王弘5  貴顕の処世   

劉義符りゅうぎふを廃立するための

謀議に巻き込もうと、徐羨之じょせんらは、

王弘おうこうを朝廷に召喚した。


このことにより、

実際に参与したかどうかは不明だが、

「合流した」とは見なされたようである。


そして、劉義隆りゅうぎりゅうが即位。

ここで王弘は持ち前の儀礼知識を活かし、

即位の儀式を取り仕切った。


この功績により

司空しくう建安けんあん郡公への昇格が図られたが、

王弘は辞退した。

その変わり、車騎しゃき大將軍に昇進。

それ以外の待遇はもとのままであった。


後日、いよいよ劉義隆が、

徐羨之らを廃立弑虐の大逆にもとづき

誅殺しよう、ということになった。


王弘もここに一枚噛んでいたため、

罪に問われることになったのだが、

首謀者ではないこと、

また弟の王曇首おうどんしゅが劉義隆の寵臣であり、

劉義隆を説得にかかったことなどから、

大きな咎めを受けることはなかった。


なお徐羨之ら誅殺の謀議が動く直前、

王曇首から、王弘に宛て、

密書が飛ばされていたという。


徐羨之の死により、

空白となった行政トップの座。

この地位が、王弘に回ってくる。


また劉義隆自ら謝晦しゃかい討伐の

軍を立ち上げたときには、

劉裕りゅうゆうの息子の一人である劉義康りゅうぎこう

建康けんこうでの留守を守った。


王弘は中書ちゅうしょ下省かしょうに、

護衛を連れしばしば訪問。

自らの役所である司徒府は、

幹部に取り仕切りを任せた。


そして、432年。

さらなる昇進が図られたが、

その年に死去。54 歳であった。


この高位に至っては、

もはや追贈できる官位もない。

そこで葬儀が、皇帝に準じるグレードで

執り行われるのだった。



文昭ぶんしょう公と諡され、

劉裕の墓地にも合わせて祀られた。




少帝景平二年,徐羨之等謀廢立,召弘入朝。文帝即位,以定策安社稷,進位司空,封建安郡公,固辭見許。進號車騎大將軍,開府、刺史如故。徐羨之等以廢弑罪,將及誅,弘以非首謀,且弟曇首又為上所親委。事將發,密使報弘。羨之既誅,遷侍中、司徒、揚州刺史、錄尚書事,給班劍三十人。上西征謝晦,與彭城王義康居守,入住中書下省,引隊仗出入,司徒府權置參軍。元嘉九年進位太保,領中書監,餘如故。其年薨。時年五十四。贈太保、中書監,給節,加羽葆、鼓吹,增班劍為六十人。諡曰文昭公,配食武帝廟庭。


少帝の景平二年、徐羨之らは廢立を謀り、弘を召し入朝せしむ。文帝の即位せるに、以て策を定め社稷を安んじ、位は司空に進み、建安郡公に封ぜられんとせど、固辭し許さるを見る。號は車騎大將軍に進み、開府、刺史は故の如し。徐羨之らの廢弑の罪を以て將に誅さるに及ばんとせるに、弘は謀の首に非ざりたるを以ち、且つ弟の曇首の又た上に親委さる所と為す。事の將に發さんとせるに、密かに使をして弘に報せしむ。羨之の既に誅さらば、侍中、司徒、揚州刺史、錄尚書事に遷り、班劍三十人を給さる。上の謝晦を西征せるに、彭城王の義康と居守し、入りて中書下省に住き、隊仗を引きて出入し、司徒府に參軍を權置す。九年に位は太保、領中書監に進み、餘は故の如し。其の年に薨ず。時に年は五十四。太保、中書監を贈られ、節を給され、羽葆、鼓吹を加えられ、班劍を增やし六十人と為す。諡を文昭公と曰い、武帝の廟庭に配食せらる。

(宋書42-15_為人)

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