056 熱烈な歓迎


 早朝、真也たちを乗せた船は、ロシアのハバロフスク地方にある『オホーツク港』へと到着した。


 少しどんよりとした天気であったが、出迎えるオホーツク港の住民たちの顔は明るい。


 普段、ロシアの軍人しかいないこの街に、若い異邦人が来るというのは一大イベントなのだろう。『どうも!ロシアへ!』と誤訳混じりの横断幕も、真也たちには温かい心遣いに感じられた。


 刺繍の施されたワンピースのようなロングスカート、サラファンという民族衣装に身を包んだ街の子供達が、列をなして一年生たちを出迎える。

 「ロシアニヨウコソ!」と連呼しながらの出迎えに、一年生は皆笑顔を返した。


 真也もまた、タラップを超えてロシアの地に降り立つ。


 並ぶ子供達の中に、ひとり、真也と同い年くらいであろう少女が見受けられた。

 子供達と同様にサラファンに身を包んでいるが、その模様は他の子供のものよりも複雑で、上等そうだった。


 子供達のお姉さん的存在なのか、手を後ろに組んで、ニコニコとしながら下船する一年生たちを見守っている。


 真也の目線に気づいたのか、その少女は真也と目があうと、笑みを強くした。


 少女は、緑の瞳に笑顔を湛えたまま、近くの子供たちに何か言うと、列を離れ、縦ロールの銀髪を揺らしながら、真也の方へと軽やかに駆け出す。


 整列下船をしていなかったため、真也は少女がこちらに走り寄ってきたことから足を止めた。

 伊織は真也が立ち止まったことに気づき、声をかける。


「ん? どうしたの間宮」

「いや、なんかあの人、こっちにくる」


 真也の言葉を受け、伊織も走り寄ってくる少女を見つけ、ニヤリと真也に笑いかける。


「モテるじゃん間宮」

「やーめーろ」


 真也が囃し立てる伊織に恥ずかしげに返答すると、伊織は思い出したように真也に告げる。


「あ、練習したロシア語使ういい機会だな」

「挨拶だけだぞ?」

「挨拶だけでも、だろ。ほらほら、がんばれ間宮」


 真也と伊織が言い合う間に、少女は真也の前へとやってきていた。

 エメラルドの宝石のような瞳が、じっと真也をとらえる。

 こちらに来たのに一言も喋らない少女に、真也はおずおずと挨拶をする。


「えーっと……プリヴェ!」


 なんとかロシア語で挨拶を切り出した真也に、伊織が吹き出す。


「ぷっ、短い方!」

「う、うるさいなぁ」


 言い合う2人とは裏腹に、プリヴェと言われた少女の顔が、微笑みから満面の笑みへと変わった。


「プリヴェ!」


 少女はそう返答すると、真也に抱きついた。


「えっ、ちょっ」

「ーーー、ーーーーー!」


 早口にロシア語で話す少女が何を言っているのか、真也には分からない。


 真也の体の前面には、柔らかい少女の感触が広がり、香水の良い匂いが鼻をくすぐった。


 口調や表情からして怒っている訳ではなさそうだが、急に美少女に抱きつかれた真也は痴漢冤罪を防ぐかのように両手を挙げ、降参といった様子で、なされるがままである。


「ちょ、ちょっと」


 真也は助けを求めるように伊織へと視線を向ける。


「……モテモテだな、間宮」

「そ、そんなことを言わずに助けてくれよ伊織!」

「美少女に抱きつかれて『助けて』とはいいご身分だな」

「いや、美少女でもいきなりこれは! どどど、どうすりゃいいんだよ!?」


 真也の言葉に反応したのか、抱きついていた少女は真也から少し体を離す。

 しかし、完全にその体が離れることはなく、そのまま真也の胸元に両手を乗せて、引き続き真也へとロシア語で話しかけ続ける。


「ーーーー、ーーーーー?」


 完全に恋人の距離であり、真也の視界は、きらめく銀髪と白い肌、そして、白いまつ毛に縁取られた緑の瞳で埋まっていた。


 こんな姿をレイラに見られたらどうなるか、と真也はヒヤヒヤするも、少女の香りと、柔らかい感触に思考を奪われる。


 そんな2人の様子に、伊織は目尻を吊り上げ、いつもより一段低い声で言葉を放った。


「……ちょっと、キミ」


 普段聞かない伊織の声に、真也は自我を取り戻すと、焦って言い返す。


「あ、いや、伊織、日本語通じないって!!」


 焦る真也に、伊織は冷静に言い返した。


「通じるよ」

「え?」

「オーバードだよ、その子。バングルつけてる」


 その言葉に、少女は残念と言わんばかりに眉を下げ、真也から離れて自分の腕を見せる。

 そこには確かに、黒い識別バングルが巻かれていた。


 バングルが巻かれているということは、伊織の言う通り、共通概念で会話ができるということである。


「オーバードなのに、ワザとロシア語を話してたんだよ、その子」


 伊織に指摘された少女は、いたずらっぽく舌をぺろりと出すと、はにかむ。

 この少女は、昨日のレイラのロシア語講座の時のように、『ロシア語を話す』と念じることで、『ロシア語しか通じないフリ』をしていたのだ。


「バレてしまいましたのね」


 急に流暢な日本語になった……日本語に聞こえるようになった少女の言葉に、真也はホッとして胸を撫で下ろす。


「なんだぁ……よかったぁ」


 言葉が通じると分かったこともそうだが、少女が自分から離れてくれたことにも、真也は安心した。


 そんな真也に、少女は可愛らしく首を傾げながら謝罪する。


「うふふ、ごめん遊ばせ。ロシア語でご挨拶いただいたのが、うれしくって」

「オーバードだったんだね。びっくりした」

「驚かせて申し訳ありません。

 初めまして。私、ソフィアと申しますの。ソーニャ、とお呼びくださいまし」


 丁寧な口調でソフィアと名乗った少女は、真也から抱きつくのをやめてもなお、その距離は近かった。


 外国人というのは、やはりフランクな人が多いのだろうか、と真也は思ったが、レイラはそうでも無かったと思い直す。レイラとは、会ってすぐ下の名前で呼ぶようにはなったものの、こんなに過激なスキンシップには覚えがなかった。

 であるならば、これはソフィアという少女の性格なのだろう。


 ソーニャ、と呼んでほしいという希望に沿うよう、真也は口を開く。


「ど、どうも、ソーニャさん」

「さん、なんていらないですわよ?」

「え、あーっと」


 女子の名前をいきなり呼び捨て、は真也の最も苦手とする所である。

 しかし、口ごもる真也を少女は逃さない。

 真也の右手を両手で包むと、自分の胸元に当てる。

 ふにゅり、という感触が真也の手に伝わり、ドギマギとする真也に向けて少女は言葉を放つ。


「はい、私に続いて? ソーニャ」

「そ、ソーニャ」

「はいっ」


 笑顔で返事する少女は、とても美しいが、真也が前にも何処かで感じたことのある『不安感』があった。

 その元凶は、少女の目の奥に隠された澱みであったが、真也はそこまで思い至ることができなかった。


「あはは……」


 ソーニャ、と呼んでも一向に離してくれない右手の処理に困りながら、真也は愛想笑いを返す。

 ソフィアは、そのままの体勢で、真也へと再度、伝わるように挨拶をした。


「ロシアへようこそ。お会いできて光栄ですわ」


 真也の右手を掴んだまま、ソフィアは腰を下げて優雅にお辞儀をする。

 その動きに引っ張られた真也の右手は、不可抗力とはいえソフィアの柔らかい胸の感触を伝えてくる。


 伊織は、あまりにも馴れ馴れしいソフィアの態度、そしてそれを甘受する真也に苛立ち、真也の空いていた左手をつかんで引っ張る。


「ソフィアさん。悪いんだけどボクらは行かなくちゃいけないんでね。ばらばらと歩いてるけど、団体行動中なもんで」


 ぐ、と引っ張られ、真也の体勢が崩れるが、それでもソフィアは真也の右手を離さない。


「あら、申し訳ございませんでした。

 あなた、エボルブドなのですね、かわいいうさ耳ですわね。女の子らしくって、素敵ですわ」

「あっそ」


 『女の子らしい』というソフィアの言葉に伊織はより腹を立て、ソフィアとの対話を終了させることにし、真也の左腕をより強く引く。


 真也は「いてて」と軽く悲鳴をあげるが、双方、それに意に留めることなく、引っ張り合いが続いた。


「あら、つれないんですのね?」

「キミが変なんだよ。フランク過ぎ」

「そんな悲しいこと、言わないで欲しいですわ……でも、美少女、と言っていただけたことは嬉しいですわ」


 美少女、と伊織も真也も言っていたのは、日本語が通じないと踏んでいたからこそであり、盗み聞きされた気分だった。


「……いい性格してるね」

「よく言われます!」


 満面の笑みで言葉を返すソフィアに、伊織は完全に怒髪天を衝く。

 その様子を表すかのように、伊織の耳もまたピン!と真っ直ぐに立ち上がり、短い毛も逆立っていた。


「ハッ! 本当にいい性格だよ! じゃあね、ソフィアさん!

 い・く・よ! 間宮!!」

「あ、おう」


 真也がソフィアの拘束を逃れるように腕を引くと、今度はいとも簡単に、ソフィアが手を離した。


「では、『また後で』。シンヤ様」

「え? あ、はい」


 真也は適当に返事を返すと、伊織に引かれるままに下船する生徒たちの群れへと合流した。


「……なんだったんだあの子?」

「どうでもいいよ、あんなの。性格悪すぎ」

「伊織、怒りすぎじゃないか?」


 未だソフィアの肩を持つ真也に、伊織は荒い言葉で言い放つ。


「ああいうタイプはキライなんだよ! どんな相手でも、自分が好かれてて当たり前、みたいな奴!」


 それは、誤解されたまま様々な色恋に巻き込まれてきた伊織にとって、一番嫌いなタイプだった。

 しかし、伊織がソフィアを嫌いと断じたのは別にも原因がある。


 伊織の耳は、先ほどまでの会話で、少女の、真也に対する異様なまでの『恋心』を感じ取っていた。

 それと同時に自分に対して強い『敵意』を向けてきた事もまた、理解していた。



 まるで、ボクが間宮と付き合っててそれに嫉妬されているようじゃないか。



 その誤解は伊織には許せなかったし、昨日生まれたもやもやとした心が、より不安なものにさせられる。


 イライラとしながら伊織は列を掻き分け先に進む。

 ドカドカと他の生徒に当たるたび、真也は謝罪しながら伊織の手に引かれて行った。




 ある程度進んだところで、伊織はふと気づく。

 少女は、「また後で。シンヤ様」と言っていた。


「……あれ? なんでアイツ、間宮の名前を知ってたんだ?」


 ぼそりと呟いた伊織が振り返った先には、もうソフィアは居なかった。

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