世界でいちばん

野々ちえ

世界でいちばん

 おじさんにとどめを刺したのは、おばあちゃんのリンゴだった。


*・*・*・*・*・


「ほんとうに行くの?」

「行く」

「なんなら明日に」

「しない!」


 おじさんの決意はかたいようだ。しかしまだ油断はできない。


 肩をいからせ玄関を出たおじさんのあとを、まこともテクテクついていく。今日は誠が、仕事を休めない母親からおじさんのお目付け役を言いつかっている。学校は冬休み。空は今にも雪がふりだしそうな曇天だ。


 おじさんはズンズン進んでいく。前から歩いてきた若い女の人がギョッと立ちすくんでしまった。


 ごめんね。でもそんなに怖がらなくても大丈夫だよ。

 おじさんはとってもおおきいし、顔は怖いし、なんならおでこに刃物で切ったような傷あとが残っていたりもするけど、悪い人じゃないんだよ。ヤクザでもないよ。ほんとだよ。


 むしろバカみたいにやさしい人なんだ。


 おでこの傷だって、川で流されそうになっていた野良猫を助けた拍子に転んで、落ちていたガラスの破片でザックリ切っちゃっただけだし。

 そういえば、おでこのケガってものすごく血が出るんだね。顔中血まみれで猫の無事をよろこぶ姿はなかなかホラーだった。通りがかった人が、救急車ではなく警察に通報してしまったのも、まぁしょうがないかもしれない。

 猫を抱えダラダラ血を流しながら笑っている、強面こわもての大男のそばで小学生らしき子どもが半泣きでいたら……ねぇ?


 ……いや、かさねて言うけども、おじさんはとってもやさしい人だ。


 おじさんと出会って、誠は【鬼面仏心きめんぶっしん】という四字熟語を知った。教えてくれたのは、となりに住んでいる高校生のおにいさんだ。おじさんのためにある熟語だと笑っていた。誠もそう思う。


 ちなみに、そのときの猫は今、誠の家でたぶん一番ふんぞり返っている。おじさんもお母さんも誠も、人間はみんな猫のしもべだ。だってしかたない。かわいいんだもの。



 おじさんはなにかに追われているみたいに脇目もふらずスタスタ進む。ついていくのがちょっと大変だ。


 公園を過ぎ、コンビニの角をまがる。次の信号を渡ればいよいよ目的地だ。が、しかし予想通りというかなんというか。横断歩道まであと十メートル、というところまできて、タッタカ進んでいたおじさんの足が、あからさまに遅くなった。歩行者用の青信号が点滅しだして、やがて赤に変わる。


 おじさんに追いつくと、誠はおおきくてぶあついおじさんの手をひょいと握った。


「うわぁ、すっごい手あせー」


 おじさんは情けない顔をして誠を見おろした。ぶっとい眉毛が、泣きだす寸前の子どもみたいに歪んでいる。


「行かなきゃだめ……だよな」

「だめじゃないけど、痛いのはおじさんだよ」

「……だよなあ……」


 はあぁ〜と、絶望に打ちひしがれたようなため息をついたおじさんの右のほっぺたがぷっくり腫れている。

 そして横断歩道の先に見えるのは【ナガオ歯科】の看板。説明するまでもない。虫歯である。


「あのリンゴがなぁ……」


 そう。どうやら数日前からほんのり痛みはじめていたらしいおじさんの虫歯にとどめを刺したのは、おばあちゃんがどっさり送ってくれたリンゴだった。


 リンゴに罪はない。おばあちゃんにも罪はない。とってもおいしかった。

 ただ、おじさんがこの世で一番怖いものが〝歯医者さん〟である、というだけだ。


 信号が青に変わった。おじさんの足は動かない。

 そのとき、誠はとうとつに思った。


 今だ――と。


「ほら信号青だよ、行こう……お父さん!」


 ヒュッとしゃっくりするような音が聞こえた。誠は振り返らずグイグイおじ……お父さんの手をひっぱって横断歩道を進む。


 お父さんがお母さんと結婚してもうすぐ一年になる。認めていなかったわけじゃない。血なんてつながっていなくても、お父さんはとっくに家族だ。ただ結婚前の半年くらいですっかり〝おじさん〟呼びになじんでしまって、そのままになっていただけだ。誰も変えろって言わなかったし。なんか、照れくさかったし。


「……マ、マコちゃん」


 春がきたら誠も五年生だ。そろそろちゃん付けはやめてほしいんだけど……まぁ、今はいいか。

 それでなくてもお父さんの太い声が不安と期待にうわずっている。聞きまちがいかもしれない。どころか幻聴だったらどうしよう。いやでも確かに聞こえた。そんなお父さんの心の声が、つないだ手をつたって聞こえてくるようだ。


「なぁに、お父さん」

「……帰り、お母さんにおみやげ、買って帰ろう」


 たぶん泣くのを我慢しているせいで、真っ赤な鬼瓦としか言いようのない顔になっているお父さんを振り返って、誠はにっこりとうなずいた。


*・*・*・*・*・


 世界でいちばん歯医者が苦手なおじさんは、世界でいちばんやさしい、ぼくの自慢のお父さんだ。



【完】

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世界でいちばん 野々ちえ @nono_chie

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