業火を放つ・後編

 場面変わって、天王てんのうの森の南。


「殿! 敵の先鋒隊の陣形が乱れ、後退を始めました! 森の中へと逃げて行きます!」


 側近からの報告を受けた長田おさだ重元しげもとは、「チッ。ようやくか……」と苛立った口調で呟いた。


 重元の計算では、とっくの昔に敵の先鋒隊を打ち破っているはずだった。そして、先鋒隊を撃破した余勢を駆って、信長の本隊をも壊滅させる予定だったのだ。

 しかし、先鋒隊を率いる内藤ないとう勝介しょうすけという男は、織田家の嫡男の家老に任命されただけのことはあって、この圧倒的に不利な状況下で、重元軍の猛攻に粘り強く耐え続けたのである。敵将ながら天晴れと言うしかない。


「この機を逃すな! 天王の森で信長を討ち取るのだ!」


 重元は采配さいはいを振るい、追撃の命令を下した。まさか、死地に追いつめられた十四歳の若武者が逆に自分たちを罠にはめようとしているなどとは、夢にも考えていなかった。


 ズダダダーーーン‼

 ズダダダーーーン‼


 森の草木を踏み分け、逃げる勝介隊を追って行くと、いきなり複数の銃弾が前方の木の陰から飛んで来た。たまは一発も命中しなかったが、重元の兵たちは聞き慣れぬ轟音に立ちすくむ。


 どうやら、勝介隊の撤退を助けるために森を引き返して来た織田兵の攻撃のようだ。


「臆せず前進せよ。あれは音だけはうるさいが、弾が当たることはほとんどない。命中するとしたら、そいつはよほど運の悪い奴だ。進め、進め!」


 重元はそう怒鳴って兵たちを励ました。しかし、その直後、


 ズダダダーーーン‼


 再び銃声が森にこだまし、一発の銃弾が重元の左頬をかすめた。「うおっ⁉」と驚き、重元は二、三歩よろめく。


「と、殿様!」


「た……ただのまぐれだ。私に気にせず、敵を追撃――」


 重元がそこまで言いかけた時、松の木々に隠れて鉄放を撃ちかけてきていた織田兵たちが一斉に姿を現し、銃口を重元の兵たちに向けた。ざっと見たところ、二十数ちょうはあるようだ。


「なっ……。お、織田軍め、そんなにも鉄放を隠し持っていたのか」


 この至近距離で二十数挺の鉄放が火を噴けば、さすがにまずい。重元と麾下の兵たちはじりじりと後ずさった。


「お……長田の弱兵どもめ! く、くくくく来るなら、来い! 一歩でも近づいたら、ズダダダーーーンだぞ‼」


 まだ二十歳ぐらいに見える織田方の武将――佐久間さくま信盛のぶもりが、脂汗をかきながらそう啖呵を切る。


 この怠け者は、働きたくなくて普段はサボっているだけで、どうしてもやらねばならない状況に追い込まれたら知恵が湧き出てくるらしい。信盛は、信長からもらった鉄放七挺を前列の兵たちに持たせ、後方の兵たちにはただの木の枝を構えさせていた。薄暗い森の中ならば敵兵たちは木の枝を鉄放だと見間違えるだろう、と考えたのである。


(……このあたりに潜んでいるはずの兵たちが助けに来ぬ。信長軍によってすでに撃破されてしまったのか? 尾張兵の実力を少し見くびりすぎていたな……。

 しかも、奴らは、味方の部隊の撤退を助けるために、こんなにも元気そうな兵どもを援軍に寄越すだけの余裕まであるようだ……。くそっ、この様子では信長の本隊はまだ十分に戦えるだけの戦力を維持しているぞ)


 想定を遥かに超える信長軍の頑強さに、重元は不覚にも怯んでいた。


 実際には、信長軍の兵たちの多くはすでにボロボロである。

 しかし、信長は、ほとんど戦わずに逃げ回っていて元気が有り余っている佐久間隊を重元軍にぶつけることによって、「織田の兵はこんなにも元気だ。まだまだ余裕があるぞ」と重元に対してハッタリをかましていたのである。


 また、信盛は命を惜しんで逃げてばかりいたが、どうしても逃げられない状況を作ってやれば、死にたくない一心で、さすがに死に物狂いで知恵を絞って敵と対峙するだろう、とも信長は読んでいた。


 そんな信長の策に、重元はまんまと惑わされてしまっていたのだった。


 ただし、やはり信盛は信盛である。なけなしの勇気にもそろそろ限界が来ているようだ。逃げたい、逃げたい、と心の中で泣きべそをかいていた。


「……信盛様、信盛様。内藤様の部隊を敵から逃がすことにも成功したことですし、俺たちも逃げていい頃合いじゃないですか? そろそろ敵さんたちも、俺たちが鉄放を七挺しか持っていないことに気づきますぜ」


 佐久間隊の兵が、信盛にごにょごにょと耳打ちした。

 佐久間隊には、大将の信盛が頼りないせいで、俺たちがしっかりしなきゃという義務感を抱いている将兵が多いのである。


 兵士の助言を耳にした信盛は、えっ、逃げていいの? と嬉しそうな顔になり、「そ、そうだな!」と頷いた。


「逃げるは恥じゃないし役にも立つ。我々もさっさと逃げよう。信長様のお言いつけ通り、火と火薬の用意を忘れるな。者共、てったーーーい!」


 信盛がそう合図を出すと、後方の兵たちは手に持っていた木の枝を敵兵に向けて一斉にぶん投げた。そして、全員が回れ右をして脱兎のごとく逃走を開始するのであった。


「なっ……。ただの木の枝だったのか⁉ ふ、ふざけた真似を……! 全軍、突撃せよ!」


 激怒した重元が怒号とともに突撃命令を出す。長田軍の兵たちも敵にからかわれたことに怒り、織田兵たちを口々に罵りながら追撃した。


「これでも喰らいやがれッ!」


 信盛の兵が、振り向きざまに本物の鉄放をぶっ放す。しかし、全く当たらず、しかも敵は怒っているため今度は怯まずに追いかけて来る。


「て、敵と遊んでいる場合じゃない! 今は逃げることに専念するのだぁー!」


 信盛は、ひー、ひー、と泣きながらも信じられないほどの速さで走っている。重い甲冑を着ているというのに、驚異的な健脚ぶりである。佐久間隊の兵たちは、先頭を切って逃走する大将について行くのでやっとだった。


「くっ……何という逃げ足の速さだ。追いつけぬ!」


 開戦時から猛将・内藤勝介との激闘を繰り広げていた長田軍の兵たちは、すでに疲労困憊だった。向かい風に逆らいながら走るのすら、息が乱れるほど辛い。ほとんど戦っていなかった元気いっぱいの佐久間隊の逃げ足に敵うはずがなかった。


「と……殿様! 森から火の手が! わっ、何かが爆発するような音も聞こえた!」


 佐久間隊を遠くへと見失ってしまった直後、一人の長田兵がそう叫んだ。


「な、何ッ⁉」と重元は驚きの声を上げる。なんと、前方の木々が紅蓮の炎に包まれていた。


「お、織田の兵どもが、森に火を放ったのか⁉ 牛頭ごず天王てんのうゆかりの森に何ということを……!」


 火の回りが異常に早い。重元と兵たちが慌てふためいているほんの一瞬の間に、炎は押し寄せる津波のごとく、木々を焼き払いながら重元たちに迫って来た。


 これは、強風のせいだけではない。織田兵は火薬を使う飛び道具を持っていた。恐らく、放火した際に、残っていた火薬を火薬入れごと炎の中に放り投げたのだろう。


「織田の小倅こせがれめ、子供の悪戯ではないのだぞ。滅茶苦茶なことをやりおって……! 者共、撤退だ。森から脱出するぞ。脇目も振らず逃げろ!」


 織田兵を追っていたはずの重元軍が、織田の放った火の魔の手から逃走を開始した。皆ががむしゃらになって、森の南の出口を目指して走ったが、燃え盛る業火は飢えた猛獣のごとく次々と長田軍の兵たちを喰らい、呑み込んでいく。


「南へ……森の出口に向かってひた走れ! 立ち止まったら死ぬぞ!」




            *   *   *




 一方、その頃、信長軍は――。


「若大将ぉ~! 内藤様をお連れしましたぜぇ~!」


 内藤勝介隊は虎若とらわかの案内で天王の森をひた走り、森の中央地点にいた信長の本隊と合流していた。そして、しばらくして、佐久間信盛隊も無事に帰還することができた。


「信長様、ご無事で何よりです!」


「勝介、よくぞここまで敵を防いでくれたな。さあ、敵が大火事で慌てふためいている隙に、我らは北を目指して走るぞ。天王の森から脱出するのだ」


「承知しました。……されど、この火の勢いは尋常ではありませんな。まるで、火の妖術を使ったかのように、森が烈しく燃えております」


 森の南側が轟々と音を立てて炎上しているのを見つめながら、勝介はそう言って唸った。過去のいくさで火計を用いた経験はあるが、ここまでの徹底した火攻めは初めて見たからである。


「信盛に火薬を使うように命じたのだ。季忠すえただは『神聖な森を焼いたら、我らに天罰が下るのでは?』と心配していたが、何のことは無い。天より罰を受けたのは、長田重元のほうだ。奴は自ら、領民たちが大切にしていた神聖なる森を戦場に選んだ。追いつめられた我らが森に火を放つことぐらい、奴も頭の片隅では可能性として考えていたはず。それでもなお作戦を決行したのだから、これは奴の自業自得だ」


 信長は冷ややかにそう言い放つと、兵たちに全力で北へ走るように命じた。

 勝介と信盛が合流するのを待っている間に、負傷兵たちの応急手当は済ませている。自力で歩けない兵たちは元気な兵たちが肩を貸してやったり、背負ってやったりして、見捨てないように指示も与えた。


「信長! 何だ、この火事は! お前がやったのか⁉」


 撤退を始めて間もなく、信清の部隊と出くわした。

 信清は血路を切り開いて森の北側の出口近くまで進んでいたのだが、天王の森の南方からもくもくと黒煙が上がったため、


(まさか、信長の身に何かあったのか)


 と思い、弾かれるように方向転換して引き返して来たのである。


 信長は、信清の顔を見るなり、白い歯を見せてニヤッと笑った。ここ最近、まともに口もきいてくれなかった従兄弟が自分の身を案じてくれたことが嬉しかったのだろう。さっきまでの冷酷な顔はすっかり消え失せ、いつもの優しげな美少年に戻っている。


「おう、信清。息が上がっているぞ。俺のことが心配で、駆け戻って来てくれたのか」


「べ、別に、そういうわけでは……。

 そ……そんなことを言っている場合ではない! 風向きが変わったら俺たちが丸焼けになるというのに、無茶をする奴だな、お前は。さっさと森から脱け出すぞ!」


 信清は怒ったようにそう叫ぶと、信長の肩を乱暴に小突き、ムスッとした表情で走り出した。

 走りながら、くそっ、くそっ、俺はまだまだ甘い、とおのれを心の中で罵っていたが、信長はそんな信清の心情など知るはずもない。信清の横に並び、たまに従兄弟の顔をチラリと見て微笑んでいた。




            *   *   *




 同じ頃、天王の森のいたるところに隠れていた長田軍の別動隊も、この森の大火事に気づき、それぞれが森からの脱出を開始していた。


「森の周辺には、たくさんの村々や田畑、寺社がある。この火の勢いでは、天王の森の火事だけでは済まなくなるぞ。急いで森を脱け出し、鎮火せねば!」


 もう、信長軍を殲滅するどころの話ではなかった。北風の烈しさはさらに強まり、森の南側はことごとく灰燼に帰しつつある。このまま火事を放置して信長を追撃していたら、天王の森以南の多くの土地が火の海になるかも知れない。


 安全な森の北側にいた伏兵部隊も、一刻も早く森を出て火の手が迫る村々を救出せねばと、森の北や東西の出口を目指した。いくつかの部隊は、知らぬ間に信長軍と一緒に森を駆け抜けていたが、戦闘などやっている場合ではない。信長軍も戦場を離脱することに専念して攻撃をして来なかったため、そのまま肩を並べて走っていた。


「よし、森の外に出たぞ。だが、油断はするな。敵将の長田重元が逆上して、鎮火よりも我らの追撃を優先させる恐れもある。このまま走り続けて、敵の領地から脱するのだ」


 天王の森を脱け出した信長軍は、炎上中の森を迂回して村々の鎮火へと向かう長田の兵たちを尻目に、さらに北の方角目指して疾走するのであった。


 一方、重元は、信長に逃げられてしまったことを複数の将兵の目撃証言から聞いていた。


(追撃したいのはやまやまだが……)


 危惧していた通り、森の大火事は近隣の村や田畑へと延焼し、甚大な被害を出しつつあった。現地の農民たちは戦が始まる前に避難させてはいたが、住む場所を失い、田畑が使い物にならなくなれば、彼ら領民たちはこの不満を領主の重元にぶつけようとするだろう。さらに被害が拡大する前に、何としてでも鎮火させる必要がある。信長軍を追撃している余裕など無い。


「これでは、『勝った』などとは口が裂けても言えぬな。織田信長……何という恐ろしい男だ。もう二度と戦いたくはないぞ

 天王の森の北にある道場山では、今川家の隠密の御宿みしゅく虎七郎とらしちろうが信長軍を待ち伏せているはずだが、果たして討ち取れるかどうか……」


 重元は、領内を焼き尽くしていく業火を呆然と見つめながら、そう呟くのであった。






 織田信長の初陣の相手であった、長田重元。

 彼は、この戦いの後に「戦場跡で火の玉を見た」という亡霊騒ぎがあったため、敵味方の区別なく兵たちの遺体を弔った。織田の兵たちを埋葬した十三の塚は後に、「十三塚」と現地の民たちに呼ばれるようになったという。


 重元が再び歴史の表舞台に現れるのは、本能寺の変直後のことで、伊賀を越えて明智軍から逃げて来た徳川家康を白子しろこ(現在の三重県鈴鹿市白子町)の港で出迎えて、領地の大浜でもてなしている。


 重元の息子である永井ながい直勝なおかつ(永井氏に改姓)は、父を超える勇将となった。

 直勝は、家康と秀吉が激突した小牧・長久手の合戦で、秀吉方の有力武将を討ち取って戦局を左右する大功を上げている。


 その、直勝が討ち取った武将というのが――池田恒興である。

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