EX:『普通』

「なぜ?」

 予約していたホテルよりも数倍グレードが高い、俗にいう五つ星のホテルでスパを受けながら、蜂須賀サヤは呆然としていた。しかも与えられた部屋はスウィート、広すぎて落ち着けなかったが、ベッドはこの世のものとは思えない快楽を与えてくれた。あれはきっと人をダメにするベッドである。

 そして翌日、老人の運転に連れられ――

「なぜ?」

 パカラ、パカラ、と見晴らしの良い場所で馬を走らせている蜂須賀サヤたち。景色はとても素晴らしい。乗っている馬も気品があって美しい、気がする。指導も親切丁寧で、それでいて結構雑に送り出され、自由に乗り倒してよいとのことで正直楽しい。白木繭子など疑問は放り投げ「きゃっきゃ」と楽しんでいた。

 いやまあ、確かに楽しい。

 風を感じ、素晴らしい景色を堪能し、馬に身をゆだねる感覚。

 間違いなく楽しいのだが――

「なぜ?」

 この国屈指の観光名所なのだろうが、何故か貸し切りになっている美術館。門外漢のサヤたちだって名前は知っている場所である。そこに今、蜂須賀サヤと白木繭子、そして謎の老人だけがいるのだ。もう違和感しかない。

 確かに美術品は素晴らしいのだと思う。正直、全然この界隈のことは知識皆無だが、本物というのは何も言わずにこう、圧倒してくるようなオーラがある。特にこのオー・パイ画伯作『酒池肉林』というタイトルの絵は人の業を全部乗せました、と言わんばかりの絵面であり、スケベとかそういうのを超越していた。

 画伯本人の自画像は舌を出した状態を珍妙なタッチで描いており、これはのちの画家に大きな影響を与えた、とされているらしいのだが、サヤたちには本人が鼻くそをほじりながら適当に書いたようにしか見えなかった。

 ちなみにこの自画像や彼の絵は全て一枚数百億するそう。

 芸術の世界はよくわからない。

「なぜ?」

 荘厳な劇場の中心で繰り広げられるオペラ、歌劇を鑑賞するサヤたちは呆然と芸術の世界を堪能していた。言葉はわからずとも、歌声や音楽でストーリーがするする入ってくる。必要な補足も老人が適宜最小限の、舞台を邪魔しない程度の情報をくれるため、言葉がわからずとも苦痛はなかった。

 とにかくすべてが美しい。目に映るもの、耳に入るもの、下手をしたら鼻に入ってくる匂いでさえ、この空間には素晴らしいものしかなかった。

 老人曰くオペラというものの設立自体がこの国であり、交易で莫大な富を築いたこの国の前身である国王が様々な国の芸術的文化を結集し、とあるスーパースタァを中心に新たなる文化を創出したのだという。かつては最新の芸術も今ではクラシックとして国に根差し、この国の誇りの一つとして今なお親しまれているそうな。

 まあ、オペラ自体は素晴らしい。大満足ではある。

 ただし――

「あ、あの、不躾な質問で恐縮なんですけど、いいですか?」

「構いませんよ」

 一行は今、バッチバチにドレスコードが厳しそうなレストランにいた。サヤも接客業に従事しているから分かるのだが、とにかくこの店の全員とんでもなく姿勢やちょっとした時の振舞いからにじみ出る気品が凄い。店員なのにオーラがある。シェフに至っては挨拶に来ていたが、一周回って人を殺してそうなほどの圧があった。

 メニューは見せてもらったが、どこにも金額の記載はなかった。と言うかそんなこと気にする人間が、ここにはいないのだろう。

 ちなみに衣装は老人から貸してもらった。至れり尽くせりである。そう、至れり尽くせりなのだ。怖いほどに。もう、ただただ怖い。

 素晴らしい料理なのだろうが、今は味がしない。

 ゆえにとうとう、質問してしまう。

「今日一日、凄く良くして頂いたのですが、その、何故でしょうか?」

 サヤの質問に老人は笑みを浮かべ、

「ミノス様の遺言です」

 想像していなかった答えを言い放つ。

「え、遺言、ですか?」

「はい。ミノス様は生前、必ず自分はどこかで暗殺されるから、と時折遺書をしたため、私たち側近に託していたのです。その中に、こう在りました。自分とあの女が好きな花を知る者を、厚遇せよ、と。まあ、存在しないだろうが、とも書かれておりましたがね。ふふ、不思議なものです。まさに奇縁、なのでしょう」

 ミノスたちの本拠地、あの屋敷で育てられていた花に似たものを墓前に供えた。それが切っ掛けだったのだ。ただ、それだけが。

「あの、私たち、実はおそばに仕えていただけで、その、こんなに良くしてもらえるほど親しい間柄では、なかったのですが」

「さ、サヤちゃん。それ言っちゃったら――」

 正直者は馬鹿を見る。そんなこと嫌でも理解しているサヤだが、逆に怖くなってしまったのだ。ここで黙って、厚遇を受け続けること自体が。

 それに、自分は――

「ふ、ふふ」

 そんな言葉に老人は、

「あっはっはっはっはっはっは!」

 店の中が騒然とするほど、腹の底から大笑いする。

「あ、あの」

「ふ、ふふ、いえ、失敬。その、死してなおあの方らしい振舞いに、どうにも笑いが抑えきれなかったのです。ご容赦を」

 老人の笑いにも驚いたが、その後の死してなお、という部分で二人は警戒を強めた。場合によっては、魔獣化して切り抜けることも視野に入れる。

「そう警戒なさらず。貴女方は、ご自身が考えるよりも有名人なのです。何しろあのミノス・グレコの側近として魔獣時代からそばにいた、と。ミノスを知る者からすれば何らかの縁者か、どういう繋がりがあるのか、など勘繰りたくもなる」

「……私たちが、ナチュラルだって、知っていたんですね」

「もちろん。だから最初にお名前を確認させて頂いたのです。まあ、花のことを知らねばこうしてお付き合い頂くこともなかったわけですが」

 サヤはようやく疑問が解消し、その上で老人に貫くような視線を向ける。

「私たち、そこそこ強いですよ」

「そこそこなどとご謙遜を。お強いのは拝見した時から、承知しておりますよ」

 サヤは顔をしかめる。老人がそう思っていたように。サヤもまたこの老人に対し警戒を抱いていた。腐っても魔人クラス、馬力で自分たちが負ける要素はない。だが、同時に長年の経験によって培われた感性が告げていた。

 この老人には、手を出すべきではない、と。

「もうご存じかもしれませんけど、私、愛人のカシャフさん、殺してますよ」

 推し量る。相手の意図を。場合によっては戦うことになる可能性もあるだろう。その覚悟は今、出来た。その場合は自分が先頭に立ち、繭子を――

「そうでしたか。それはなお、趣深い」

「おもむき、へ、あの、日本語通じてますか?」

「ええ、ええ、もちろんです。で、カシャフ様はどんな顔をしておりましたか?」

「ッ⁉」

 サヤは老人から視線を逸らす。死を悟った際、彼女が浮かべた貌はサヤにとって衝撃的であったのだ。まるで、そうされることを望んでいたような笑みで、どこか慈愛に満ちた視線を、自分に向けていたから。

「ありがとうございます。これで確信に変わりました」

 老人は一度天を仰ぎ、改めて二人に眼を向けた。

「少し、昔話をしてもよろしいですか? ミノス・グレコという人物とカシャフ様と言う御方、貴女方にはきっと、知って欲しいと望むでしょうから。口には、出さぬ方たちですが。それでも、きっと――」

「構いません。時間は、いくらでもありますので」

「感謝いたします。それでは、まずグレコ家の成り立ちから――」


     ○


 グレコ家とはサルディーニャ共和国に根差す小規模なマフィアであった。大きなマフィアの下部組織であり、さほど大きな家柄でもない。

 だが、ミノスの父であるニーソス・グレコは才人であった。家を継ぎ、しのぎを譲り受けると辣腕を振るい、時にマフィアの中におけるグレーゾーンを駆け抜け、組織の中でのし上がった。嫉妬も、妬みも、全て踏み潰し、最後には上部組織をも喰らってこの国でも指折りのマフィアとして君臨した。

 それぐらいの頃、ニーソスはミノスを授かった。母は不明、容姿がニーソスとは似ていなかったため養子説すら流れたほどである。ただ、その頃から仕え始めた者は知っていた。彼が息子を溺愛していたことを。

『俺に似ないでくれてよかったぜ』

 これが彼の口癖で、様子を見に行く度に顔を綻ばせていた。彼は間違いなく息子を愛していた。ただ、彼はどうしようもなくマフィアで、世間とはズレていたのだ。

 常に命を狙われている身であるニーソスは頻繁に会いに行けない。乳母に預け。身分を隠させ、厳重な警戒を敷き、軟禁状態にするしかなかった。

『オイラ、なんで外に出たらダメなの?』

 男はそう問われ、返答に困った記憶がある。

 そして極めつけは――

『ボス、何考えているんですか⁉』

『あん?』

『ミノス様を、娼館に売り払うなんて、あまりにも惨い仕打ちでしょう⁉』

『なんで?』

『え?』

『あいつには俺みたいになって欲しくねえ。だが、学校にゃ行かせられん。家庭教師も足がつく可能性がある。学を与えるのは難しい。信頼できるお前らみたいなのを子育てに突っ込むのも、組織の長としては出来ねえしな』

『し、しかし、娼館である理由が』

『学が無くてもスキルがあればよ、世も渡っていけるだろ。娼館なら接客の基本も覚えられるし、こっちで客を選ぶこともできる。さすがにテメエの息子を娼館に置いておくとも思わねえだろうから、敵対組織からの暗殺の線も薄い』

 本気でニーソス・グレコは思っていたのだ。

『俺に似てなくて良かった。美人は得だぜ。あいつは俺とは別の道に行って、いつか真っ当な幸せを得る。しっかり食って行ってくれたなら、それでいい』

 それが一番いい方法だ、と。世間一般の真っ当と彼の中での価値観が違い過ぎた。確かに普通に学校へ行かせることなどできない。地方に預けたところで情報が漏れたなら逆に守り辛くなる。自分たちのファミリーで囲うのは正しい。娼館を隠れ蓑に使うことも良いだろう。だが、客を取らせて接客のスキルを、そんなところで身につけさせる意味があるのか、そこに関しては誰もが疑問であったし、実際に――

 ミノスは心的要因か、そもそも先天的であったのかわからないが、幼くして成長が止まってしまった。当たり前のように歪み、当たり前のように親を恨み、見た目は子どものままであったが成人し、気づけば家を出ていた。

 ニーソスは息子のひとり立ちを喜んでいた。凄まじく優秀な男であったが、親として、人として大きなずれがあったのだ。

 そして、ミノスは三十になる頃、帰ってきた。敵対組織のボスに取り入り、乗っ取り、マフィアのボスとして父の前に現れたのだ。もはや親子に語る言葉はなく、息子は怒りと憎しみのまま父を屠った。

 この国で最も巨大なマフィアのボス、いや、欧州でも最大規模の裏組織の王として巨大な権力を手にすることになったのだ。


     ○


「……残念でもなければ、当然の復讐と言うか」

「ね、ねえ。そりゃあ、その、娼館は怒ると思いますよ。普通」

 話の途中、こらえきれず二人は感想をこぼしてしまう。まあ、それだけ普通の価値観では理解できない話なのだろう。

「はたから見ればその通りです。ただ、ニーソス様にとって娼館での仕事が賤業である、という認識がなかったのでしょう。割のいい肉体労働、くらいですかね」

「体を売る行為が、ですか」

「全ての仕事は何らかの『自分』を売る行為ですよ。肉体、精神、時間、いずれもかけがえのない何かを売り、対価を得ているのです。そこに貴賤はない。需要があって供給がある。その構図は不変です。そして性産業の需要は、絶対に無くなりません」

 絶対に無くならない市場。そして市場自体が価格競争以外の『原理』によって統治され、比較的割の良い土壌が育まれている。世界全体の傾向もそう。

 統治するための力さえあれば、良い業界ではあるのだ。

「実技を得て、現役を退いたら店舗運営などを学び、伝手を得て独立。その流れ自体はニーソス様の想定通りに進みました。まあ、現役は長く、運営などは平行して学び、そこで得た技術をいかんなく発揮し、各勢力のボスを篭絡したそうですよ」

「ろ、篭絡」

「真っ当に組織をのし上がろうとすれば、どれだけ優秀でも四、五十にはなるでしょう。大きな組織であれば、どの業界もその部分はさして変わりません。順番待ちを飛び越えるには、そういう飛び道具も有効、と言うことですな」

 時短のために体を使った、何とも凡人でしかないサヤや繭子にとっては理解しがたい話である。それだけ復讐心が強かったのか、どういう想いでそこまで駆け上がろうと思ったのかはわからないが、それでも歪な業界で、親子関係だと二人は思う。

「それにしても、その、ミノス様って男、ですよね」

「ええ。もちろん」

「それで、体を?」

「よくあることです。旬が短い分、割は良いですし、貴重な分、金払いの良いお客様が多い。商品を見つけるのは、女性よりなかなか難儀ですが」

「……で、ですかー、あはは」

 怖い世界だ、と繭子は乾いた笑みを浮かべることしか出来ない。品の良い好々爺にしか見えないが、この人もまたかなりズレているのだろう。

 彼らの当たり前を受け止めるにはどうにも二人は凡人が過ぎた。


     ○


 大き過ぎる力は禍を呼ぶ。巨大な力を手に入れたミノスの周りは常に血が溢れていた。内外に敵を抱え、それを踏みつけながら歩む姿は小さな怪物。

 彼自身、何か突き抜けた特技があったわけではない。銃は得意だったが上がいないほどではなかった。自衛のための格闘術も修めてはいたが、こちらもその筋の一流相手では多少抗える程度のものしかなかった。

 であれば何が凄かったのか、と言うと側近の男は人を見る眼、と答えるだろう。先天的な部分もあるだろうし、幼き日より人に触れる仕事についていたのもまたその眼を養うのに一役買っていただろう。才人を見抜き、抜擢する。

 それを正しく行うことで彼の周りには才人が集い、彼の手足となって小さな巨人を盛り立て、組織は欧州最大の巨人と化した。彼の望みがどうこうではない。一度膨れ上がったものは個人の意思に関係なく膨らみ続けるしかないのだ。

 それが弾けるその時まで――

 五十代に差し掛かり、ミノスは最盛期を迎えていた。小さな巨人に抗える者などいない。国家を股にかけ、欧州全土に根を生やす巨大組織の王。

 もはや国家では手に負えぬと賢人会議の粛清が始まるも、それら全てを返り討ちにして、逆に三名の賢人が始末されると言う信じ難い結果に世界中が震撼した。賢人会議ですら力及ばぬ裏の王。九龍ですら肉薄すら許されず、当時の一龍李白は負傷、五、七は抹殺されている。それだけの面子がミノスの手に揃っていたのだ。

 時代背景も彼に味方した。近代兵器が充実し、大国は核兵器による睨み合いしか出来ず、中東などでお茶を濁すしかなかった時代。武人の居場所などない。そんな彼らに居場所と仕事を与え抱え込めたのは、まだ闘争が主体であった裏の世界ならでは、だったのだろう。当時のグレコ・ファミリーは、白兵戦では勝ち目がない、と九龍を擁する賢人会議がそう言い切るほどであった。

 しかも本人は姿を見せず、母体が欧州ゆえに近代兵器による強硬手段も使えない。中東や途上国でなら使える強権が使えず、ゆえに彼は無敵と成った。

 誰も彼には届かない。最強の戦力を保有し、それらを分断しようにも彼らの結束は固く、ミノスを王とする限り離反させるのは不可能という結論に至る。

 そんな折、孤高の王に肉薄した女がいた。

 鉄の結束、賢人たちでさえ匙を投げた組織中枢部の人間を魅了し、あわやその喉元にナイフを突きつけるまでに至った女、その名はカシャフ。姓は、無い。

 とある農村に生まれた彼女は人目を惹く美少女であった。小さく貧しい農村には不釣り合いなほどの美貌をもって生まれたのが彼女の不幸。噂を聞き付けたその筋の者に大金と引き換えに売られ、裏の世界に身を投じることとなる。

 持ち前の美貌と肌を重ねるたびに増す魔性。それが一所に留まることを良しとしない。どれだけ持ち主が囲おうとも、噂が漏れ出てしまい聞きつけた者が彼女を見て、これまた多額の金で引き抜く。基本的にこの世界、金もそうだが力こそが正義。金だけでは手放さないと決めていた者でも、力ある者の前では無力。

 より強き者、より巨大な権力を持つ者が彼女の所有者となっていく。

 そして、最後にはミノス・グレコの側近までも彼女の魔性は取り込んだ。彼女はとうとう、この時代の頂点に君臨する男に到達する。

 欧州のみならず世界中に根を生やし、逆らう者は一国の大統領であろうと数日の内に行方不明に出来る組織力を持つ男。誰もが辿り着けなかった男の前に。

 二人は出会った。そして――

『あら、防がないの?』

『テメエこそ、何故手を止めた?』

 誰に命じられたわけでもなくカシャフはミノスの喉元にナイフを突きつけ、防ぐわけでもなくミノスはただ首を差し出したまま動かない。

 互いの眼を見ればわかる。

『貴方、死にたいの?』

『それはこっちのセリフだ。売女ァ』

 生きたいという感情がすり減り、摩耗し、消え失せて――

『ミノス様!』

 異変を察知し、側近の一人を縛り上げて情報を聞き出した時にはすべてが遅かった。ミノスとカシャフ、二人は首を絞め合いまるで心中のような形で殺し合っていた。部下たちが二人を引き離し、カシャフを殺そうとすると――

『俺が殺すまで、殺すな』

『し、しかし』

『俺の判断だ』

 二人は出会ってしまった。

 歳の差ゆうに三十。生まれも育ちも娼館を経由した程度しか合致しない二人であった。だが、ミノスはカシャフを手中に収めた。

 理由は二つ、一つはこの怪物を野放しにしていると、今の秩序において害になると考えたから。裏の世界でも表の世界でも、彼女の魔性は無関係に飲み込んでしまうだろう。ある意味で最も危険な力、王として野放しには出来ない。

 もう一つはシンプルに彼女を愛したから。そして彼女もまた彼を愛した。

 ミノス・グレコは幼少期の経験から成長が止まり、同時に不能となっていた。ゆえにカシャフの毒牙にかからず、彼女の奥に潜む絶望だけを愛すことが出来た。それはカシャフにとっても同じ。自分の魔性を意に介さず、魅了されない異性は初めてだった。外見ではなく中身を見つめられる唯一の存在。

 彼らは互いを抱かない。触れない。そうする意味がない。ただ近くにいて、本を読み、花を育て、そういうので良いのだ。それだけで良いのだ。

 機能の不全と異なる道のりの果てに芽生えた等しき絶望。それが二人を繋げた。もちろん彼らは互いを利用した。カシャフを使って賢人会議を取り込み、もしもの時のために駒として使えるようにした。彼女もまたミノスの財力を使って散在し放題、我儘放題、大して興味もない美術館を貸し切ったりなど好き放題であった。

 そんな関係性、彼らだけの共生。

 互いが殺すまで自分を殺さない、そんな歪な関係性。

『子供が欲しいわ』

『僕に言うなよ、殺すぞ』

『あら、どうにか出来ないの、ほら、中東でやっているらしいじゃない』

『そもそも僕らが子供を得てどうするんだよ。必ず不幸にするさ。裏世界にどっぷりつかって、年老いて、ようやくわかった。あれだけ憎んだ父の愛が、歪んだ思考が、今の僕にとっては正常となっている。なら、不幸にさせるよ』

『そう、そうかもしれないわね』

 善かれと思って、それがもうどうしようもなく狂っているのだから、どうしようもない。当たり前が、正常が、常人とは違うのだから仕方がない。守り切ることが出来るか、こんな世界から逃がしてやることが出来るか、無理、であろう。

 だから作らない。彼女との子ならば良いとは思う。人道的にはあれだが、方法ならあるのだ。とある研究の副産物だが、応用すれば人ひとり問題なく作れる。

 だけど作らない。不幸にすると分かり切っているから。

 きっと、愛せば愛すほどに――

『じゃあ、妄想しましょう。もし、娘が出来たら、息子が出来たら、どうしてあげたいか。妄想なら、ふふ、誰の迷惑にもならないでしょう?』

『まあ、それならいいけど』

 だから、妄想だけに留めておく。時折、そんな話をして、他愛もなく語り合って、合言葉でもないけれど、遺書にちょっと仕込んでみて、無意味と分かりながらも、ほんの少しだけ未練がましく、そんな時間を過ごした。

 自分たちを終わらせる者が現れるまで――


     ○


 そして、彼女たちの知るあの屋敷に、繋がる。

「ちょ、ちょっと待ってください。その、整理が、つかなくて」

「……私、何も知らないで、怖がって」

 ミノスとカシャフ、二人との出会いは魔獣時代。ある意味でバトルオークよりも外れ、戦闘力皆無の白き蚕のような魔獣を見て、カシャフは哀しそうに微笑んだ。人に飼われ、媚び、寄生してしか生きられぬ存在を哀れんだのか、それとも自分と同一視したのか。誰もが眼もくれなかった彼女を抱きしめた。

 理解不能の状況への恐怖から暴れ回り、コントロール出来ていなかった蜂のような形状の魔獣。あわや処分と言うところでミノスが力ずくで抑えつけ、自分の玩具だと宣言した。カシャフの姿を見て、柄にもなく情が湧いたのか、自嘲の笑みを浮かべながらの行動。彼女は覚えている。その顔を。

 それからあの屋敷で、魔人として目覚めるまで、何ともちぐはぐな扱いを受けていた。そのちぐはぐさがあちらの世界では恐ろしかったのだが――

 今までの話を聞いて、ようやく理解できた。

 彼らはきっと、彼らなりの『普通』の親を演じようとしていたのだ、と。死んだ後でなら、まあいいだろうと。夢の世界だと思えば、少しくらいなら、と。

「ちなみに、男の子だったら今日のコース、どんな感じでしたか?」

「午前中はセーリング、射撃、午後からは美術館を貸し切って鑑賞した後、カジノで豪遊して頂く予定でした」

「ほんと、ズレてますね」

「ふふ、確かに」

 言われなければわからないけれど、親だったら絶対に言えないだろう。それは野暮だし、ある意味で嫌われることすら、怖がられ、離れていくことすら、彼らにとっては成長であり、望むべきことだったから。

 ようやく、彼らの表情の意味がわかった。

 彼らにとってあの世界は束の間の夢であった。そして最後に終わりを得て、きっと今頃はあの屋敷にいたように二人でのんびりしているのだろう。

 世界の頂点に立った男とそれすら揺るがしかねない魔性を秘めた女。それほどの人物が望んだ世界が、あの小さな箱庭の、そこらに咲いている野花に囲まれた世界だったのだ。自分たちもまた、彼らの夢の一部だった。

 その理解を得てようやく、彼らとの時間を飲み込むことが出来た。そりゃあ大変なこともあった。根本的にズレているし、要求は高い。意外と甘やかしてくれない。アンサールとかに比べたらマシだな、と愚痴ってばかりだった。

 でも、きっと、今思い返せば――

「料理、どうですか? ここのシェフ、実は元々グレコ家専属の料理人でして、男女ともに彼の料理は食べさせて欲しい、との遺言でしたので」

 老人の問いに、サヤと繭子は笑顔で、

「「美味しいです」」

 と答えた。

 老人は満面の笑みで「それはよかった」と喜んでいた。


     ○


 老人は空港の前に車を止め、二人を送り出す。

「あの、昨日と今日、本当にありがとうございました」

「ありがとうございました」

「いえいえ。わたくしどもが勝手にやったことですので、お気になさらず」

 頭を下げる二人に対して、その必要はございません、と言い切る老人。本当に最後までただただお世話をしてもらっただけであった。

「ただ、一つだけお願いがあるのです」

「何ですか?」

「もう二度と墓参りには来ないこと。それと、ミノス・グレコに関わる全てのものから距離を置くこと、です」

「ああ、そういうことですか」

「それは大丈夫だよね、さーちゃん」

「どさくさでさーちゃん言うな」

 あっけらかんと言い切る二人を見て、少しだけ老人は驚いていた。

「私たちも今はこんな体ですけど、まあ、普通に暮らしてはいます。そりゃ、水商売が普通かって言うと、その、何とも言えないですけど」

「私は普通の会社の事務員です」

「ええ、まあ、ただの事務員が男を侍らしている方が問題だと思うけどね」

「私が楚々としているだけで、男の人が放っておかないの。みんな、好きだもんね、黒髪ロングの清楚系。ほんと、男の人ってかわいいね」

「とまあ、癖は凄いですけど、身の丈はわかっているつもりです。今回の件は夢、あの人たちのコネを使ってどうこうなんて考えてません」

 真っ直ぐと蜂須賀サヤは言い切った。その眼を見て、老人は苦笑する。

「申し訳ございません。少々、貴女方を侮っておりました。あまりにも普通なお嬢さん方なので、ついついナチュラルであることを忘れてしまいますね」

「いえいえ。欲をかかない、身の程を知る。全部、あちらの世界でミノスさんも含めた怪物たちに教わりました。私たちは、普通に生きていきます」

 彼女たちは知っている。多少力を得たからと言って、それで何かを成し遂げられるほど世界が甘くないことを。強き者たちはたくさんいる。身体も、心も、そんな彼らを見ていたら野心など抱こうとも思わない。

 力には責任が伴う。その重荷を避けるには、力を捨てるしかないのだ。

「ミノス様たちに、ひと時の夢を見せてくださり、ありがとうございました。きっと、お二方だからこそ、あの御方たちも夢を見る気になったのだと、思います」

 老人は深々と二人に頭を下げる。二人もまた、静かに頭を下げた。

「では、よい旅を」

「はい。ありがとうございました」

「さようなら、お爺さん」

 そして、振り返らずに二人は空港の奥へ向かう。昨日、今日、驚くほど濃密な時間であったが、これは夢なのだ。浸ってはいけない。それは彼らの本意ではない。

 そんな不器用で、『普通』ではない二人の怪物を思い浮かべ、

「ねえ、いつか、おばあちゃんになったらまた来ようよ」

「ええ、約束破るの?」

「時効だし。普通に生きておばあちゃんになりました、って報告するの、どう?」

「まあ、マユにしては良い考えね」

「ちょっとぉ、どういうことォ?」

 二人は進む。後ろは振り返らない。二人は前だけを見つめていた。自衛も含めこちらに戻って来てから一度も魔獣の力は使っていない。これからも使うことはないだろう。いつか、人に戻れる日が来たら躊躇いなく戻るつもりである。

 何事もほどほどが一番なのだ。平凡なる自分たちにとっては。

「それにしても、お爺さん大丈夫かなぁ?」

「後ろの車の連中?」

「うん」

「大丈夫でしょ。あの人、普通に化け物だし」

「だよねえ。もう本能がビクビクってしてたもん。こわやこわや」

「まあ、普通の女子は普通に生きましょ、普通にさ」

「普通のゲシュタルト崩壊だぁ」

 そんな冗談を言い合いながら、二人は不思議な欧州旅行の帰りの便に乗り込んだ。


     ○


 その飛行機を眺めながら老人はにこやかな笑みを浮かべていた。手についた赤い汚れを綺麗なハンカチでぬぐいながら、その眼はまるで孫の旅立ちを見るようなものであった。一見すると感動的な光景であるが――

「あ、が、ばけ、もの、め」

 背後には紅い眼をした数名が倒れ伏していた。誰も近づいてこない。空港職員も、警察も、老人の顔を見るや否や、まるで何事もなかったかのように振る舞うのだ。それはこの国におけるグレコ・ファミリー、その影響力の名残である。

 そして――

「俺たちはフィラントロピーで、魔獣化したんだぞ! もう、貴様ら古いマフィアなんぞに、負けるはずが、ないのに」

「分不相応な力を求めた結果、早死するのです」

 本来、スペックでは遥かに勝るはずの魔族化した男が、何も出来ずに顔面を殴られずるりと地面に倒れ込む。普通の人間相手ならばどれだけ殴られようともダメージなど通らないはずなのに、この老人の拳は当たり前のように届く。

「私に勝ちたいのなら、魔人クラスとやらか魔獣クラスでもサイズの大きいものを持ってくるべきでしたね。あの子たち相手であれば、なお不足でしょうが」

 普通より硬い皮膚を裂き、普通より強靭な肉を潰し、普通よりも強固な骨を砕く。それが老人にとっての当たり前。彼らが反応できぬ速度で突き、時間を切り取るような動きで全員を一蹴してのける。グレコ家の槍、最強の武力。

 一龍を撃退し、二匹の龍を打ち砕いた超人、龍殺しの怪物。

「善き人生を、お二方」

 老人は素晴らしき出会いに感謝しつつ、全員の息の根を止めた。

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