第35話

 彩音の足が止まって、世界が動きを止めた気がした。和也を押しのけ振り向いた彩音。

 血の気が引いた顔。

 だけど僕を見る目には、佐藤を守ろうとする強さが宿ったままだ。

 佐藤の目が彩音に流れていく。


「僕は絵が下手だし、こんなんで絵本作家なんて笑われるかもしれないけど、空想と想像を楽しむことは誰にも負けないと思うんだ。佐藤……ぷち王様の世界を、一緒に動かしていかないか?」

「宮野さん、俺は由希と佐藤さんに何があったか知らない。友達として悪いと思うけど、由希は……由希だって悩んでたのわかってくれないかな。佐藤さんもわかってよ、……由希は正直でいい奴だからさ」

「……まったく、岡部君も松宮君もなんなの?」


 彩音の視線が和也に流れた。不意を突かれたような和也と不安げな佐藤。


「なんだったんだろあの猫。思いだすだけでゾッとする。明日も明後日も、猫がいるなんてことないでしょうね」


 顔をひきつらせ体を震わせる彩音。血の気が引いていた顔が、赤くなっていくのはどうしてだろう。

 ルナへの怒りがそうさせるのかな。

 和也から目をそらし、場を取り繕うように咳払いをする彩音を見ながら思う。木野瀬とルナのことは、彩音の前では絶対に言えない。


「……ホラー映画が悪いのよね。くるみは……ホラーは観ないんだっけ。岡部君は知らない? ある村の住人が1匹の猫を除いて、全員ゾンビになっちゃう話。猫の正体はゾンビを主食とする化け物で、ひとり……またひとりとゾンビを食べていくの。みんなが食べられた途端にエンディングになるんだけど」

「知らない。由希は知ってるか?」

「さぁ? ……B級ホラーってやつ?」


『岡部君に聞いてるんだけど』と彩音は怒りを露わにする。僕への怒りにブレがないみたいだな。


「上映当時、結構有名だったんだけどな。ゾンビを食べる猫がとにかくリアルで……そんな映画、レンタルで観た自分がいけないんだけどさ」

「宮野さん、少しは落ち着いた? 顔色も良くなってきたし、保健室には」

「行くわ。教室に戻っても、猫がいるかもしれない。……岡部君連れてってよ」

「彩音ちゃん……私も」

「みんなで行くことないでしょ? 岡部君、今話した映画に興味ある?」

「いや、俺は別に」

「あることにしてよ。くるみ達の話が終わるまで、詳しく教えてあげるから」

「……宮野」

「話しかけないでよ。私が松宮君と話すのは……くるみ次第なんだから」


 背を向けた彩音が、和也の腕を掴み歩きだした。振り向いた和也の顔に浮かぶ戸惑いと、ふたりを見る佐藤の横顔。


「くるみ、話が終わったら保健室に来てよ。教室……一緒に戻ろうね」

「彩音ちゃん」

「宮野さん、離してくれないかな? 保健室には行くからさ」

「駄目よ。……松宮君の友達なんて、信用出来ないもの」


 ふたりが離れていく。引きずられるように歩く和也を見ながら息を吐き出した。僕を見てすぐにうつむいてしまった佐藤。


「いい天気だし屋上に行かないか? 聞いてほしいことがあるんだ。モカのこととか」

「……モカ?」

「うさぎの名前なんだ。……違う名前で呼んでる?」

「ううん。うさちゃん、何も食べてくれなくて。名前を考える余裕なんてなかったから」

「そのことなんだけど……信じてくれるかな。モカがトイレのことで悩んでるって」


 佐藤はきょとんとしている。馬鹿だな僕は……モカのことを話す前に、泣かせたこと謝らなきゃいけないのに。


「……トイレ? うさちゃんが?」

「佐藤に見られるのが恥ずかしいみたいでさ。あいつは野菜嫌いで……父親は、野菜嫌いを克服してほしいと思ってる」


 階段に向かい歩きだした。数日前に佐藤と歩いた廊下。不思議だな……数日前の僕は、冷めた気持ちで佐藤の話を聞いていた。それなのに今日は、早まる鼓動にせかされてる。

 モカとまかろんはうすが現れただけで、僕の日々はこんなにも変わってしまった。少しの間を置いて聞こえだした、僕を追う佐藤の足音。


「うさちゃんのことわかってるみたい。野菜嫌いとか……お父さんとか」

「話してるのは全部ほんとのこと。……あんなでも、モカは魔法使い」

「うさちゃんが?」

「モカの父親は八重婆ちゃんの知り合いだったんだ。モカは月に住む魔法使いで、八重婆ちゃんも……月の住人だった」


 屋上に向かい昇る階段。

 数日前は佐藤を追いかけたのに、今日は僕が追いかけられてる。

 モカは佐藤に話したこと聞いてたよな。佐藤がモカの悩みを知れば、気持ちが楽になって食べれるようになると思うけど。……飴玉のことも、言ったほうがいいのかな?


「リュックに入ってた飴玉。あれはモカの非常食なんだ。モカの父親が言ってたから、嘘じゃないと思う」


 佐藤は何も言わない。

 こんなこと信じられっこないし、僕が佐藤ならたぶん信じない。だけど返事がないのって……僕のこと呆れてるのかな。


「モカは僕に話しかけてくるし、人間ひとの言葉がわかる。佐藤からも言ってやってよ。いっぱい食べても大丈夫とか。食べ過ぎたら……面倒を見る佐藤が大変だろうけど」

「……飴玉」

「え?」

「私が全部舐めちゃったの」

「そうなんだ。……あのさ、あいつ単純だしモカって呼べば、野菜嫌いを克服出来るんじゃないかな」


 屋上が広がる扉の前に立った。

 数日前、回転パズルの力で過去に向かった。今は自分の力で……未来に向かっていく。


「モカの父親は、月の世界1番の魔法使い。嘘みたいな話だけど、信じてくれるかな……佐藤」

「うさちゃんのこと……帰ってみないとわからない。ほんとのことなら、うさちゃんが食べてくれるはずだから」

「そっか。……これから話すのは、僕と佐藤のことだけど」


 扉を開けた。

 視界に飛び込む陽射しと屋上。

 小さな雲の群れを見上げ息を吸い込んだ。

 夢を描き続けた空のキャンバス。僕が話すことが新しい筆になって、空に希望を塗り込めるように。


「僕は長い間、佐藤のことを忘れていた。事故に遭ったことが原因じゃない。小さな頃の記憶は……暗闇に飲み込まれてたから」

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