最終章:最後の時
ばさり、とフェネクスは戦場であった場所に降り立つ。
『コードレス』の能力が消え、状況を知る術を失った者たちが右往左往していた。見たい景色を見る前に、目撃者としての責務を果たす。
「あ、あの、フェネクスさん、ゼン様は、どうなりましたか? ゼン様が敵を刺し貫き、黒き十字架が、今まで見たこともない大きさのものが立ち上ったのは、見えたのですが、その後はわからず」
「……こっちの、帯域は使い辛いんだがな。勝ったぜ、クソオークがシン・イヴリースを破った。完全決着だ」
その一言に、巨大な歓声が沸き上がった。もちろん、すでにひとしきり喜びを分かち合った後であろうが、それでもなお、確定された終わりを噛み締める。
多くの犠牲があった。世界の人口はシンの軍勢が現れる前と後で、それこそ十分の一ほどに減少してしまったのだから。
「よかった。本当に、よかった。それで、ゼン様は、いずこに?」
フランセットの問いに、フェネクスは北へ指を差す。
「え、と」
「あいつの時間はあとわずかだ。この地での目的を終えたんだからな。元の時代に戻るか、次の目的地があるのか、知らねえが」
「……じ、かん」
現実を飲み込めていない様子のフランセット。それを周囲で聞く者たちも、呆然としていた。彼らは当然のように英雄がここに戻ってきて、喜びを分かち合い、何よりも途方もない感謝を投げかけようと思っていたのだ。
自分たちがどれほど嬉しく、救われ、感謝しているのかを。
「あ、あの、私をゼン様の下へ、連れて行ってください。私、酷いことを言って、まだ謝ることも、感謝を伝えることも、出来ていないんです!」
「……悪いが、出来ねえよ。私が単独で、最速で飛ばしても、私の視力で何とか納まる程度。人族の眼じゃ、何も見えねえ」
「で、でも!」
「悪いな」
そう言ってフェネクスは飛び立つ。
「待って! お願いします、私――」
その瞬間、バァルの分身が空に何かを映し出す。
「あ?」
『私にも、彼女ほどではないが、そういう能力が使える。あまり褒められた能力でも、使い方でもないと思うが。見るだけなら、ここで出来る』
それは大樹の都、ロディナ・ルゴス。
そして、フランセットも良く知る場所であった。
「ばふん」
フランセットの袖をくわえ、共に見ようと促すフェン。それを震えながら、こくりと頷き、涙を湛えながら彼女もまた天を仰ぐ。
残り少ない時間、彼なら、自分ではなく、彼女たちを選ぶ。
分かり切っていたことであった。
それでも、涙が、止まらない。
「ばう」
そんな彼女に寄り添う魔狼の女王。その牙の抜けっぷりに魔族たちは唖然としていたし、ベレト辺りは理解できなくて苦笑する。
この世界に適合した者と、適合する気がない者。蒼き星と紅き星を分かつのは何も物理的距離だけではない。心もまた、離れてしまうのだ。
戦場の彼らは空を見つめる。
それは、バァルの目を通した、覗き行為であった。
○
「ゼン!」
子どもたちは彼を見つけた瞬間、跳ねるように突っ込む。あの一件があってなお、躊躇うことなく『いつも』のように抱き着き、まるでゼンという木から伸びる枝葉のようにしがみ付くのだ。
その様子に、ゼンは顔を綻ばせる。
「ゼン、魔王、倒したの?」
だが、いつもいの一番に突っ込んできたアストレアだけが、少しだけ距離を置いてゼンに問いかけた。その距離はきっと、あの時傷つけたことで生まれた心の距離。ずっと騙していたことで生まれた傷の深さ。
「ああ、倒したよ。皆のおかげだ」
「……あ、ありがとう、ございます」
たどたどしく、頭を下げるアストレア。ゼンは首を振る。
「いや、俺がやりたいから、やっただけだ。俺はね、アストレア、前にも言った通り正義の味方じゃない。この世界に来て、魔族にされて、この世界をめちゃくちゃにした連中の一人だ。悪いことをしたよ、君の両親も、殺してしまった」
びくり、アストレアの顔が曇る。
他の子どもたちの顔も、同じように――
「最初は、混乱してよくわからなかったよ。気づいた時には血で手が汚れていて、目の前には震える君がいた。咄嗟に自分の部下を殺した。わけがわからないまま、それでもそれ以上手を汚すことも出来ず、君と一緒に逃げたんだ。自分の犯した罪から、俺を正気に引き戻してくれた、君の家族から」
子どもたちを優しく下ろし、ゼンは頭を地に押し付ける。
「すまなかった。ずっと、君を騙していて。ずっと言い出せなくて、すまなかった。許してくれとは言わない。魔王を倒したからチャラにして欲しいなどと、死んでも言わない。ただ、すまなかった、それだけは、伝えようと――」
原罪、葛城善が犯した罪の証。もっと多くを傷つけた。多くを痛めつけた。許されるとは思わない。失われた者は、何をしても帰ってこないから。
「ゼン、身体が」
子どもたちが驚く。ゼンの身体が、質量を失い透け始めていたから。
「……時間がない。言いたいことはたくさんある。やりたいことも、君たちが許してくれるなら、たくさん、あるんだ。でも――」
ゼンは立ち上がり、子どもたち全員を見つめる。
「俺はね、正義の味方じゃない。いいや、正義の味方なんてこの世界にはいない。誰にとっても守りたいものがあって、誰もがそのために戦っているだけ。何の理由もなく、ただ自分を守ってくれる人なんて、この世界にはいない」
「でも、ゼンは僕らを守ってくれた! 世界を救ってくれたよ!」
子どもの一人が反論する。それにゼンは頷き、
「それはね、俺が君たちを大好きで、この世界が大好きだから、なんだ」
あまりにもシンプルで、真っ直ぐな、言葉。
それゆえに、心に刺さる。
「俺はあんまり優秀な人間じゃないから、頼られたことなんてなかった。俺みたいのしか、頼れる相手もいなかっただけかもしれないが、それでも悪い気分じゃなかった。一緒にいて、楽しかった。騙していたクセにな」
ゼンは苦笑する。
「この世界もそう。魔術とか、未だによくわからないけど、楽しかった。面白い人々に出会った。魔界だって、今思えば悪くなかった。何度も死ぬ思いをしたけど、それ以上に、俺にとってはいい思い出なんだ」
ゼンは、苦みを飲み込み――
「俺はお前たちが好きだ。この世界が、この時代が、大好きだ。だから戦った。敵への恨みや憎しみもある。でも、一番の理由は、それなんだと思う。俺が君たちにとって正義の味方に見えたなら、その理由に基づいて生きていたから、それだけだ。俺が立派な人間や物凄い英雄だから、じゃない」
子どもたちに向けて微笑む。かすかに涙を湛えながら。
「わ、わたし、ゼンに、ひどいこと言ったよ」
「騙していたのは俺なんだ。それは当然のことだ。アストレアは俺を憎む権利がある。理由がある。救ったから、それを引っ込めて欲しいなんて道理は通らない。でも、それと俺の感情は無関係だ。俺は変わらず君が、君たちが好きだよ」
ずっとこらえてきた感情が、
「あ、ああ、ああああああああ!」
こらえきれず、アストレアはゼンに飛び込んできた。涙が、ずっと貯めてきたモノが、溢れ出す。止めどなく、もう、塞ぐ理由もなくなったから。
「……アストレア」
抱きしめるゼンの眼にも、かすかに光が、零れる。
「おとうさんやおかあさんのことが好き。でも、ゼンのことも、好き!」
「……ありがとう。そして、すまなかった」
「わたしも、ごめんなさい」
だが、次第にアストレアのぬくもりが消えていく。彼女もまた感じ取ったようで、泣きながら顔をぐしゃぐしゃにして、ゼンを見つめる。
「謝る必要なんてないさ。悪いことなんて誰もしていない。俺はしてしまったけれど、みんなの手は、まだ綺麗なままだ」
ゼンは手を解き、他の子たちも一人一人、抱きしめていく。
「どんなことにも理由はある。それでいい。そうじゃないと、絶対に何か歪みが出る。小さくたっていい。小さくても、まかり間違って俺みたいに大きなことをしでかしてしまうこともある。俺は、随分運に、環境に恵まれたけど」
それは葛城善がこの世界で得た教訓。如何に素晴らしい人物にも皆、それぞれの理由があった。戦う理由、救う理由、抗う理由。
たくさん、在ったのだ。
「正義の味方に何てならなくてもいいんだ。自分にとって大切なことを、大切な物を、大切な人を、愛して、守れたなら、それでいい」
その大小に貴賤などない。あるはずがない。
「ただ、健やかに、笑顔で、これから先の人生を、辛かった分、楽しんでくれたら、俺は幸せだ。そうなってくれたら、嬉しい」
そう言ってゼンは皆を抱きしめ、一歩退いた。
「ゼン、行かないで。いっしょに、いて。もう、いなくなってなんて言わない。ずっと、いっしょに、ここにいてよぉ」
アストレアの、子どもたちの、悲しみの声。それを聞いてゼンも少しだけ顔を歪め、目を瞑り、そして真っ直ぐな瞳で彼らを見つめる。
「愛している。どんな時代にあっても、俺の心は君たちと共に在る」
葛城善は、満面の笑みを湛えながら、
「ゼン!」
この世界から、去って行った。
○
瞬きの後、ゼンが目を見開くとそこには――
「どうだった?」
オーケンフィールドたちが全員揃ってゼンの帰りを待っていた。
「終わったよ」
そしてゼンはぐっと皆に親指を立てる。その瞬間、一部を除いて全員がゼン目がけて飛び込んできた。よくやった、凄いぞ、さすがだ、好きです、そんな称賛を聞いてゼンは「みんなの力だ」と言い切る。
どうにも一部エゴイストが混じっていたようだが。
『おいおい、謙遜すんなよ、相棒。こういう時はあれだぜ、俺がやった、俺のおかげだから敬え奉れくらい言っても良いんじゃねえの?』
「……はぁ、お前は相変わらずどうしようもないな」
『ひっひっひ』
そんなやり取りをするゼンを見て、皆唖然とする。
何故そんな貌をしているのか、ゼンはよくわかっていなかったが、
「あ、あの、ギゾーさん、持って帰ってよかったんですか?」
九鬼巴の一言でゼンは「あ!?」と驚きの声を上げる。
「え、マジか。と言うかこっちでも動くのか、偽造神眼」
「……参ったな」
「はえー、これは驚きだぁ」
「別に義眼くらい良いだろ。それより火ィくれよ。ヤニ切れた」
「禁煙です!」
口々に感想を述べる皆を尻目に、
『来ちゃった』
てへ、と相棒に彼女面で言われたゼンは思考がフリーズしていた。
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