佐藤くるみを包む魔法と夢

第36話

 その1日は、佐藤くるみにとって驚きと夢のような感覚に包まれたものだった。数日が過ぎた今も不思議な余韻は続いている。


 🧩🧩


 皮を剥いた林檎を食べる黒うさぎと、ゲージの前にしゃがみ込むくるみ。窓を染める夕焼けが、くるみと黒うさぎがいるゲージを照らしている。


「モカちゃん、美味しい?」


 うなづくような仕草を見せた黒うさぎ。その可愛らしい姿はくるみに笑顔を呼び寄せた。連れて帰ってから数日間。何も食べなかった黒うさぎが、彼女の前で果物も野菜も食べるようになった。


「よかった。いっぱい食べるようになって元気になったね」


 くるみの弾む声に、黒うさぎの耳がピクピクと動く。黒うさぎが食べ消えていく林檎を見ながら、くるみは数日前の出来事に思いを巡らせる。

 教室を突如騒がせた1匹の猫と、それをきっかけに同級生の少年、松宮由希が語ったこと。それはくるみがすぐには信じられないものばかりだった。

 黒うさぎは月に住む魔法使い。彼が小さな頃のことを忘れてしまった経緯と今に至るまでのこと。


 月にある世界。彼の祖母は月の世界の住人だった。魔法使いの力で人間になったことと、祖母の命のカケラを秘めた回転パズル。

 回転パズルの力で、過去を知ることとなった彼が出会ったルキアという少年。ルキアは彼が失った記憶から生み出された存在だった。絶望庭園という絶望に彩られた世界と、彼がルキアに託した回転パズル。

 彼の記憶を飲み込んだ、絶望の闇という恐ろしい存在。絶望庭園で生まれた木野瀬ブン太と1匹の猫。木野瀬ブン太が死なない存在であることと、教室を騒がせたのはルナだっという事実。

 総てを語り終えた彼は言った。


『木野瀬とルナのことだけは、宮野には黙ってようと思うんだ。宮野の怖がりようは見てて可哀想だったし。佐藤に話したことは、宮野と和也にもちゃんと話す。……嘘みたいなことばかりだし、信じてくれなくてもいいんだ。僕もまだ信じきれてなくてさ……モカが魔法使いだってことも、まだピンとこないから』


 語り終えた彼が見せた笑顔。

 それは小さな頃に見た笑顔と同じだった。高校に入学して再び会えた彼。

 同じクラスになって見ていた彼は、いつも何かを考えているようで話しかけにくい印象だった。

 話してくれたことから、自分の夢にひたむきなのだとわかった気がしたし、遠く感じていた距離感も縮まったように思う。

 実際に彼は、彼女の親友である彩音と岡部和也に同じことを語った。ふたりだけの屋上から保健室に向かい教室に戻る前に。

 好奇心いっぱいに聞く和也の横で、冷めた顔つきだった彩音。だが話を聞き終える頃には、彼に向ける視線から厳しさが消えていたように見えた。

 

『くるみと一緒に絵本……ね。松宮君が考える物語が、くるみの絵をぶち壊さなきゃいいんだけど。くるみ? どうするかはすぐに決めなくていいんだからね?』

『由希に壊されるのが嫌だったら、宮野さんも絵本の夢に乗ってみたら? みんなで絵本のこと話し合おうよ。物語の流れとか出てくる人物とか。佐藤さんがどんな絵を描くか楽しみだよ』


 数日過ぎた今も、信じきれていない話と動き出した彼の夢の中、くるみは悩み続けている。

 あの日、彼が浮かべた笑顔を前に笑えなかったことと、彩音と和也を交え話す中彼の名前を呼べずにいること。


「モカちゃんは話しかけてるの? 彼の名前を呼んでる? 私も……彼の名前を呼んでいいのかな」


 くるみの問いかけに答えるように、ゲージの中でくるくると跳ねる黒うさぎ。くるみには黒うさぎの声は聞こえない。彼と木野瀬ブン太にだけ声が聞こえるのは何故だろう。

 月の世界と繋がっている彼と、絶望庭園で生まれた木野瀬ブン太は特別な存在なのか。だが彼の話を聞いて以来くるみは思う。

 黒うさぎの父親は人間ひとの姿となり、まかろんはうすを経営している。客と接し言葉を交わしているなら、黒うさぎも父親と同じように話せるのではないか。自身に魔法をかけて人間ひとの姿になったなら……


「モカちゃんも男の子の姿になれる? そしたら私も……モカちゃんと話せるのかな」


 くるみを見た黒うさぎの耳がピクピクと動く。首をかしげるような仕草のあと黒うさぎはくるりと背中を向けてしまった。

 くるみは思った。

 幼い黒うさぎにはまだ、人の姿になるだけの魔法は使えないのだと。


「ごめんね。モカちゃんを傷つけるつもりじゃなかったの。彼も木野瀬君もモカちゃんの声が聞こえるみたいだし、私も……そうだったらいいなって思っただけなの。……ごめんね」


 振り向いた黒うさぎの前足が、ゲージの扉をトントンと叩いた。『くるみちゃん、ここから出して』というように。赤い目がくるみを見上げている。


「出たいの? ごめんね……ゲージに入れちゃったの、モカちゃんには可哀想なことだよね」


 ゲージの扉を開けると、黒うさぎはすぐに飛び出した。部屋の中を元気よく跳ねまわったあとくるみの前に座り込む。


「ねぇモカちゃん。モカちゃんが出来ることだけでいいの。少しだけ魔法を見せてくれないかな」


 くるみに答えるように、黒うさぎがコクリとうなづいた瞬間とき。机の上に置かれたスケッチブックがパラパラと動きだした。

 机に近づいたくるみに見えたのは、スケッチブックの中で可愛らしく動くぷち王様。


「すごいっ‼︎ モカちゃんが動かしてるの? 私が描いた王様なの……彼が一緒に、物語にしていこうって言ってくれた」


 くるみの笑顔を夕焼けが染める。穏やかで優しいオレンジ色に。


「モカちゃん……ぷち王様の物語が生まれたら、彼の名前を呼んでみようと思うの。小さな頃のように……由希君って。呼べるかな……呼べるようになれるといいな」

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