第42話 時の旅人(4)




「真琴……?何言って……」


 真琴の肩に触れようとする女性の手を、手袋をはめた手で強く払いのける。


「触んじゃねぇよっ!」


「どうしたの?」


 女性は拒絶されたことに驚き、なぜ拒絶されたのか分からないと言いたげに焦る。その様子を真琴は怒りを露わにしながら、哀れむように見て笑う。



「どうしたの?ってか?……ははっ。てめぇはまさか、自分が息子からまだ愛されているなんて思っているんじゃねぇだろうな?どれだけおめでたい頭してるんだよ」


「……」


 女性は思い当たる節があるのか、黙り込む。


「俺を置いて逃げた女のことを忘れるわけねぇだろ。


 親父から逃げたあんたを!残された俺がどんな思いで今まで生きてきたか……てめぇには分かんねぇだろうなぁ!なのに、へらへらと何もなかったみたいに話しかけて来やがって、気持ち悪りぃんだよ!今更母親面してんじゃねぇ!」


 真琴は今まで溜めていた感情を吐き出すように叫ぶ。


 俺は真琴と出会うまでのことは知らない。けれど、あのマンションでたった一人で暮らしている真琴に何かあった事だけは感じていた。


 それに、重度の潔癖症と、真琴のこの人が変わったように変わる態度。


 それらが、真琴が普通の暮らしをしていないことを暗に示している。


 女性は涙目で真琴を見上げ、怯えるように言葉を選ぶ。


「あの時は、本当にごめんなさいね……でも、貴方のためだったの。今はお父さんと仲良くしてるんでしょ?ねぇ……」


「あぁ?俺のため?ふざけんなよ!てめぇのエゴを勝手に押し付けてんじゃねぇよ!


 それになぁ、あんなクソ親父なら死んだよ。俺の目の前でな」


「そんな……」


 呆然と立ち尽くす女性から真琴は目をそらし、踵を返してオフィスから出て行こうとする。


「ちっ。分かったら、二度と俺に話しかけんな」


 そしてそのまま振り返らず、オフィスを出て行き俺もその後を追いかけていった。


「真琴、あれでいいのか?」


 オフィスを出ると、真琴はエレベーターの前の壁にもたれて座り込んでいた。


「いいんだよ、あんな母親。自分のことしか考えてねぇ自己中野郎だ。そんな奴……」


 俺もその隣に座り、真琴が納得いくまでただ聞く。


 真琴も黙り込むようになり、落ち着きを取り戻したように大きく深呼吸をする。


「……ふぅ。取り乱してしまい、すみません」


 そして、ぎこちない苦笑いを浮かべながらそう言う。


「大丈夫だ。無理しなくていいぞ。あそこまで荒ぶるってことは、お前にとっては大事なことだろ?」


 俺はそう聞く。真琴は顔を下げ、少し考えた後ゆっくりと口を開く。


「……はい、あの、聞いてくれますか?僕の話」


「あぁ」



 真琴の口から語られたのは過去の話だった。




 ***




 僕の家は父と母の三人家族。


 母はおっとりとした温厚な性格で、人付き合いも上手く、困っている人がいたら助けずにはいられない人だった。良く言えば心優しい人。悪く言えばお人好し。けれど、僕はそんな母が好きだった。



 父は一流会社に勤めるサラリーマンで、若くして多くの部下を抱えていた。仕事もできて、正義感が強く誰に対しても平等で、自分に厳しい人。

 世間では家族思いの優しい父だと、そう評価されていた。


 とても仲良しで、平和で幸せな家族だと。そう思われていた。


 けれど、それは表の顔。上部だけの、偽りに満ちた家族の姿だった。




 この家では唯一の暗黙のルールが存在していた。





 父を怒らせてはいけないという、ルールが。



 父は一度怒ると、僕か母を殴るまで気が済まなかった。しかも、かなり短気で何か気にくわないことがあるたびに怒鳴り散らして怒りを暴力でぶつける。


 僕と母はそんな父の機嫌を常に窺い、機嫌を損ねないように気を張り続けていた。



 父が暴力を振るう度、母は父が僕に暴力を振るわないように庇ってくれて、守ってくれていた。


 弱い僕は何もできなくて、ただ母に守られるだけだった。


 けれど、母はそれに耐えられるほど強くはなかったのだと思う。


 僕が十二歳の時だったかな。


 最後には、僕を見捨てて家を出て行った。


 母が出て行ってから、父の様子が少しずつ変わっていった。


 怒ると暴力を振るうのは変わらなかったけれど、少しずつ僕に女の子の格好をさせたがり、学校に行く以外では女の子の服を着ていろと言われた。


 言葉遣いや仕草も、おしとやかな女の子のように振る舞うように強要された。


 そうして、僕に母の姿を重ねていった。


 父の要望に少しでも嫌がると父は僕を殴る。


 僕は殴られるのが怖かったから、父に逆らうことができずに、言われた通りに、家の中では女の子のように振る舞った。




 僕は父の理想のいい子でいるようにした。




 そうしなければ、痛みと恐怖が僕に降りかかるのだと、僕は理解していた。




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