01話 サイコロを知った。
気づけば僕はマンションの一室にいた。
茶色い無地のカーペットの上、ちょうど窓から差し込んだ日差しが顔に当たる最悪の位置で横になっていた。
「暑い!」
なんて文句を言い、手で日を遮りながら起き上がった。一瞬立ちくらみのようにグラッとした感覚を覚えたが、それは直ぐに消えた。
窓から見える空は輝くような青色で保健室から見たものと何ら変わりは無かった。しかし、さっきまでの頭痛や視界の不明瞭感などの貧血の症状は一切消え、まるで保健室で寝込んでいた事なんて嘘のように体が軽かった。
ただー
「ここはどこだ?」
見たところよくあるマンションの一室だ。フローリングの床にカーペット、その上には足の短い机が1つ、どうもリビングのようだった。そこへまるでポイッと捨てられたみたいにさっきまで横になっていた訳だが、どうもその前の記憶が曖昧だ。保健室で寝ていたまでは覚えている。だがその後何がどうなってこの部屋の床で寝転ばなくちゃいけないのか。そもそもここはどこなのか。
いや、何も情報がないのにただ考えていても仕方が無い。とりあえず外に出よう。このまま部屋に居ると不法侵入かなんかで訴えられるかもしれない。そうして改めて部屋を見渡すと机を挟んだ反対側に扉があるのが目に止まった。いや、逆に今の今までその存在に気づかなかったことの方が謎だ。そのほかに扉はなく、部屋についている窓も人が通るようなものでもなさそうだ。そう思い、机の反対側へ移動し、扉を開けた。
今思えば、この時の僕は随分と冷静だった。普通、保健室で寝ていたのに突然訳の分からんマンションの一室に転がされていたらもっと気が動転したり、混乱していてもおかしくはなかっただろう。直前の記憶があれば誘拐なんかも疑ったはずだ。記憶が曖昧な事も上手く作用したのか、しかし、異様に冷静だった僕でさえも動揺を隠せないことが次の瞬間起こったのだ。
ーそう。扉の先にはクマがいた。いや、クマと言っても本物ではない。頭に黒いシルクハットを被り、右手には黒いステッキを握り、虚ろな黒い目をしたれっきとしたぬいぐるみだ。ただし、1m弱ほどの大きさで2本の足で鏡台の上に立ち、僕を見ると恭しくお辞儀をしてくるようなぬいぐるみだ。訳が分からない。まるで物語の中にでも入り込んだのか。
僕が放心してしまって何も言えないでいるとそのクマは不思議そうにこちらを見つめ、そして首を傾げてみせた。
おいふざけんな。それはこちらのセリフ、もとい行動だ。決してお前がすべきもんじゃない。
そうやって何秒か見つめあっていると、不意にそのクマは
「やあ、どうもこんにちは。私はここの支配人です。名前は特にありませんので、私のことはクマと呼んでください。それでは今からルール説明を始めたいと思います。」
と喋り出した。
おいおいおい。ちょっと待て。お前喋るのかよ。いや、しかしまあ動くし喋るまではいいとしよう。だが、ここの支配人ってなんだ?人なのか?つか自分でクマって自己紹介しなかったか?それにルールってなんだ?聞いてもいない訳の分からんルールをどうして突然説明するんだ?そもそもここどこだよ?
などなど。様々な?マークが僕の脳内を駆け巡る中、クマはこちらを見つめ反応を伺っている。いや、待て。そんな目で見るな。ちょっと時間をくれ。なんて心の中で願ってみるが通じはしない。
「では、ルールの1つ目ですが…」
なんて言って話し始めてしまった。くそ。ちょっと待ってって言っただろうが…!
「し、質問!」
なんとかそれだけ喉からしぼり出し、話を中断させる。
「なんですか?」
クマは首を傾げこちらをじっと見てくる。
やばい。この後のこと考えてなかった。
「え、えーっと。とりあえずあなたは何?誰?ですか?」
「私はここの支配人です。」
「人?なんですか?そもそもここはどこです?」
「?…もしかして何も聞いてないんですか?」
なんて言って不思議そうにクマがこっちを見てきた。いやいやいや、聞いてるも何も直前の記憶が曖昧なのだ。
クマは一瞬戸惑ったような顔をしたが、直ぐに納得したように
「…あのバカ。また強制的に眠らせたな。」
なんて呟いて、
「大変失礼しました。どうも手違いがあったようで。眠る前の記憶がないのですね?」
と言った。
眠る前?よく分からんが、とりあえず頷いておく。
「了解しました。今からあなたの記憶を戻しましょう。少し目を瞑ってください。」
は?ちょっと待て。記憶を戻すってどーゆー事だ?今めちゃめちゃ軽いノリで言ってたがそれだいぶヤバいことしようとしてねえか?
「待って待って。何しようとしてるんだ?」
「記憶の復元ですが?」
平然とした顔でクマは答えてくる。まったくもって馬鹿げてる。
「どうやって…?」
「方法に関しては答えられません。ただ、あなたに害がないことだけは保証します。」
「なんでそんなこと出来るんだよ?」
「ここの支配人ですから。」
答えになってない。それに信頼できない。
こちらの戸惑いに気づいたのだろうか。クマはこう続けた。
「すみません。今の私では信頼に値しないと思います。ですが、これだけは信頼してもらうしかありません。恐らくあなたの記憶が戻ればもう少し状況が理解できるでしょう。ですので、どうか信じて貰えないでしょうか?」
ああ、もう。
「分かったよ。分かった!目を瞑ればいいんだな!?」
こうなったらヤケだ。意を決し、目を瞑る。
一瞬。ほんの一瞬だった。なんの脈絡もなく記憶が弾けた。
**
視界は暗く、もうほとんど見えていない。もはや平衡感覚など機能しているはずもなく、例えるなら回転バットを50回やった後みたいだ。グルグルとまわってる感覚がずっとある。しかし、何故かその妙に耳に残る声だけはハッキリと聞き取れた。
「今からあなたには叶依区へ行ってもらいます。そこはこの世界のどこにも存在しない場所であり、同時にあなたの知っている範囲ではどこにでもある場所です。そこは眠っている間しか入ることの出来ない場所です。そして、あなたの望みが叶う場所でもあります。」
そこで一旦言葉を切り、息を吐いた。まるでため息みたいだったのは存外被害妄想では無いかもしれない。
「おめでとう。そして、健闘を祈る。」
それが僕が眠る前に聞いた、最後の言葉だった。
**
「…今のは?」
「復元可能だった、あなたの記憶です。」
ということは、あれが眠る前の最後の記憶ということ。そして。あの声は間違いなく、例の不審者の声だ。
「あの出来事は…現実?」
「ええ、もちろん。そして、彼の言葉は全て真実です。」
もちろん。そんなことは信頼できない。それに全てを真実だというのであればそれは1つの結論を示す。それはあまりにも信じ難く、心躍る誤算だ。僕は喜びを隠し、尋ねる。
「ここは?」
クマは言った。
「おめでとう。そして、ようこそ。」
ーーどこにもない街、叶依区へ。
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