第19話 イグニス


「イグニスだろ? 隠れていないで出てきなよ」


 マンションの屋上で胡坐あぐらをかき、アクアは小さい双眼鏡を覗いていた。


 その双眼鏡の外装には、アクアお手製の魔法陣が描かれており、それが青白く光っている。


「俺の気配に気づくとは流石さすがだな。……ところで、アクアはいつから白髪はくはつになったんだ? テメェはストレスとは無縁むえんだと思っていたんだがなぁ?」


 アクアの背中に向かって、赤いローブをまとうイグニスと呼ばれた魔術師が声をかける。


 しかし、アクアはその問いには答えなかった。


「……科学って奴は日々の進歩がめまぐるしいね。この双眼鏡も安物だけれど、術式をほどこせばこの距離でも表情が分かるぐらいの倍率が出て便利だ」


 視線の先にいるのは、隣の男子学生と机を合わせ、教科書を覗いている東條とうじょうナルの姿だ。


 アクアは双眼鏡から視線を外すことなく、足元のビニール袋を杖でひっかけて取ると、中から近くのコンビニで買ったサンドイッチを取り出してビニールをき始めた。ビニール袋にゴミをまとめ、サンドイッチを咀嚼そしゃくする。


「科学を褒めるなんて戯言ざれごとだ」


「いや、そうとも限らないよ? 科学も魔術と同じさ。構造を理解するなら必然の積み重ねでしかない。魔力は根本から修正力をあざむく必要があるから、痕跡こんせきを残せない。つまり、その積み重ねが個々の記憶にゆだねられるわけだが――こいつも美味いな」


 もぐもぐとサンドイッチを食べるアクアに、イグニスは眉を寄せる。


 血生臭さが鼻腔びこうにまとわりついていた。


「何を企んで疑似ぎじしんを泳がせている? 魔術協会の定義からすれば、奴らは即刻処分すべきだろ? アクアが躊躇ちゅうちょしているのなら、俺がさばいてやるぜ?」


 イグニスの言葉に、アクアはようやく双眼鏡から視線を外した。


「彼女たちはまだ子供だ。チャンスを与えるべきだろう?」


「そんなのは綺麗ごとだ。世界を危険にさらすわけにはいかねぇ」


 アクアはサンドイッチを食べ終わり、白髪をかきあげる。


「綺麗ごとはイグニスの方だ。イグニスが気にしているのは地球に穴が開くことでも他人の命でもない。日本支部で転移魔術用の魔力確保が難航しているのは知っているよ? それについては私に考えがあるから、その心配はしなくてもいい。それに、イグニスが動くと言うなら、私も黙っているほど寛容かんようじゃ――」


 アクアは双眼鏡を上着のポケットに仕舞うと、立ち上がって振り返る。


 二つの魔力がこちらに近づいてくる。


 一つは魔術師のもので、もう一つは、その魔術師が従えている魔獣まじゅうだろう。魔獣からは独特の臭気がただよう。様々な魔力を複合していることから、この魔獣はキメラに違いない。


「イグニス、つけられたね?」


 アクアの鋭い視線に、イグニスは舌打ちする。


幼馴染おさななじみのよしみで今回は貸しにしておくよ。その代わり、ゴミを片付けておいてくれないか?」


 アクアはビニール袋をイグニスに手渡し、にこりと笑った。


 イグニスが顔を上げると、上空には魔力が立ち込めていた。


 獅子ししの顔と体に、蝙蝠こうもりの羽、へびの尻尾の生えた典型的なキメラが空を飛んでいる。


 そんなキメラにまたがる魔術師が、杖をアクアに向けた。


「アクア様が直々じきじきにご足労そくろうされているとはな? 相手にとって不足ない」


「……私の力を感じれば、大概たいがいの魔術師は逃げ隠れる。私に挑む魔術師となれば、それは自意識過剰なおろか者か、あるいは自殺志願の愚か者か――ふふ、君はどちらかな?」


 アクアは詠唱えいしょうもせずに空中へと浮かび上がっていく。


 そんなアクアの足元には、元は人間だったモノが三つ、いや四つ転がっていた。


 アクアが本部から派遣されて三日が経ったが、異教徒の死体は増える一方だ。


 このままでは日本の異教徒が根絶ねだやしになるのも時間の問題だろうとイグニスは思う。


 イグニスも、アクアがこれほどの力をたくわえているなど知らなかった。いつの間にこれほどの鍛錬たんれんを積んだのか――いや、それよりも、また死体処理班に小言を言われることの方が厄介やっかいか。


 空中に魔法陣が幾重いくえにも描かれ、アクアの戦いが始まる。


 イグニスはそれを真剣な表情で見つめる。


 それなりの力を持つ異教徒を、ここまで誘導するのは大変だった。


 アイツでは力不足かも知れないが、アクアの力を見定める必要があるとイグニスは考えていた。……アクアはイグニスの視線に気づいているし、どこまで実力を確かめられるかは定かではないが。


 イグニスはアクアを見上げながら考え続ける。


 髪が白くなってしまうのは、自らの持つ精神エネルギーを超えるほどの魔術――禁忌きんきを発動させた魔術師の共通点だった。


 つまり、アクアは禁忌に触れているのだろう。


 問題は、アクアがどんな禁忌を発動させているのかということだ。


「幼馴染のよしみで、魔術協会には黙っておいてやるさ。俺の切り札は魔術師を絶対に倒せるからな。俺と本気でやり合えば、アクアが何をしようとしても無意味だぜ?」


 アクアはイグニスに振り返る。


「私はすでに魔術師ですらないよ? その力の一端いったんを、イグニスにも見せてあげよう。これはひとつの借りだね」


「なにをぉ!? それなら俺だって借りを返すためにだなぁっ!」


「……口はわざわいの元だ。恰好かっこうが付かないから、イグニスは黙っていてくれないか?」

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