丈な定明を黙らせるには刃で斬り殺すしかないのかも知れない。だが、快川がいる寺の門前で殺生をするわけには……。


(うん? 寺の門前?)


 ふと気がついたら、造酒丞と定明は激闘を繰り広げている内に山門を知らぬ間にくぐり、南泉寺の境内で睨み合っていた。定明は強敵との戦いに夢中になるあまり、不審者を帰蝶がいる寺の中に入れないという自分の任務をすっかり忘却してしまっているらしい。


(……というか、あの髭もじゃが槍をブンブン振り回すから寺が滅茶苦茶になってしまっているな)


 門の壁は傷つき、境内の松の木は何本か枝が折れ、小さな石灯篭は倒れてしまっている。騒ぎを聞きつけてやって来た僧侶たちが「な……なんて罰当たりな!」と憤慨していた。


「さあ、もういっちょ行こう! 次こそはおぬしを串刺しにしてやるぞ!」


「ま、待て。おぬし、寺の警備をしていたのであろう? 周りをよく見てみろ。おぬしのせいで寺が盗賊に襲われた後のようになっているぞ」


「寺の警備だと? 違う、違う、俺の任務は帰蝶姫の護衛……あっ! し、しまったぁ! 姫のことをすっかり忘れていた!」


 定明は急に素っ頓狂な声を上げ、両手で頭を覆った。乱暴に手放された血吸の槍は、定明の足元に転がる。ようやく、おのれの役目を思い出したらしい。


「定明殿。強い敵を見つけると大切な任務すらも忘れて決闘を挑んでしまうのが、貴殿の大きな欠点です。守るべき御方を何刻も放りっぱなしにして、それで立派な武士もののふとは言えませんぞ」


「う、うげっ、快川かいせん殿……」


 低音ながらもよく通る美声が境内に響き、定明はギョッと驚いて振り向いた。


 そこにいたのは、貴族のように気品に溢れた容貌を持つ僧侶だった。あの御仁が快川紹喜じょうき殿か、と造酒丞と尾張守おわりのかみは呟く。四十代半ばだと聞いていたが、目の前の快川は実年齢よりも若々しく、三十代前半ぐらいに見える。


「あ、あの、帰蝶様は……」


「今は非常にご機嫌斜めですよ。亡き夫の菩提寺ぼだいじで貴殿が乱闘騒ぎを起こしたのですからね」


「え? 帰蝶様は奥の部屋にいらっしゃるのになぜそのことを……」


「あれだけの大音声だいおんじょうで怒鳴り散らしていたら、聞こえるに決まっているでしょう」


 快川は三日月形の眉を歪ませ、呆れ気味に嘆息を漏らす。


 快川は穏やかで優しげな声音で話しているというのに、定明はなぜかビクビクしている様子だ。あの戦闘狂の大男が、なぜ上品そうなお坊さんに若干怯えているのだろうか?


「師の仁岫じんしゅう和尚から『あの猪武者を何とかしてくれ。寺が壊れる』と頼まれたので、心細がっている姫様を部屋に残してやって来たのです。私はすぐにも姫様の元へ戻らねばなりません。速やかに愚かな腕比べはやめて、私と一緒に奥の部屋に来なさい。姫様にきちんと謝るのです」


「わ、分かりました。……あの、でも、あと少しだけ。もうほんのちょっとだけ、あの尾張武士との決闘の続きを……」


「やれやれ……。全く分かっていないようですね。定明殿、ちょっとしゃがみなさい」


「ほへ?」


 定明は言われるがまま腰をかがめ、快川に顔を寄せた。その直後、


「かぁーーーつ‼」


 境内の木々が揺れんばかりの大喝一声。

 クワッと両眼を大きく開いた快川は、ちょうど殴りやすい位置にあった定明の顔面のど真ん中に拳をねじ込ませた。


「うげぶっ⁉」


 腰を曲げていた定明は体の均衡をあっ気なく崩し、数歩後ろへよろめく。そして、すぐ近くにあった池にどぼーんと落っこちた。


 造酒丞、尾張守、明智家の兵たち、寺の僧侶たちはその光景を呆然と眺めていた……。


「定明殿。少しは頭を冷やすことができましたか?」


 快川が池の上から悠然と見下ろし、優しげな声で語りかける。定明は血がどくどくと噴き出している鼻をおさえながら「は、はひ……。申し訳ありませぬ」と従順な態度でコクコク頷いた。


 優美なる風貌でありながら、その身の内には烈火のごとき気性を宿している――それが快川紹喜という僧であった。このことを知っているのは、彼と親しい交流を持っているごく一部の美濃人だけである。その一部の中には、定明も入っていた。


「それはよかった。では、姫様のところへ参りましょう」


 快川はにこやかに微笑むと、踵を返して帰蝶姫の元へ戻ろうとした。造酒丞や尾張守のことなど眼中にないようである。


「あ……あの! お待ちくだされ! 拙者は尾張の道家どうけ尾張守と申しまする! か、快川殿とは同族にあたる者です! あなた様にお会いしたい一心でここまでやって来ました! ど、どうか我らとほんの少しでも面会の時間を……」


 尾張守が慌てて快川を呼び止める。


 快川は尾張守が同族の者だと聞き、ピタリと足を止めて振り返った。


 しかし、その唇から紡ぎだされたのは「早々にお引き取りください」という冷たい言葉であった。


「どうせ、土岐とき頼純よりずみ様の死の真相について探りに来たのでしょう。

 この寺には今、頼純様のご正室であった帰蝶様がいらっしゃいます。敬愛していた夫の死について敵国のあなた方が詮索して政治の駆け引きに利用しようとしていると知れば、幼い姫様のお心は深く傷つくことでしょう。私はあの純情な少女の心が非情の者どもたちによってこれ以上汚され、踏みにじられることが許せぬのです」


「し、しかし、斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)の下剋上がこのまま世間に秘匿ひとくされていたら、奴の悪逆はますます凄まじいものとなって、あなたがた美濃の人々にさらなる災いをもたらすのではありませぬか⁉」


「……話すことなど何もありませぬ。どうか、お引き取りを」


 快川は斎藤利政の名を聞くと一瞬だけ顔を不快そうに歪ませたが、すぐに表情を引き締めてそう言うのであった。








※次回の更新は、11月17日(日)午後8時台の予定です。

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