第55話 危機一髪 ②

 

 ――私が人間でなくなったら、あなたは私を軽蔑する?――


 清流の頭の中に、彼女の発した言葉がぐるぐると回る。

 だが、彼は紅蓮が口にした言葉の意味が分からない。

 人間でなくなったらとは、一体どういう意味なのか。

 「紅蓮、急にどうしたんだ? あんたはちゃんとした人間だろう?」

 一体、人間以外の何になるというのか。

 困惑したまま清流が彼女を見つめていると、手に持っていた紙を彼に見せた。

 両の手の平に乗せられた一枚の白紙の上には粉末が。月明かりを浴びて白く光っている。

 紅蓮はその白い粉を差し出したまま、

 「この粉末は不老不死になれる灰だと聞いたわ。あなたの知り合いの女性から貰ったの」

 「不老不死? 俺の知り合いの女性って、まさか」

 清流は自分の身体の中が急激に冷えていくのを感じた。

 自分の周りでこの屋敷を知っている者は限られた者だけだ。すぐに思い浮かんだのはおぼろだが、もう一人いる。

 この屋敷から清流が出て来たところを見ていた者が。いつも夜の繁華街で人間の男たちと酒を飲んでいる——。

 そこまで考えてから、清流は紅蓮の手から人魚の灰が乗せられた白紙を乱暴に掴み取ると、自身の手から出した水でそれを濡らした。

 「清流!」

 「こんなもの飲む必要なんかない!」

 清流の大声に紅蓮はびくりと身体を震わせた。呆然としたまま清流を見つめる。

 「人間であってもそうでなくても、俺はあんたを軽蔑したりしない」

 この粉末が本当に不老不死になれるものなのかどうかなど、この際どうでもいい。

 それよりもこの粉を口に入れて、彼女が体調を崩してしまったら。最悪、命を落としてしまったら。

 考えるだけで冷や汗が出た。同じくらいに動悸も激しくなる。

 彼女を失うことの方が何よりも恐ろしいと、今更ながらに実感する。

 紅蓮を見つけてすぐに声を掛けて本当に良かった、と安堵したが、次に清流の中に渦巻いたのは激しい怒り。

 もちろん紅蓮に対してではない。

 清流は顔を上げると、紅蓮に向き直り、

 「紅蓮、今度また屋敷と関係ない者が来ても絶対相手にするな」

 しかし、紅蓮は何も答えない。清流は構わずに続けた。

 「何か渡されても、いらないと言って断ってくれ。俺はこれからあんたにこれを渡したヤツを探して……」

 その時、紅蓮の両目から涙が一滴伝うのが見えた。慌てて彼女は目元に袖を押し付ける。

 「紅蓮?」

 「ごめんなさい、清流」

 「何であんたが謝るんだ? あんたが悪い訳じゃ……」

 しかし、紅蓮は袖を目元に押し付けたまま、首を横に振る。

 「人間である私は、必ずあなたよりも先に死ぬ。出来るなら、ずっとこの先もあなたと一緒にいたいって、思ったの」

 清流は、涙声でそう答える紅蓮をただ黙って見つめていることしか出来なかった。

 「だから、人魚の灰を?」

 紅蓮は顔を伏せたまま、縦に首を振った。

 「そうか、分かった」

 清流はそう言うと、格子と格子の間に手を伸ばした。彼女の頬に触れると、

 「紅蓮、必ずまた来るから待っていてくれ。約束する」

 「清流。でも、私は……」

 「そんなに自分を責めないでくれ」

 清流は優しくそう口にした。

 その言葉に紅蓮ははっとして顔を上げる。

 「あんたは俺にそう言ってくれただろう?」

 清流は彼女の頬から手を離すと続けて言った。

 「今日はゆっくり休んでくれ。紅蓮、おやすみ」

 紅蓮は頷いた後、小さく笑みを浮かべた。

 「おやすみなさい、清流。また来て。待っているから」

 清流は頷いた後、彼女に背を向けて歩き出した。

 彼の顔にはもう笑みはない。

 紅蓮に人魚の灰を渡したを探し出さなければならない。

 清流は屋敷を出ると水の塊に姿を変え、勢いよく繁華街の方へ向かった。

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