106 男子高校生的に割とラッキーな1日(中)


 朝の生徒会選挙のパンフレット配りを終え、真也は教室へと帰ってきていた。

 真也は机に上体を伏せ、心の中で呟く。


(そんなに、パンチラすることって、ある?)


 朝、校門前でパンフレットを配る間にも、いたずらな風によって登校中の女子生徒たちのスカートが何度も跳ね上がった。


 何せ回数がおかしい。3回目から先を数えるのがバカらしくなり、その後、話のネタとしてむしろ数えていればよかったと錯乱するほどの回数、真也は女性用下着とおはようございますを交わした。


 言わずもがな共にパンフレットを配っていたまひるの機嫌は見る見る悪くなっていき、最後にはオマケと言わんばかりに真也の目の前でもう一度まひるのスカートが風に跳ね上げられ、二度目のパステルピンクに遭遇した。


 まひるにじとりと睨まれたのはもちろんのことだが、殴られなかったのは奇跡だったと言える。


 今日の異常なラッキースケベ。真也の心当たりは、一つしかない。『異性との距離が近づく』『恋愛運が最高潮』。朝見た占いが関係しているのではないか。


「これは……恋愛運とは違くないか……? というか、全国の獅子座でB型の人の前で同じ現象が起こってるとか、今日の日本やばいでしょ……」


 ぼそりと呟く真也だったが、占いのせいでこうなっていると断じてしまうあたり、だいぶ追い詰められていた。


 そんな真也の肩を、誰かがトントンと叩く。

 それに反応して真也が顔を上げると、真也の横に立っていたのは、レイラだった。


 今日は寝坊をしなかったのだろう。時間はいつも通り始業ギリギリだが、お団子にまとめられていない金髪がサラサラと流れて自慢げに光を放っていた。


「おはよう、真也」


 少しまだ眠そうにニコリと微笑むレイラに、普段の真也であれば満面の笑みで挨拶を返すところだ。だが、今日は違う。


「れ、れいら……おはよう……ございます」


 真也はぎこちなく挨拶を返し、少し上体を仰け反らせ、レイラと物理的な距離を保つ。


「どうしたの?」

「お、俺に……近づかないで……」


 いつもと違う真也の様子に、レイラは訝しげな顔をして近づこうとするが、真也はそれを恐怖の面持ちで制した。

 急に『近づくな』と言われたレイラは、少し不安そうな顔で真也を見る。


「どうして? ……なにか、私に問題が?」

「いや、そうじゃなくて! もしレイラの身に何かあったら……」

「……変な真也」


 下唇を突き出して少し不機嫌そうに疑問の声を上げながら隣の席に座るレイラに、真也は話題を変える。


「あ! そうだ、この前借りてた本なんだけど……」


 真也が鞄取り出したのは、ロシア語で書かれた絵本だった。


 オリエンテーション合宿以降も、少しずつ真也はロシア語の勉強を続けていた。

 本屋でロシア語のテキストを買ったりもしたが、やはりロシア語は難しく、レイラに相談したところ、レイラの好きな絵本を渡されたのだ。


 お姫様が悪い魔女に捕まり、それを王子様が救い出す、というベタな内容の絵本で、真也はレイラの意外なチョイスに頬を綻ばせたのだが、子供向けの絵本とはいえやはりロシア語は手強く、辞書片手になんとか読み進めていた。


「うん。どう、だった?」

「実は、ここの意味がわからなくて」

「……どこ?」


 レイラが席を立ち、真也のすぐ横で本を覗き込むように背をかがめる。

 真也のすぐ真横にレイラの顔が近づき、さらりと流れた金髪をかきあげる仕草に真也はどきっとする。


 しかし、今日に限っては彼女が自分に近づくのは危ない。


「い、いや、レイラ、俺に近づいたら……」


 注意しようとレイラの方を見ると、男子高校生……いや、男なら誰も抗えないような光景が目に飛び込んでくる。


「あ……」


 レイラのワイシャツのボタンがひとつ、外れていた。よりにもよって、上から3つめ。

 美咲ほどではないにしろ存在感を放つレイラの胸がワイシャツの間から顔を出し、谷間が真也の眼前に晒される。


(遅かったか……白……)


「で、どこが、分からなかった?」


 当の本人は自分が男子に胸をさらけ出しているとは露にも思わず、真剣な顔で真也に話しかける。


「え、あ……この文章なんだけど」


 真也は、なんとかレイラの谷間から目線を離し、絵本に向き直す。


 レイラにボタンが外れていることを注意すべきだと真也の中の正義感が告げる。しかしそれは、「俺、君の谷間見たよ」というのと同義だ。


 女子に向かってそんなことを言えばどうなるか、真也は全く想像がつかなかった。


 しかもよりによって、嫌われたくない相手。軽蔑されたらどうしよう、という考えがよぎる。

 しかし、言わなければレイラはクラスメイトたちに谷間を晒すことになる。それもいやだが……しかし、そうすれば「真也が谷間を見た」かどうかは分からない。

 究極の選択に真也が頭を悩ませていることを知らぬレイラは真也の質問に答える。


「ああ、それ、ロシアのことわざ。熊の親切」


 ロシア語を解説できるのが嬉しいのだろう、レイラは声を弾ませ、真也の方に体を向ける。


 もはや、真也の肩の少し先にレイラの谷間が迫っている。


「熊の親切、おせっかいのこと。クマ、ハエを退治しようとして、おじいさんを殴り殺した話が元」

「へ、へえ。グロいね……へぇ。そっかぁ、クマがねぇ」


 真也はうまく会話できていると思っていたが、完全に上の空。必死にレイラの顔から目線を離さないようにしているにもかかわらず、その目線は何も捉えていない。


「……どうしたの?」


 

 異様な様子を見せられたレイラは、ことりと首を傾げる。腰に両手を当てて真也に問いただすが、その動きによってより自分の胸元が大きく露出されていることには未だ気づかなかった。


「う……いや……」


 もうここまで来たら、言い逃れはできまい。

 真也は意を決して『まるで今気づきました』と言わんばかりのリアクションを起こす準備をする。

 即言わないで、さっきまで気づかなかったふりを先に入れるのはあまりにも態とらしく小市民すぎるが、しかし真也にとっては一世一代の大芝居だ。


 今度ばかりは、はっきりとレイラの谷間を見てから口を開く。


「う、うわー、れ……「おはよー、間宮。昨日ゲームやりすぎて寝坊したけど間に合ってよかったー」


 真也が口を開くのに被さるように、真也の後ろから声がかかる。声の主を真也は見ずとも理解できた。伊織の声だ。

 絶妙なタイミングでの友人の襲来に、真也は固まる。


「なあ間宮、この前一緒にやったゲームなんだけど……。ん? なに見てんの? ……あ」


 真也に話しかけた伊織は固まった真也の目線の先を追い、少し驚いたように耳をピンと立てると、スタスタとレイラの元へと向かう。


「押切、おはよう」

「うん。おはよう。……レオノワ、ちょっと」


 伊織は真也とレイラの間に立つと、手招きしてレイラを少し屈ませ、耳打ちする。

 レイラの目の前に立ったのは、彼女の胸元を隠すためだろう。


「……ッ! うそ!?」


 伊織のひそひそ声に大きく反応したレイラの表情は伊織のうさ耳のせいで真也にはよく見えなかった。


 レイラがもぞもぞと動き、伊織はレイラの様子に頷くと真也の側へと歩いてくる。表情は、少し意地悪そうな笑みだった。


 伊織という壁が取り払われ、レイラの顔がしっかりと見える。ぎゅっと握りしめられたワイシャツの胸元のボタンは、しっかりと留められていた。


「み、見た?」


 目尻に少し涙を浮かべ、羞恥から顔を真っ赤に染めたレイラの瞳は、普段の無表情が嘘のように真也を睨みつけていた。


「あ、え……その……熊の親切なのかと……」


 真也はなんとか上手いこと返そうと思い、そして完全に失敗した。


「……バカ!」


 レイラはそう叫ぶと、スタスタと教室を出て行く。

 熊の親切。真也は親切心を見せた熊というよりも、殴り殺されたおじいさんの方だった。


「あ……あああぁぁぁ」


 真也の口から、悲痛な声が漏れる。


 最後の返事に関しては完全に真也のミスだったが、それでも、先ず『ワイシャツのボタンが外れる』なんてことがなければこんなことにはならなかっただろう。

 なにが、最高の恋愛運だ……。真也は頭を抱え、ごつんと音を立てて机の上に頭を打ち付けた。痛みは一切ないが、心は張り裂けんばかりに傷ついた。


 そんな真也の肩を、伊織がぽんぽんと叩く。


「間宮、ガン見してたね」

「……ほっといてくれぇ……」


 真也は本格的に、早退について検討した。

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