[ 2 ] 人狼卿ルヴァン
第6話 きみの名はサラ
歯抜けの坊主は人生ではじめて体験する高級ホテルの一室に驚愕していた。
高い天井に広い室内。
この一室だけでも、もともとアジトにしていたあの図書館のロビーといい勝負だ。
王様が寝るような大きなベッドに横たわり、絵本のなかでしか見たことがないシャンデリアというものを見上げている。
自然と口がポカンと開いた。
昨日まで乞食同然の暮らしをしていた自分の身の上を考えると、あまりにも現実感がない。
一方、メイルゥは部屋の奥のほうで何やら支度をしている。
歯抜けの坊主には「覚悟おし」と一言、謎の言葉を残して姿を消していた。
が、突如として歯抜けの坊主のまえに現れる。
膝丈のドロワーズ(下着の一種)とコルセットのみという艶姿であった。
いくらもとが美人とはいえ、正直、老女のセミヌードというのは生で見るとキツイ。
豪奢な部屋に圧倒されて開いていた口は、いまでは呆れて開いている。
「さあ坊主、観念しな」
「か、観念って何を……」
「風呂だよ、風呂! これから一緒に住もうってんだ。いつまでもそんな小汚い格好してられちゃオチオチ寝てもいられないんだよ」
「い、いいよぉ、風呂なんか入らなくったって死にゃしないよ。オイラ風呂嫌いなんだ」
「そうはいくかってんだ。それからそのオイラってのもやめな。可愛い顔してんだから」
「な、なんだよう……わ、ちょ、ちょっとやめってってばあ!」
「やかましい! このメイルゥさまに楯突くんじゃないよ」
言ってメイルゥは歯抜けの坊主を捕まえた。
そのまま浴室へと連れて行き、着ていた衣服をひんむいて浴槽のなかへと叩き込む。
続けてサボンの欠片を湯船に落とし、じゃぶじゃぶと、柄付きのブラシで歯抜けの坊主の身体をまんべんなく洗い始めた。
みるみるうちに浴槽の湯面が垢で染まっていく。
純白のサボンの泡が真っ黒に変色した。
その反作用として、当然のように浄化されていくのは歯抜けの坊主のほうである。
メイルゥは手にした柄付きブラシをシャワーヘッドに持ち替えて、勢いよくさっきまでの垢まみれの浮浪児に熱い湯を浴びせてやった。
するとどうだろう。
そこにいたのは確かに同一人物だが、目鼻立ちのよく整った愛らしい童女であった。
ぞんざいにまとめ上げられていた長い黒髪もまっすぐに梳かれ、まばらに日に焼けてしまってはいるが元来の色白の肌があらわになる。
そう。歯抜けの坊主は女の子であったのだ。
「一回、湯を抜くよ。ちょいと隅のほうに寄りな」
そう言うとメイルゥは真っ黒になった汚れたお湯のなかに躊躇なく手を突っ込み、浴槽の底にある栓を引き抜いた。
ジョワっという轟音と共に、渦を巻いて汚水が浴槽外へと吸い出されていく。
同時にシャワーのお湯は依然として童女のうえから降り注いでおり、彼女の身体はまるで生まれ変わったかのように清められていった。
ガリガリの細い腕、肉のついていない胸板。
お腹だけはポッコリと膨らんで、肌も水を弾くほどの張りはない。
それを見たメイルゥはただでさえ老化でたるんだまぶたを細めた。「ほぅ」っと一息つくと、浴室に持ち込まれた丸イスに腰掛け「もう少し温まりな」と童女に言った。
「いつから気づいてたんだよ……」
温かいシャワーを浴びながら童女は言った。
「図書館でビービー泣いてたときかね」
童女はキッと鋭い視線をメイルゥへと投げて寄越した。
すると彼女はどこからか取り出した紙巻き(たばこ)に火をつけ、うまそうに紫煙をくゆらせている。「ふぅ」と一息。
「女ってな惚れた男のためには何でもするもんさね。ガキだからってあたしゃバカにしないよ」
「ばあちゃん……」
「ましてや命がけの恋ってヤツだ。
やがて浴室を濡らしていた汚水がシャワーのお湯で洗い流されると、もう一度浴槽に湯を張るためメイルゥは栓を戻した。
次第に溜まっていく湯船に身を沈めながら、童女はまた濡れた瞳をシャワーで隠す。
「そういやあんた名前は。いつまでも坊主じゃうまくないよ」
「……四十二番」
「あん?」
「四十二番。そう呼ばれてた。オイラたちに名前なんかないのさ」
「……そうかい。じゃあ、あたしが名付け親になってやろうかね――サラってのはどうだい」
「さ、ら……それがオイラの名前?」
「そうさ」
童女は、サラと呼ばれた瞬間にキラキラと目を輝かせた。
喜びに口を開き、抜けた前歯まではすぐに生やせないが、子供らしい笑顔を見せる。
「変な名前!」
「何言ってんだい。火の精霊サラマンダーから取った由緒正しい名前だよ。大事におし」
「うんっ。サラ。サラか。オイラ、サラかぁ」
何度も何度も自分の名前をつぶやいて、サラは湯船にぶくぶくと沈んでいった。
一服を終えたメイルゥは浴室にサラをひとり残し、ベッドルームへと消えていった。
彼女は旅行鞄を手に取り、おもむろに絨毯のうえへと置いた。
その様子はドアを開け放たれたままの浴室からでも観察が出来た。
サラはおのれの名付け親が、またぞろ何かをはじめるのかと興味津々である。
といってもあの旅行鞄の中身はエドガー・ナッシュの本だけのはずだ。
それは彼女自身がすでに確認している。
だから余計に驚いたのだ。
メイルゥが空の旅行鞄から、子供用のエプロンドレスを取り出したときは。
「えええええええええっ!」
サラは思わず浴室から飛び出していた。
もちろん一糸まとわぬ、真っ裸で。
びたびたに濡れた幼い肢体が、高級フロアの絨毯をびしょびしょにしていった。
「このお転婆! 何してくれてんだい! せめて身体をお拭きよ!」
メイルゥはまた空っぽのはずの旅行鞄から、バスタオルを取り出してサラへと投げた。
サラはもうわけが分からない。
不思議が募る一方だ。
「ば、ばあちゃん、いまどうやったのっ? それも魔法なのっ?」
「あん? 違うよ。さっき買っておいたんだよ」
「嘘だ! ボケた、ばあちゃんをホテルに連れてきたのオイラだぜ? ここのボイラーで使ってる精霊石があったから良かったものを――まあそんなのいいや、服なんて買ってる暇なかっただろう?」
濡れ髪のままメイルゥに迫るサラだったが、その火照った顔を鷲づかみにされ、ベッドへと投げ飛ばされた。
「細かいんだよ、いちいち。そんなの気にしてたら、これからあたしとやってけないよ?」
「こ、細かいったって」
「それからオイラもやめな。一人前のレディとしての教育もしていくからね」
すこし強めの口調でメイルゥが宣言すると、彼女の手に掲げられている可愛らしいエプロンドレスを見てサラがぼやいた。
「そんな急には無理だよ。ばあちゃんだってレディの割には粗相したじゃないか」
粗相というのは、噴水広場での一件である。
加齢による認知障害により一時的に老年性痴呆症になってしまったメイルゥが、場をわきまえずに用を足そうとしたことを言っているのだ。
「ボケてるときのはノーカンだよ。老人の罪のないお茶目に突っ込むんじゃないよ」
「テキトーな……」
「そんなことより、早く身体を拭きな。本当に風邪でも引いちまったらどうすんだい。まあ、どっちにせよ、明日は一度病院で色々診てもらうから、そのつもりでおいで」
「え? 病院? オイラ、別にどこも悪くないよ?」
髪を乾かしながらベッドのうえでサラが訝しんだ。
「あの子があんな状態だったんだ。そのままにしていいわけないだろう。ついでに虫下しやら、シラミ取りやら一切合切やるからね」
「ええええええええ」
「一緒に住むほうの身にもなってみな。ほら下着もつけな」
メイルゥのに比べて、かぼちゃのように膨らんだ短いドロワーズを受け取ったサラは、しぶしぶそれに脚を通した。
幼児体型の丸いお腹が、下着のうえにでぷんと乗る。
「こんな女の子みたいな格好したことないよ……」
手渡されたブルーのエプロンドレスを着て、サラがごちる。
しかしその顔はまんざらでもない。
ベッドから飛び降りて、すぐさま姿見のまえへと立った。
スカートのすそをつまんで、左右に振ってみる。
仕上げにメイルゥは彼女の黒髪を、白いリボンで結い上げた。
「これが……オイラ……」
鏡のなかにいる自分に驚嘆するサラ。その肩をメイルゥはそっと抱いてやった。
「見違えたね。誰もあの
サラはニカっと満面の笑みをメイルゥに見せた。
「……まあ、その前歯が生え揃うまではモテないだろうけど」
「ほっといてよ!」
夜明け前。
ふたりは軽い食事をすませるとこれからのことを話した。
まずは夜が明けたら「あの子」のお骨を引き取り墓を作ってやること。
これはそのまま同じ精霊堂に任せるからいいとして、いつまでもホテル暮らしというわけにもいかないので、ふたりが暮らす物件探しをすることを決めた。
メイルゥはまたどこかから取り出した大きな一枚の紙をベッドに広げ、いつも首から提げている精霊石のペンダントを紙にかざした。
紙はこの街の地図である。
ペンダントトップをかざした先は、ちょうどいま滞在しているホテルのうえだ。
「なにしてんの?」
サラはベッドに身を投げだして頬杖をついた。
「ダウジングだよ。ノームという精霊に、地下に精霊石が埋まってる場所を聞いているのさ。なるべくルツの薄いところには住みたくないからね」
メイルゥは地図のうえにかざしたペンダントを前後左右にゆっくりと振った。次第にペンダントは彼女の動きを離れて、勝手に振り子運動をするようになる。ときに強く、ときに弱く。
メイルゥは辛抱強く、その動きを追った。
「ノームってどんな精霊なの?」
「そうさね」
メイルゥは人差し指と親指を目一杯の伸ばして尺を取った。むかしで言う一コーレルという長さである。いまで言うところの十五センチほどだ。
「これっくらいの小さいおっさんで、一匹見たら一万匹はいるって言われてるね」
「……それってゴキ……」
「それ以上いうとノームが機嫌を悪くするからやめとくれ」
「自分で言ったんじゃん……」
しばらくしてペンダントトップが動きを止めた。
それはホテルからかなり離れたところにある、繁華街のなかだった。
「ふむ。どうやらここらがいいようだ。サラ。忙しくなるよ」
わくわくを抑えきれない様子のメイルゥに対して、サラの表情はどこか沈んでいた。
そのワケをメイルゥはまだ知らない。
期待に胸が高まり、彼女の暗い表情すら見逃していた。
夜明け前。
ふたりにとっても、はじまりのとき。
次第に白んでゆく空は、彼女たちになにも教えてはくれなかった。
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