Ⅺ 最後の戦い (2)
走ることに足が悲鳴をあげている。時折ギシっと嫌な音がして、その度にエリアは足を休める。さっきまでずっと密室に閉じ込められていてからの、全力疾走を続けなければならないキツさ。それも、周りに人がいない事を確認しながらだ。
エリアはそれでも走る。呼吸をするだけで胸が痛くて苦しい。それでも、辿り着かなければいけない場所がある。
「……見えたっ!」
重い扉を開いて、曇り空が見えた。
懐かしの屋上には人は一人しかいなかった。その足元には、小さなランタンの中に火が灯っており、それを火種としたであろう火を纏った矢を弓につがえ、城下の一点を見据えながら、風の流れを読んでいるように見える。赤い髪を一本に束ねた女性はその時をじっと待っているように見えた。
「アリス!」
エリアは叫ぶと同時に、疲れ切った足をなお、前に運んだ。ひたすら真っ直ぐにアリスだけを目掛けて走る。
「エリア、どうして?」
アリスはその声に反応して振り返った。そこにはいるはずのないエリアがいて、しかも自分目掛けて真っ直ぐに駆けている。流石のアリスも一瞬で状況を把握するのは困難だった。
エリアは声を上げながら、アリスにガバッと抱き着く。衝撃でアリスの手から火の点いた矢が零れ落ち、床と擦れた衝撃で火が消える。
アリスはエリアの抱き着きの衝撃で、三回も転がりながら、受け身を取って体勢を立て直した。一方のエリアはその衝撃に少しうずくまっていたが、ほどなくしてフラフラと立ち上がった。
「エリア……」
アリスは未だ信じられない、といった表情を浮かべている。エリアはアリスの瞳が昨日よりもくすんでいることと、目の下にクマが出来ていることが見て取れた。おそらく夜通し寝ていないのだろう。
「何で」
「アリスを止めに来たんだよ」
アリスの質問に対して、エリアはピシャリと返した。目を見開いていたアリスは、突然大きな声を上げて笑い出した。
「まさか、それだけの理由で脱獄をしてきたというの?しかも一人で」
楽しそうに笑う顔はアリスのものだが、やはりその瞳は明らかに今までの彼女のものとは違っていた。
「一人じゃないよ。バルドも手伝ってくれた」
「……なるほど、道理で」
アリスは舌打ちをしながら、納得がいったというように頷いた。
「アリス」
もうこんなことはやめよう、そう口にしようとした途端に、アリスから矢継ぎ早に質問を浴びせられる。
「どうして、私がここにいると思ったの、エリア」
「どうして……って?」
エリアの言葉に、アリスは鼻で笑った。
「私がここにいるという確信をどこで得たのか、ということよ。しかもここに来て止めにきたという事は、私がこの手で火を点けると思っていたんでしょ?どうして、部下にやらせて自分は高見の見物をしているとか、そういう発想にならなかったのかしら?」
なんで、と言われるとエリアは考え込んでしまう。確かに普通に考えれば、別々の場所に部下を忍ばせ、そこから火矢を放った方が確実であるし、自分はどこか見えるところで指示を出せばいいだけだ。でも、エリアはそんなこと考えもしなかった。
「……アリスが、人に嫌なことやらせるはずがないって、思ったから」
エリアの導いた答えはそれだった。アリスは意味が分からない、とばかりに顔を歪めた。
「きっと、他の人を避難させるのと同時に、城下に爆薬を仕込んだんだよね?あの馬が積んでいた樽がきっとそれだったはず」
アリスは何も言葉を返さない。エリアはそれを肯定だと受け取った。
「樽を置く場所は、アリスがあらかじめ指示していたはず。一つの樽に火が付くと、連鎖反応で他の爆薬樽も誘発するように。そしてアリスはある一つの樽を狙って矢を放つ」
エリアは強い風の煽りを受けながら、髪が靡くのを感じる。この風は城下に向かって吹いているようだ。エリアは城下に視線を向けた。
「確かに、弓の名手は城にいるし、もっと大人数でやれば火の回りは早いし自分は別の場所で顛末を見ればいい。そう思うよ」
でも、と言葉を繋いだうえで、エリアはアリスに視線を戻した。
「でも、アリスはそうしないって、知っていた。だってどんなことでも自分で決着をつけたがるような真っ直ぐな人だと知っているから。国を愛する部下に国を滅ぼさせるなんてことはさせない人だと知っているから」
そして、実際にそれは当たっていた。アリスは自分自身の保身よりも、決着をつけることを選んで、この屋上に参じたのだから。
フウ、とアリスは大きなため息を吐いて空を見上げた。そうして十秒程度の沈黙が流れる。エリアもじっとアリスを見つめていた。
「私のこと、良く知っているみたいな口を聞くわよね」
アリスはポツリとそう呟いた。エリアはその呟きに対して、反応を見せなかった。
「私はね、エリア」
アリスはフラフラとエリアに向かって歩き出した。
「自分が滑稽で、無様で、情けなくてしょうがないのよ。信じていたものは虚妄で、憧れていたものは自分にはたどり着けない場所で、受けていたと思っていた愛情など存在しないまやかしだったのよ?」
アリスは感情を次々に吐露していく。目の焦点がどこかずれているのではないかと思うくらい危険な状態にある。きっと彼女にはエリアしか見えていないはずだ。
「こんな空虚な場所……私だけが爪弾き者だったのよ。馬鹿みたいでしょ」
アリスは苦しそうに声を出している。目には涙すら浮かんでいる。
「ねえ、エリア」
アリスはキッとエリアを睨んだ。
「私の欲しいもの全てを貴女が持っているのよ?」
エリアはその言葉に胸が痛くなった。
「だって、貴女はサーファルドなのよ?私とは違う」
どうして、あそこまで強く気高かった彼女が、こうまで変わらなければならなかったのだろうか。アリスは強くて、優しくて……。
「全てが……憎い」
アリスはエリアの目の前まで辿り着いた。顔と顔が近付き、鼻が当たってしまいそうなほどの距離だ。
「自分自身の出生を知らなかったことも、教えてくれずに利用していた母も」
アリスは血走った目でエリアを睨んでいる。
「私自身も、エリア貴女も!」
アリスはガッとエリアの肩を掴んだ。
「憎くて憎くてしょうがないのよ!」
エリアはその言葉を受け、ツ゚ゥと涙が頬を伝った。
「アリス。そんなことを言わないでよ」
アリスはエリアの様子をジッと睨んでいる。エリアはアリスの腕を振り払って一歩後ずさった。
「アリスは、この国を愛していたはずだよ。だってあれだけ民のために全力を尽くせるんだもの。それに他の国の事とかずっと勉強をしていたでしょ?それはお父様の跡を継ぐために、だよね?それだけ必死になったのにどうして」
アリスは無言でエリアを見つめている。
「私はアリスが優しいことを知っているよ。強いことを知っているよ」
そして、エリアは何かを決心したように強く頷いた。
「今のアリスは心の闇に支配されているんだよ。人は誰でも、きっと自分の中にある悪意に負けそうになることがあると思う」
怒りや憎しみ、嫉妬、負の感情は人間という存在を蝕んでいく。事実エリアがそうであったように、とても強いものなのだ。
「私も、弱い人間だから。飲み込まれそうに何度もなったよ」
エリアとアリスの視線は外れることはない。エリアは強い眼差しをアリスに向け続ける。
「でも、アリスの知らない間に私も色々な事があった。良いことも悪いことも、沢山あった。でもそれをずっと共有出来る人がいたんだ」
人、という表現を彼は嫌いそうだな、などと心の中で思いながら、エリアは言葉を続けた。
「私はそれで変われた、のかは分からない。でも向き合っていこうと思えたよ。間違っていることを間違っていると言ってくれる人が、どれだけ大切か……」
アリスはエリアを変わらず睨みつけている。瞬きすらしないその姿は、どこか不気味ですらあった。
「ずっと逃げ続けてきた場所だったんだよ、ここは。私はずっとここではない帰るべき場所を探して彼と一緒にいたんだ」
今度はエリアが一歩ずつアリスに向かって歩き出した。アリスはそれに呼応するかのように、逆に一歩ずつ後ろに歩みを進める。
「でも、ここに住む人が苦しんでいると聞いて、アリスが苦しんでいると知って、戻ってきたんだ。今なら思うよ、逃げ続けてきたここが帰るべき場所だったのかもしれないって」
エリアとアリスの視線は交差したまま、二人は対象に歩く。
「だから、滅ぼしちゃ駄目だよ。ここは私の帰るべき場所で、きっと……アリスにとってもそうであるべきだから」
エリアはアリスに手を差し伸べる。アリスはその動きに戸惑いを見せた。
「な、にを」
「アリス。私が貴女の支えになるよ、だからこんなことはもうやめようよ」
アリスは差し出された手をじっと凝視している。その手を掴むべきか迷っているようにエリアには見えた。
「貴女は何かを奪う側になっては駄目」
エリアの強い視線にアリスはスッと顔を伏せた。再び沈黙が訪れる。
「本当に」
沈黙を破ったのはアリスだった。
「本当に強くなったのね、エリア」
スッと顔を上げたアリスは少しだけ微笑んでいた。
「アリス……」
エリアが僅かに頬を緩ませた、その時。
「虫唾が走るわ。まるで旅を通じて成長したよ、とでも言いたげで」
アリスは眉間に皺を寄せながらエリアを睨みつけた。その形相にエリアは思わず恐怖を感じてしまう。
「ああぁぁ」
アリスは大声を張り上げるとともに後ろに駆け出し、落ちている弓と矢を拾って近くに置いてあった火種に矢じりを近付ける。
「アリス!」
エリアは叫んで駆け出した。アリスはまだ自分自身の手で思い出のあるこの国を滅ぼそうと思っている。何とかして止めなくてはならない、という考えだけが頭を巡っていた。
「そんなに大事なら」
アリスがそう呟きながら弓を構えると、突然彼女の後ろからモゾモゾと黒い塊のようなものが浮かび始めた。
「ここで、全て滅んでしまう瞬間を見ていなさいよ」
アリスはキッと一点を狙って弓を強く引いている。あとは風を読み切れさえすればもう矢を放つだけだ。
「エリア……」
時々体勢を崩しながらも一直線に向かってくるエリアを見ながらアリスは、聞こえないであろう位小さな声で呟いた。
「結局、貴女は私よりも強い人間なのよ」
アリスの背後より巨大な黒い影がうごめいていた。
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