五行6  草木の戒め   

孝武帝こうぶていの末年頃。

建甯けんねい同樂どうがく県の枯木が

ぽっきり折れたはずが、

何故か倒れずにいた。


ここでも京房けいぼうの【易傳えきでん】を引いてみよう。


「正しいことを打ち捨て、

 邪なことをなせば、

 厥妖けつようは木を割り、

 その割れ目に潜り込むのだ。


 このとき、妃の専横があるだろう。

 折れた筈の木が立ったままでいるのは、

 こうした自然に逆らった現象が

 発生することを指す」


……といった感じだろうか。


この時中央では多くの失政があった。

司馬道子しばどうしは我が物顔で振る舞い、

清廉なる家臣たちは左遷か、殺害。


さらに、ちょう夫人である。

彼女は孝武帝からの寵愛を受けたが、

「お前老けたなw

 そろそろお払い箱だわw」

と言われたため、孝武帝を殺した。


厥妖は、まさに張婦人の暴挙を

見越していたと言えるだろう。



安帝あんてい桓玄かんげんに簒奪される直前。

荊州けいしゅう江州こうしゅう の境界エリアで、

竹の実がわさわさと生った。


竹は、数十年の生涯の末に花を咲かせ、

実をつけ、そしてその生涯を終える。

つまり、一本の竹あたりだと、

数十年に一度きり。


その一回だけでも割と不吉とされるのに、

それが、一斉だ。

ヤバい。



桓玄が打倒されてから二年後、

揚州ようしゅう府詰めの揚武ようぶ将軍配下、

陳蓋ちんがいの家にはえていた苦蕒菜が、

ものすごく大きくなった。

高さは1メートル強、

廣きは70センチほど。


なおこの現象は、

三国時代の孫呉そんごが滅ぶ直前にも

発生していた、という。



おなじく、義熙ぎき年間。

建康城の皇帝専用の通路、

その周辺にハマビシという、

めっちゃトゲトゲした草が生い茂った。


トゲトゲした草であるから、

それを踏んで歩くことなど叶わない。

そんなものが宮廷、通路付近に生える。


これは、天よりの警告だったのだ。

たぶんこんなかんじ。


「君主ともあろうものが、

 施政については手をこまねき続け、

 しかもろくろく上申に

 耳も傾けないのであれば、

 玉座に皇帝がいたところで

 いないに等しい。


 いくら皇帝のための通路が

 確保されていたとところで、

 そこを皇帝が用いないのであれば、

 ハマビシもしげり、

 ただの荒れた空間になるだろう」


……この、天意とか言いながら全力で

個人的見解でぶん殴る感じ、

嫌いじゃないですよ?



太社、おそらく皇統に関わる祭事を

司る神殿の祭壇、そのそばに、

「薰」の樹が生えた。


そいつの詳細は不明だが、

ともあれ、その木に刻まれていた文様が、

黒い。とにかく黒い。


黒といえば、中国では北=玄武=水。

五行相生説(木→火→土→金→水→木→…)

に基づけば、金徳の次には水徳が来る。


つまり、水徳の王朝が間もなく生まれる、

という予兆であったと言える。


いやいや、どうでもいいけど、

「なんで宋が水徳に合致する王朝なのか」

を語ってくださいませんかね……?




晉孝武太元十四年六月,建甯同樂縣枯木斷折,忽然自立相屬。京房易傳曰:「棄正作淫,厥妖木斷自屬。妃後有專,木僕反立。」是時治道方僻,多失其正。其後張夫人專寵,及帝崩,兆庶歸咎張氏焉。晉安帝元興三年,荊、江二界生竹實如麥。晉安帝義熙二年九月,揚州營揚武將軍營士陳蓋家有苦蕒菜,莖高四尺六寸,廣三尺二寸。此殆與吳終同象也。義熙中,宮城上禦道左右皆生蒺藜,草妖也。蒺藜有刺,不可踐而行,生宮牆及馳道,天戒若曰,人君拱默不能聽政,雖居宸極,猶若空宮;雖有禦道,未嘗馳騁,皆生蒺藜若空廢也。義熙八年,太社生薰樹於壇側。薰于文尚黑,宋水德將王之符也。


晉の孝武の太元十四年六月、建甯同樂縣の枯木の斷折せるに、忽然として自ら立ちて相い屬す。京房が【易傳】に曰く:「正を棄て淫を作さば、妖木は厥して斷ち自ら屬す。妃の後に專ぜる有り、木僕は反立す」と。是の時、治道は方に僻にして、其の正なるを多く失う。其の後に張夫人の寵さるを專らとし、帝の崩ぜるに及び、兆の庶くは張氏を咎せるに歸したり。晉の安帝の元興三年、荊、江二界に竹の實は麥が如く生う。晉の安帝の義熙二年九月、揚州營が揚武將軍營が士の陳蓋が家に苦蕒菜有り、莖が高さは四尺六寸、廣きは三尺二寸たり。此れ殆ぼ吳の終と同じき象なり。義熙中。宮城の上禦道が左右に皆な蒺藜の生ゆるは、草妖なり。蒺藜には刺有り、踐みて行きたるべからざれば、宮牆、及び馳道に生じたるは、天の戒めて曰いたるが若きは、人君の拱じて默し政を聽く能わざらば、宸極に居したりと雖も、猶お宮の空きたるが若し。禦道有りと雖も、未だ嘗て馳騁せざらば、皆な蒺藜の生えたりて空廢さるが若きなり、と。義熙八年、太社の壇が側に薰樹が生う。薰が文は尚お黑かれば、宋が水德の將王の符なり。

(宋書32-1_術解)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る