信勝暗躍

「なぜだ……。信長様は孫八郎の助命を信秀様に進言すると約束してくださったのに、なにゆえ孫八郎は死を賜ったのだ……」


順盛よりもりよ。いつまでも恨み言を言うでない。信長様も仰っていたではないか、命乞いをしてはやるが八割方は難しいと。取り返しのつかぬ失敗をした孫八郎が助かる見込みなど初めから無かったのだ」


 加藤全朔ぜんさくは、孫八郎が自害してからここ数日、羽城はじょうを毎日訪れて甥の加藤順盛をなだめていた。譜代の家臣を失った順盛はすっかり塞ぎこみ、「なぜ孫八郎は助からなかったのか」とそればかり自問自答している。


 孫八郎の過失が原因で尾張国に大きな損害をもたらしかけたのだから、信秀が孫八郎を許さなかったのは当然のことである。そんなことは頭ではちゃんと分かっているのだ。それでも、加藤本家の家督を継いで以来ずっと側近く仕えてくれていた孫八郎を救う手立てはなかったのだろうか……などと考えてしまうのだった。


「本来ならば、孫八郎の主君であるそなたにも罪が及ぶ可能性があったのだぞ。それを孫八郎とその一家を処分するだけで済ましてくださったのだ。信秀様や信長様を恨みに思ってはならぬ。もうこのことはキッパリ忘れよ。そなたが今やるべきことは、孫八郎が疎かにしていた竹千代殿の待遇を改善して、信秀様より与えられた役目を今度こそ万全に果たすことじゃ」


「……分かっておりまする」


 順盛はそう返事をするが、言葉に覇気が無い。

 これは立ち直るのにしばらく時間がかかるな、と思いながら全朔は深々とため息をついた。


「父上、大叔父上。勘十郎かんじゅうろう信勝のぶかつ(信長の同母弟)様がお見えでございまする」


 先日元服しばかりの順盛の長男・又八郎またはちろう頼政よりまさが少し慌てぎみに部屋に入って来て、順盛と全朔にそう報告した。用向きは、弔意ちょういを伝えるために参った、とのことだった。


(罪を得て死んだ陪臣ばいしんのために織田の若君が弔意を表するとは奇怪きっかいな……)


 順盛と全朔は不審に思って顔を見合わせたが、わざわざ来てくれたのに追い返す理由もない。順盛は「ここにお通ししろ」と息子に命じた。


 やがて、順政に案内されて信勝が部屋に現れた。


「順盛殿、全朔入道殿、お久しゅうござる」


「これはこれは信勝様……」


「よくぞお越しくださいました」


 織田家は美男美女ぞろいであると評判だが、信勝は「色香漂う」という言葉がピッタリの妖艶な美しさを備えた少年である。信勝のつややかなたたずまいには、衆道しゅどうたしなみのない順盛と全朔ですら思わず見惚れてしまい、あいさつを返した声は若干裏返っていた。


「順盛殿。こたびは良き家臣を失い、誠に残念なことでした」


 順盛の心痛をおもんばかるかのように、信勝は悲愴な表情を作ってそう述べた。目元には玉のごとき涙がキラリと光っている。美貌の信勝が涙をそっとたもとで拭くその仕草は、そこいらの遊女よりもずっと艶めかしいものがある。


 家来を失って精神的にかなり滅入っている順盛は、信勝のその少々大げさな悲しみ方を、


(この清らかな美少年は、私のために涙を流してくれているのか。なんと心根の優しい人なのだ)


 と好意的に感じたようである。「お気遣い、痛み入りまする。信勝様のご好意、この図書助ずしょすけ順盛生涯忘れませぬ」と涙ながらに応じ、深々と頭を下げた。


 一方、全朔はそんな甥の姿を横目に見ながらわずかに首を傾げている。

 長年に渡る商いの経験で培った人物を見る直感力が、こう囁いているのだ。この信勝という少年とはあまり深く付き合わないほうがいいような気がする、と。


 兄の信長は才知と決断力に溢れた英邁えいまいな人物だと全朔は感心していた。しかし、弟の信勝のその言動には心なしか「底の浅さ」のようなものが感じられるのだ。要するに、何やらうさんくさい匂いがする。順盛は信勝の見目麗しさと礼儀正しさに惑わされているようだが、外見だけで人を判断するのは剣呑けんのんである。


「信勝様、大変失礼だとは存じますが……。お父上の信秀公が処断した加藤家の家臣のために涙を流すなど、ちと軽率なのではありませぬか?」


「お、叔父上。我が家臣に哀悼の意を表してくださった信勝様に対して無礼ではありませぬか」


わしは信勝様のお立場を心配しているだけじゃ。……お父上の耳に入れば、『我が息子は俺の決定に不服があるのか』と疑われてしまうでしょう。何故なにゆえ、そのような危険を冒してまで我らをお訪ねくださったのですか?」


 全朔が試すかのように直球の質問をぶつけると、信勝はその美貌をわずかにゆがめて意外なことを口にしだした。


「実は、私は父や兄に黙ってここに来たのです。……あなた方にお詫びがしたくて」


「詫び、でござるか? はてさて、面妖めんような。何故なにゆえ、信勝様が我らに詫びるのです」


「……誠に心苦しき話をせねばなりませぬが、本来ならば孫八郎は死ななくてもよかったのです。

 最初、我が父・信秀は順盛殿の助命嘆願を聞き入れて孫八郎の死一等を減ずるつもりでした。しかし、兄の信長が断固たる態度で『孫八郎は大罪人ゆえ、慈悲など必要ない。本人はむろん切腹、山口家も取り潰しにして妻子を屋敷から追い出すべきだ』と父に進言したのです。それゆえ、父は世継ぎである兄の意見を尊重して孫八郎の処断が決定してしまったのです」


「な……! な、な、何ですと⁉ それは誠でござるかッ‼」


 あまりにも衝撃的な話を聞かされ、順盛は驚愕のあまりほとんど絶叫に近い声を上げていた。孫八郎の助命を進言すると約束してくれたはずの信長が、なぜ孫八郎を殺すように信秀にすすめているのか⁉


「私はその場にいて、二人の会話を聞いていましたので間違いありません。兄がとんでもないことを言い出したと思って驚いた私は必死に父と兄をいさめたのですが、私は何の権限も持たぬ織田家の四男坊……。余計なことを言うなと兄に一喝され、孫八郎の処分を覆すことはできませんでした。

 私に何の力もないばかりに加藤家の大事な家臣を失ってしまい、まことに慙愧ざんきに堪えませぬ。今日は、あなた方のために何もできなかった私の無力をお詫びに参った次第なのです」


「いえ! いえいえ! 信勝様がなぜ謝るのですか! むしろ、我が家臣のために身をなげうって兄の信長様と戦ってくださり、感謝せねばなりませぬ!

 ……しかし、信長様はなぜ私との約束を破ったのか……。それが分かりませぬ」


「それは……」


 信勝は数秒ほど少し言い辛そうな素振りを見せた後、意を決したようにこう言いだした。


「恐らく、兄は加藤家を弱体化させることを狙っているのだと思います。前々から兄は熱田港の交易で蓄えた加藤家の財に執着していたようですし……。

 順盛殿の忠実な家来の一人の孫八郎を始末することによって、順盛殿の力を削ぐことが目的だったのでしょう。兄は、おのれが家督を継いだあかつきには熱田港に集まる富を独り占めする魂胆なのです」


「な、なんと……!」


 順盛は、信勝のことを誠実な少年だと信用し、完全にその口車に乗せられてしまっている。つい先日、信長にかなり高圧的な態度で叱り飛ばされていた(落ち度は自分と家来の孫八郎にあったのだが)ことも手伝って、あの気性の荒らそうな若者ならばそんな卑劣なことを企みかねぬ、と震え上がった。「信長は自分との約束を破り、孫八郎を死に追いやった」というがあるのだから、信勝が言っていることはほぼ間違いないだろう……。


「ゆ……許せぬ。この私をたばかっただけでなく、加藤家に害意を持っていたのか……。なんとおぞましい。そんな虎狼ころうの心を持った者が織田弾正忠だんじょうのちゅう家の次期当主であっていいはずがない!」


「こ、これ! 口を慎まぬか、たわけッ‼」


 順盛が憤怒のあまりとんでもないことを口走ると、全朔は慌てて叱った。しかし、順盛の興奮はなおもおさまらず、「加藤家の富が、狡猾こうかつなあの若造に狙われているのですぞ! 口を慎んでなどいられますかッ‼」と叔父に食ってかかる始末だった。


 信勝はそんな二人の様子を見てニヤ……と一瞬笑ったが、すぐに悲しげな顔を作って、


「兄に対する悪口雑言はやめていただきたい。乱暴なところはありますが、私にとってはかけがえのない兄上なのですから……」


 と言った。ついさっき自分が兄をおとしめるようなことを口にしたことはすっかり棚に上げている。


 動転しきっている順盛は、正常な判断力をすでに喪失しており、信勝の言動の矛盾、軽薄さに気づいていない。兄想いの信勝に対して悪いことをしてしまったと思って、「……も、申しわけありませぬ」と謝った。


「しかし、あなたの兄君は我が加藤家を陥れようとしているそうではありませぬか。我らはいったいどうすれば……」


「そのようなことは、私が絶対にさせませぬ。熱田港が栄えているのは加藤家があればこそ。兄が加藤家に害を成さんとすれば、この勘十郎信勝が一身をなげうってあなたがたをお守りする所存です。

 本音を言えば、兄上と争いたくなどはないのですが……。この世の誰よりも敬愛している兄の過ちだからこそ、弟である私が正さねばならぬと思っていますので」


 信勝は頬を涙で濡らしながら切々と語る。だんだん興が乗ってきたのだろう、演技とは思えないような哀切極まる台詞が次から次へと信勝の口から溢れ出ていく。冷静な全朔ですら、


(まさか、本当に信長様は加藤家を狙っているというのか?)


 と、一瞬惑わされそうになったほどだった。


 順盛などは、つられて自分まで泣きだしていた。


「信勝様……。あなたはなんと心の清いお方なのでしょう」


「……しかし、私は兄と同じ正室の子とはいえ、織田家の四男坊にすぎません。家来も少なくて自由に使える銭もわずかばかり。こんな私が加藤家の味方になったところで、どこまでお役に立てるか……。それがいささか心配ではあります」


「そんなことはありませぬ! 信勝様のように誠実なお方が当家の庇護者となってくだされば、まさに百人力でござる! 家臣を召し抱える銭が不足している時は、熱田港の大長者たるこの私の元にいつでも来てくだされ! 銭ならば腐るほどありますぞ!」


 順盛は信勝の手を取り、そんな約束までしてしまっていた。


(あっ……! な、何という約定やくじょうを交わしたのだ、順盛の阿呆め!)


 全朔は心の中でそう叫びながら、思いきり眉をしかめた。


 勘十郎信勝とは、こういう男なのだ。

 彼は、単純で騙されやすい人間に目をつけ、その美貌と甘言を用いて篭絡することに長けていた。まるで魔性の女である。


 順盛は怒りっぽく直情的で、かなり思い込みが激しい性格だ。信勝はあらかじめそんな順盛の気性を調べたうえで、「信長は加藤家に対して悪意がある。しかし、信勝は加藤家の味方である」という虚言を吹きこんだのである。腹心の孫八郎を失って憔悴しょうすいし、正常な判断力が著しく低下していた順盛の心の隙間に入り込むことなど、信勝にとっては容易たやすいことであった。


(これで、俺は熱田の大富豪・加藤頼盛の信頼を得て、同時に東加藤家と信長との間に溝を作ることができた。俺が兄に対して反旗を翻した時には、東加藤家は我が陣営についてくれるだろう)


 信勝は聖人君子の微笑を崩さぬまま、そんなどす黒いことを考えている。虎狼の心を隠し持っているのは、他の誰でもない信勝であった。


 一方、頼盛のごとく篭絡されることはなかった全朔は、何やらとんでもないことが織田家中で近々起こりそうな予感がして、背中に嫌な汗がにじんでいた。


(信勝様は、本当に順盛が言うような清い心の持ち主なのだろうか? 私の直感は、「この少年は信用ならない」と訴えているのだが……。

 人間の眼というのは頼りないものだ。信勝様のように見目麗しき若者がさめざめと泣いていると、その涙をどうしても信じたくなってしまう。

 しかし、それでもやはり……。あの信長様が卑怯な手を使って味方である我らを陥れるとは、儂には到底考えられぬ。悪意があるのは、信勝様のほうではないのか?)


 全朔は、敵の忍びに千秋せんしゅう季忠すえただが殺されかけた時に激怒した信長の姿をこの目で見ている。あんなにも味方に対して情愛深い若殿が、順盛との約束を違えたり、加藤家の財を狙ったりなどするとは思えない。


 そのことを順盛に伝えてやりたいが、順盛は非常に頑固な性格だ。一度こうと思いこむと、その考えを改めることはほとんど無い。全朔がどれだけ言い聞かせても、信勝によって植えつけられた信長への不信と怒りを捨てさせることは難しいだろう。


 これは、非常に由々しき問題だ。このまま黙って見過ごしていたら、順盛は世継ぎの信長と対立する道を突き進むかも知れない。かといって、下手に今日の一件を信秀に報告したら、順盛が信長を憎悪していること、勝手に信勝への軍資金援助の約束をしてしまったことまで洗いざらい話さねばならなくなる。


「順盛は、世継ぎである信長を差し置いて、弟の信勝とそのような約束をしたというのか! まさか、加藤家は信勝をかつぎ上げて謀反を起こすつもりではあるまいな⁉」


 などと、余計な疑いをかけられてしまう危険性がある。場合によっては、本家である東加藤家が厳罰に処されることだろう。


(う、う~む……。儂はいったいどうすればよいのじゃ……)


 全朔は思い悩み、ひたいから零れ落ちる汗を手の甲で忙しく拭った。


 信勝はそんな全朔の様子をチラリと盗み見て、再びニヤリ……と密かに微笑んでいた。


(慎重な性格の全朔入道を篭絡することは初めから諦めていたさ。

 だが、馬鹿な順盛が不用意な発言をしてくれたおかげで、この坊主頭が父や兄に俺の暗躍を告げ口することは、しばらくは無いだろう。フフッ、何もかも俺の計画通りだ。

 ……織田家臣団の筆頭である林一族の林美作守みまさかのかみ、尾張で一、二を争う金持ちの加藤順盛。この二人を味方につけてやったぞ。さてさて、次はどこのお人好しを我が美貌と弁舌で篭絡するかな)


 信勝は、陰で反信長勢力を地道に育てつつあった。尾張国内で「初陣で負けた信長は頼りない若殿だ」などと悪評を流しているのも、実は信勝である。今回も、竹千代誘拐事件を目敏く利用して信長を貶めたのだ。


 標的ターゲットである信長は、弟・信勝の暗中飛躍をまだ知らない。尾張の二大貿易港の内の熱田港が信勝の毒牙にかかりつつあることも……。信長の気づかぬうちに、兄弟相克そうこくの時は刻一刻と近づきつつあったのである。




 一方、そんな信勝の企みなど露知らぬ信秀と信長は、美濃国からつい昨日飛びこんで来た急報に仰天して、確かな情報を収集するべく奔走していた。


 美濃のまむし斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)が、娘の帰蝶きちょうを嫁がせて昨年和睦したはずの土岐とき頼純よりずみを殺害したというのだ。

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