第4章:地獄より出でし

 加納恭爾が両手を広げると、あちこちに雷が降り注ぐ。

 撤退の合図に従った『斬魔』が退き『ながら』の戦いを強いられ、手すきとなったガープの熱線もまた幾重にも大地を焼き尽くす。まさに地獄絵図であろう。士気が低いとはいえ王クラスである彼らも最低限、仕事は果たす。

 誰もシンの軍勢を止められない。もう、止まらない。

「くそ、一歩遅かったか!」

 パッと見致命傷を負ったシャーロットに『ヒートヘイズ』は顔をしかめた。ミノスを何とか抜き去って全力で追いつこうとしたが、この体たらく。ミノスも長く止める気もなかったようで、一度抜いた後の追撃はなかった。

「とりあえず退くぞ!」

 シャーロットを担ぎ、『ヒートヘイズ』が声をかける。

「だが、今退いたら、もう――」

 諦め切れぬ、ゼン。手を伸ばさんとする。勝つつもりだった。勝って終わらせるはずだった。子供たちに平穏を与え、そして――

「今も昔も、たらもればもあるか! 負けたんだよ! もう、とっくに! 熱くなりやがって。頭ァ冷やせ! 今すべきことを考えろ!」

「そんなもの、考え、つかない」

 最後と思い臨んだ。次のことなど考えていない。それは若い者たちほど顕著であった。普段はゼンも弁えている方であるが、それほどにこの一戦にかける思いが強かったのだろう。その気持ちは『ヒートヘイズ』にも痛いほどわかる。

「生きるんだよ! 生きて生きて、耐えて耐えて、考えて考えて、そして、次は勝つ! どんな勝負事でもそうさ。絶対はねえ。思想はどうあれ、どっちも必死だ。頑張ったから勝てるなんて甘い世界じゃねえさ」

 焦げ臭いシャーロットを背負う『ヒートヘイズ』は雷を掻い潜りながら、味方側を目指す。まあ、もはや混沌と化した戦場に味方側、という概念があるのかもわからないが。大敗、言い訳のしようがないほどの、敗北である。

「それともオーケンフィールドなら絶対だと思っていたか?」

「……そ、それは」

「安心しろよ。俺もそう思っていたさ。そう思わせるのがエースだしな。あいつならって。でもよ、どんなエースでも勝負を絶対に勝たせることなんて出来ないんだ。勝つ日もあれば負ける日もある。運の良し悪しもあるしなぁ」

 かつてその重責を背負い世界の舞台で戦った男は、静かに微笑む。

「俺に悔いがあるとすれば、あいつに背負わせ過ぎたことだ。俺は知っていたはずなのに、その立場にいたはずなのに、フットボールじゃねえからって押し付けた。いちプレーヤーとして暢気に構えていた。この負けは、そういうもんの積み重ねな気がするぜ。俺もそう、お前さんもそう。線引きしていた。任せていた」

 炎の道が敵を掻い潜る。話しながらもそのステップは誰も触れられぬもので、彼の見出した道を走るゼンとアリエルは茫然としてしまう。

 これが彼の、世界最高のストライカーが見ている光景。

「そんなに違うかね? 俺とオーケンフィールド。お前と俺。お前とオーケンフィールド。言伝は大星が請け負ったからな、俺からは言わねえがよ」

 抜き去る。風のようにしなやかに、雷のように鋭く、炎のように激しい。

 其処には悔いがあった。言葉とは裏腹に、大きく、痛々しいほどの。

「おんなじ人間なんだ、ゼン。俺たちは、さ」

 あっさりと混沌塗れる戦場を抜け、『ヒートヘイズ』たちは大樹の根元、『ドクター』まで辿り着いた。凄まじい速力、踏破力である。

「治るか?」

「生かしては見せる。それ以上は求めるな」

「そっか。ま、これに懲りたら頭は冷やせよ。心は熱くていい。でも、頭はピンチほど冷やしとくもんだ。それが死地で結果を出すコツってな」

 意識が朦朧とするシャーロットに語り掛ける『ヒートヘイズ』。聞こえているかはわからないが、まあ誰かが伝えるだろうと微笑む。

「さすがの魔王さんも普段使わない能力だと狙いも甘くなるか。っても荒いのは荒いでやり辛いんだがなァ。まあ、やるしかねえだろ」

 首をこきこきと鳴らす。そしてうんと伸びをして――

 虚空を蹴った。その瞬間、何もなかった空間が爆ぜる。

「甘ェよ」

 それはミノスの遠距離砲であった。回復の要である『ドクター』を狙った一撃。それを蹴りで消し飛ばしたのだ。屁でもないというように。

「ゼンは遠距離から後退する味方の援護、アリエルは『ドクター』及び周辺の守護、どっちも重要な役目だ。明日、もう一度戦うためには」

 それは誰もが考える気も湧かぬ、先のこと。

 この絶望の先に、希望などあるのだろうか。

「……おい、サッカー野郎」

「なんだよ、ヤブ医者」

「……悪いな」

「残った方が大変ってこともあるだろ。だから自殺まがいの特攻なんてのがあるんだ。俺の方こそ悪いな。腹括れば気楽だ。でも、物事には優先順位があるわけよ」

 二人は苦笑し、すぐに視線を外す。

「俺はもう伸びない。なら、ここが使いどころ、だろ」

 そう言って第七位『ヒートヘイズ』は単身、戦場に舞い戻る。

 少しでも多くを逃がすために、少しでも多くの敵を粉砕する。そして撤退する皆の背後を守る、しんがりを務めんと覚悟を決めていた。

 フットボーラーとして頂点に立った。その時代において誰よりも強く、結果を出し、栄光に塗れた自負がある。頂点に輝き、誰一人寄せ付けぬ孤高の領域に至った。でも、挑戦者も滅多に現れぬそこにどこか飽き、充分だと思った自分も現れた時、きっと自分は完成したのだ。そこが到達点、道化の王と戦った時の絶好調こそ、自分の絶頂であり到達点だった。己には可能性がない。

 ならば、それが在る者たちのために道を切り開くが務め。

 炎が戦場を縦横無尽に駆け巡る。雷に撃たれる仲間を押し、引き、避けさせ、敵はすり抜けざまに蹴り飛ばす。彼にしか出来ぬ戦い。

 混沌の中、死地にこそ彼の活き場所がある。

『もののふよ。いざ、尋常に!』

 鎧武者の王クラスが立ち塞がる。先ほどまで死んだ眼をしていたくせに、決死の『ヒートヘイズ』を前に眼を爛々と輝かせていた。きっと、この男もまた戦いに生き、戦いに死んだ者なのだろう。勝負師、どこか同類の匂いがする。

 ゆえに双方、凄絶に笑う。

 決着は刹那。すり抜けざまの攻防。されど手数は百を超える。

『……見事也』

 黒き十字架が、立ち上った。

「俺は、マリオ・ロサリオ。ド天才のストライカーだ!」

 しかし、彼もまた今の攻防で手傷を負った。あまりの切れ味に遅れて滲む、血。切れ味が鋭すぎるため見た目はさほど深く見えないが、その刃は臓腑をかすめていた。もう少し荒い剣であれば、もしかすると今ので終わっていた可能性もある。

 それでも彼は止まらない。誰よりも速く戦場を駆ける。

『ジャンルは違えど戦場に生きる者、か。戦いをわかっているね』

 ミノスは荒れ狂う炎を遠目に一瞥し、目的の場所まで赴いていた。先ほど『ヒートヘイズ』を止めに入ったのは高所を捨てる口実。

 こうして自由に動き回る言い訳でしかなかった。

 彼の目的は――

『やあ、サヤ、マユ。元気そうで何より、だ』

「「ッ!?」」

 戦場のど真ん中で放り出された、可哀そうな生き物。

 カシャフと共に可愛がっていた生き物二つ、である。

『カシャフは死んだ?』

「……は、はい」

 サヤの言葉を聞いて、ミノスは微笑む。

『へえ、驚いた。君が殺した、か。目にそう書いてあるよ。まあ、アストライアーに鹵獲されたのなら、仕方がない。立場って言うのは入れ替わるものだ。仕事、ならまあ、わかる。でも、君の目はこう言っている。自分の意思で殺した、と』

 サヤとマユは、目の前の怪物が放つ何かに気圧される。

 魔力ではない、威圧感のようなもの。

『ねえ、何故、カシャフを殺したの? そして、カシャフは最後に何て言っていた? それだけ知りたかったんだ。教えてくれたら、君たちを生かしてあげよう』

 恐怖が二人を覆う。この支配に囚われてきた。

 ずっと、彼らのこの雰囲気を恐れ、多くの人から奪い、罪を重ねた。

「マユ!」

「うん!」

 咄嗟に二人は戦う選択を取った。この二人が組んでいたのは決して仲が良いからではない。限定条件だが最高の組み合わせゆえに最初から組まされていたのだ。

 男を惑わし、意思すらも奪うマユの魅了と――

『一撃ッ!』

 二撃で相手を確殺するサヤの殺傷。この二つの組み合わせが強かったから。

『サヤちゃん! 能力、入ったよ!』

 対男専用だが最強のコンボ。完全に意識奪えぬとしても二撃入る間くらいなら止められる。ゆえに王クラスであっても彼女たちは警戒に値する存在であった。

『ずっと怖かった。ずっと苦しかった。今更、あの子に、奪った人々に、許してなんて言えないけれど、それでも少しくらいは!』

 二撃目。それがミノスの身体に、突き立――

『怖い? 可愛がっていただろ?』

 その針は、腕ごと無造作に振り抜かれたミノスの腕に消し飛ばされた。

『え?』

「理解不能だ」

 ミノスの冷たい眼。情がないわけではない。彼にも、彼女にもそれはあった。でも、彼らは容易くその情を封じることが出来るのだ。

『その眼が、怖いのよ。ずっと、前から!』

 針はもう一本ある。逆の手で今一度、穿つ。

『……眼、か。やはり、わからないな』

 しかし、それもまたミノスは粉砕する。まるでほんの一欠けらも、魅了など入っていないような振舞い。だが、それはありえないはずなのだ。

 彼が男である限り、刹那の揺らぎはあるはず。格上であっても。

『く、そ、ほんと、私、どうしようも、ないなぁ』

『なんで、なんで、私の能力、なんで! 逃げて、逃げてよサヤちゃん!』

 ミノスは拳を振り上げる。やはり、情はある。

 でも、彼は殺せるのだ。躊躇いなく。

『抵抗しなきゃ、殺さなかったのに。もう、この戦場で生き残ることも出来ないだろう。かわいそうだから殺してあげよう。これも慈悲だ』

『……ごめんなさい、と』

 生存を諦めたサヤは、静かに零す。

『カシャフが?』

『……はい』

『そうか。ありがとう、蜂須賀サヤ』

 牛の王の拳が、サヤの上半身を吹き飛ばした。下半身だけが、寂しげに残る。ほんのわずかな痛みすらなかっただろう。

『なんで、なんでェ!』

『ごめんね、マユ。僕はね、それが効かないんだ』

 最弱の魔人、その目の前に牛の王が立ち塞がる。

『死にたくない。死ぬの、いやだ。死にだぐ、ない』

 涙に鼻水、小便まで漏らし、ぐしゃぐしゃの貌で泣くマユ。

『……死にたくない、か。それなのに、何故、僕へ能力をかける手を止めないんだい? 手を止めたら許すし、生かしてあげる。君はまだ生きられるから』

 それでも彼女は、能力を解除しなかった。無駄だと分かっても、自分にはそれしかないし、何よりも、死ぬよりも一人になる方が、嫌だったから。

『何故?』

『私、サヤぢゃんじが、いないがら』

『……そうか。その気持ちは、嗚呼、わかるなァ。ねえ、僕ら、怖かった?』

『……はい』

『なんで?』

『いづ殺ざれるが、わがらなかっだ、から』

『……そう、か。そりゃあ、そうだよねえ。当たり前、か。僕らはとことんズレていた。ありがとう、マユ。もしサヤに会えたら、ごめんと伝えてくれ』

『え?』

 大きな拳で、マユを潰したミノス。彼なりの慈悲を込めて、送る。

『奪うことが当たり前。奪われることが当たり前。僕らが生きてきた世界の当たり前と君たちの当たり前が違った。それこそ当たり前の話。すまないね、僕らはその生き方しか知らない。奪うことでしか僕らは、生きられない』

 破片となって散っていく彼女たちを見送り、ミノスは作り笑いを浮かべた。とても笑う気にはなれないが、それでも笑って奪おうと思ったのだ。

 どうせそうとしか生きられぬのであれば、せめて魔王らしく。

『さあ、僕らの魔の手から、逃れられるかな、アストライアー!』

 血濡れの腕が変形していく。まるでスナイパーライフルのように。

 同時に血が、欠片と化して、消える。

『奪うぞ』

 炎が、放たれる。


     ○


 ロキの隣で超長距離から放たれた炎が着弾する。

 大樹を形成するフラミネスを穿つ、一撃。血ではなく、木切れがそこら中に舞い散った。ロキが咄嗟に水の魔術をぶつけねば瞬く間に延焼していただろう。

「が、は。この距離でも、狙えるのですね」

「くそが、二度目はさせるかよォ!」

 ロキが防壁を張った途端、その砲撃は鳴りを潜める。しかし、解けば大本であるここを狙ってくるだろう。厄介極まる飛び道具である。

「トリスの爺は!?」

「そ、空を押さえるので、精一杯、なのでしょう」

 深手を与えられたフラミネスが息も絶え絶えに答える。

「笑えねえな。くそ、何か手はねえか。何か。考えろ、俺は、魔王ロキ様だぞ。俺が全ての始まりなんだ。俺が、俺様が、全部の」

「……貴方が早々に背を押さねば、欲望が肥大化し、より混迷を深めていた可能性があります。人は、欲深いですから。私も、貴方も、誰もが」

 ロキは答えない。ここで全てが滅びれば、あの日の思慮など何の意味もない。欲深き者をまとめて魔界に送り込み、折を見てはしごを外し全てを葬るつもりだった。思慮はあったのだ。だが、同時に新たな魔術を試してみたかった。

 その欲を否定することは出来ない。そしてその欲がこの絶望を呼び寄せた。

 その罪は、ぬぐえない。

 その罪の対価は、己が払うのであればいくらでも――

「エル・メール様ァ!」

 エルの民の悲鳴。加納恭爾が戯れに放った超重の球体。漆黒のそれが光と化した瞬間の彼女を捕らえ、術式を解除する前に腕を引き千切った。

「ば、ババア」

 彼女にとって最大の天敵こそ、重さの檻である超重であった。重さを極限まで低下することで光速移動を可能とする彼女を問答無用で捕らえてしまう最悪の相性。かつて同じ術理で彼女の翼はもぎ取られた。

 その再現を、まざまざと見せつけられる。

「畜生、畜生、畜生がァ!」

 地に堕ちるエル・メール。フリーになったファヴニル相手にトリスメギストスが抗戦に向かった。その分、空の敵は活発となり地の味方を蹂躙する。

 天秤はさらに、傾く。

「おや、どうやら面白い結果となったようだ。君も見てみたいだろう? オーケンフィールド。かつての好敵手、いや、それはあれの片思い、か」

 加納恭爾は遥か遠くを見つめる。それは以前アルスマグナが漂っていた場所。それを巡る攻防があった場所。そして今もなお戦いが続いているはずの――

「とにかく、この戦場にさらなる火種を設けよう」

 彼は次元を引き裂いた。まるでカーテンを開放するかのように。

 巨大な裂け目が生まれる。

 そしてその奥から現れるは――

「…………」

 赤城勇樹、

「か、かっか、かか」

 その引きちぎられた上半身を鷲掴みにする怪物、ニケであった。

「……嘘、だ」

 それを遠くから見つめるヒロは、呆然と膝を折った。

「なるほど、『不殺』の彼か。素晴らしいね、本当に、素晴らしい。あのニケをここまで追い詰め、消耗させるなんて、嬉しい誤算だ」

 嗤うニケもまた膝を折った。魔獣化を維持できぬほどのダメージ。これほどまでに追い詰められた記憶はそれこそこの世界に来る前、死んだ時ぐらいのもの。オーケンフィールドとの戦いでさえここまで削り合ったことはなかった。

 互いに死ぬまで戦い、結果として、生き延びただけ。

「どーいう、状況だ? なんで、手ェ、もげてんだ、オーケンフィールド」

 立ち上がることも出来ぬニケ。赤城勇樹の身体もまた欠片となって消える。

 全て燃え尽き、灰になったのだろう。

「ニケ、頼む。今は、邪魔しないでくれ」

 あのオーケンフィールドが懇願してくる。ニケは静かに、この状況を理解した。アストライアーは、オーケンフィールドは、負けたのだ。

 自分が赤城勇樹と戦っている間に。

「……シン、こいつは俺の獲物だ。今ここで回復が叶わねえ以上、逃がすぜ。その他はどうでも良い。こいつだけは俺が喰う」

「駄目だ」

「あン?」

「そのわがままは聞けないな。君はよく忘れがちだが、私が王で君は従。指図は受けない。オーケンフィールドはここで殺す。アストライアーも滅ぼす」

 ニケは無言で立ち上がり、拳を加納恭爾に向ける。

 消耗したとて彼はシンの軍勢最強。それは決して軽くない。

 届けば、だが――

「ど、どういう、こと、だ?」

「以前君たちには見せているはずだ。爆散した哀れなる王クラス、を。それが首輪だと、思わせていた。でも、それじゃあ、破壊じゃあ君は止まらない。残念ながら、君のは特別製の首輪だ。発動には相応のオドが必要だったが――」

 加納恭爾は愉悦に顔を歪めた。

「今の君なら安く済む」

「あ、あああ、あああああああああああああああああああああ!」

 ニケの咆哮。今までのような雄々しいそれではなく、悲鳴のような声。

「あがああああ、お、オオオオオ、オーケン、フィールドォぉォお!」

 彼を知る者であればあるほど、その光景は信じ難いものであった。

「君の意識はもう、要らない。さようならニケ・ストライダー。世界の剣、覇王のカウンター、その役割を果たせぬようになった時代遅れの剣よ」

 力無く、崩れ落ちるニケ。

「我が軍門に下れ。もう、ここからは私が最強でいい。君はただの従と堕せ」

 意識を失い、ゆらゆらと立つニケの姿。

「ハッピーバースデイ。さあ、手始めに堕ちた天使どもを蹂躙しろ。いくら消耗しても元最強なのだろう? それぐらい、働き給え」

 最低限、自らのオドを供給し回復させたニケを、戦いの詰めで向かわせるという悪夢。ただでさえどうしようもない戦況が、さらに悪化する。

「ふざ、けるな、ニケェ! お前だって、積み重ねの重さは、知っているだろうに。知っているからこそ、迷走したのだと、思っていたのに。何を、ふざけているんだよ。何を、操られているんだよ。せめて、エゴを通せよ。最強であり続けろよ。どこまで無様を晒すんだよ、ニケェ!」

 アルファの叫びは、ニケを揺らすこともなかった。

 かつて最強だった男もまた、意思無き獣と化してやってくる。

 圧倒的絶望。もはや活路などない。

 逃げるための準備すら、させてもらえないのだから。

『ガァァァアアア!』

 柱が地に堕ち、慌てふためくエルの民めがけてニケが飛翔する。絶大なる脅威が迫りくる。逃げる暇も与えられることなく。

「ニケェェェエエ!」

 エルの民、彼らの前に立つは一騎当千、大星。加納恭爾との交戦を終えた彼は、分身体を各方面に再度回していた。今度は撤退を支援するために。

 そのための一つが今一度最強の前に立つ。

『ガァ!』

 かつての最強は傲慢でこそあったが考え無しの、こんなふざけた拳を打ってくることはなかった。それを武にて絡めとり、勢いを利用したカウンターを――

「ッ!?」

 放った瞬間、反射で応じられ大星の分身体が爆ぜ、消える。

「ふざ、けるなよ、お前!」

 悪夢であろう。意識がなくとも、思考がなくとも、最強であった身体は、その中に流れる血は、武に反応し後出しの最適解を放ってきたのだ。

 叫びながら放ったアルファの矢を噛みつきで捕らえ、へし折る。

 そして何事もなかったかのようにエルの民を見下ろした。

「ライラ! お前だけでも逃げろ!」

 ライラを守るため、彼女の前に立った男はニケの腕の一振りで消し飛ぶ。

「……私は、次代のエルの民を担う者。退きません!」

 その怒りを力に変え、ライラは光の矢を放つ。戦闘タイプでなくとも、すでに血の薄まった王族であろうと、それでも率いる者としての意地がある。

 だが、そんなもの意思無き獣には関係ない。

「「ライラ!」」

 満身創痍のエル・メールとフラミネスを守護するロキは間に合わない。

 彼女は次を支える者なのだ。今失うわけには――

「私は、皆を――」

 守りたかった。守れなかった。自分の弱さに彼女は絶望していたのだ。

 撃ち放った光の矢は途上で立ち消える。

 ニケが、何もしていないのに。

『ガ、ア?』

 空間が捻じれ、漆黒が生まれる。膨らむ深淵、チリが、砂塵が、その漆黒に飲まれて消えていく。小さき球体の中、吸い込まれた質量だけでもそのサイズは超えるだろうに。それは小さくも力強く、そこに生まれた。

「あ、ああ」

 誰もが理解に苦しむ中、ライラだけは相好を崩す。

 そして、その球体は一気に膨張し――

『潰れろ』

 その奥より現れた手が、ニケに向けられた瞬間、大地ごと削れ、墜ちる。かの力が働いた範囲全てが陥没したのだ。

『……退け、ライラ。若いお前は、まだ死ぬべきではない』

『ルシファー、様』

 六大魔王『超重』のルシファー、顕現。

「く、くっく、素晴らしいィ! エビでタイとはこのことだ。六大魔王が直々に、この制限下に現れてくれるとは。ニケ、丁重にもてなしてやれ」

 ルシファーの力が働いている重力を押しのけ、ニケが起き上がる。

『……小賢しい』

 ルシファーが漆黒に包まれる。

 それを見てトリスメギストスとエル・メールが顔をしかめた。かつて彼と戦った者であれば悪夢以外の何物でもない本気を出そうというのだ。大地が脈動する。制限を設ける世界そのものが悲鳴を上げているような。

 それと同時に加納恭爾の直上、世界に亀裂が走った。

「……まさか」

 その先より豪速で飛来する存在に、加納恭爾は笑みともつかぬ表情を浮かべ、る前にその男の拳は加納恭爾の顔面に叩き込まれた。

「ぐ、くく、これまた大物」

 血を拭い、加納恭爾は起き上がる。

 突如現れた男もまた燃え盛る。地獄の業火に身を包まれているような状態。その奥よりまさに悪魔と言った風貌の怪物が現れる。

 荒々しい闘志と共に――

『くぁぁぁあああああ!』

 どでかい欠伸が月全体に響き渡る。星そのものを振動させるかのような咆哮だが、この男にとってはただの欠伸である。

「御用の程は? 六大魔王ベリアル様」

『寝る前の、運動だ』

 無造作に、ベリアルは拳を打ってきた。それはまたも加納恭爾に突き立つ、が今度は吹き飛ばずに堪え、反撃の拳を突き出してきた。

 それを堂々とノーガードで、顔面で受け止めるベリアル。凄まじい衝突音と共に鼻血が噴き出るも、瞬き一つせずに仁王立つ。

「それほど人族に思い入れがあるとは思いませんでした。これは嬉しい誤算です。この地に貴方方をお招きするのは私の長年の夢でしたので」

『先に貴様らに喧嘩を売った人族が敗れた。次は俺が売る。それだけの話だ。買うか? 欠片を持つ者。逃げても構わんが』

「ふふ、全てお買い上げいたしますよ」

『そうか。なら、喧嘩だァ!』

 ベリアルの号令、それと同時に直上の亀裂より続々と魔族が降り注いでくる。ベリアルの軍勢、それも歴戦の、第一世代勢で固めた魔界随一の軍勢である。

 本隊を率いる副将ベレトは珍しい光景に笑った。

 自分たちの主であるベリアル。そして仇敵であったルシファー。彼らは本気で魔獣化すると凄まじく巨大になり、的が広がり過ぎてしまう。そのため彼らは同格と戦う際はあの姿を取るのだ。人と魔のいいとこどり、最良の形態へ。

 漆黒の翼広げしは神族として生み出されながら、その荒過ぎる気性により魔族へと造り替えられた魔神ルシファー。

 獄炎まといしは魔族きっての暴れん坊。見た目は穏やかなれど、ひとたび喧嘩となれば誰よりも荒れ狂う喧嘩屋、ベリアル。

 かつて、神と魔の頂点を決さんと暴れ回っていた最強格の魔族ふた柱。そして今見せるは彼らの戦闘形態である。シン・イヴリースのオリジナルと戦った時以来、一度として見せなかった本気を今、開帳する。

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