第33話

 女みたいな名前を呼ばれるのを嫌がっていた日々。

 姉貴が僕を『由希ちゃん』と呼びだしたのは、小学校を卒業する前だったっけ。僕が名前を嫌いだしたきっかけ。だけど、そう呼ぶのが姉貴なりの優しさなのだと知った今。


 モカとミント。

 ココとルキア。

 幼い頃の佐藤と数日前の佐藤。


 親しみを込め僕を呼ぶ彼らに囲まれた今は、苛立ちもコンプレックスも何処かに消えてしまった。


「ありがとな、和也」

「え? なんだよいきなり」


 教室に向かう廊下で和也は足を止め、驚いたように僕を見る。通り過ぎていく生徒達の中、僕は息を吐きだした。


「名前で呼ばれるのを僕は嫌がってただろ? だから和也は名字で呼んでくれてた。だけどこの名前……いいなって思えてきたんだ」


 心がざわめいている。

 自分がどんな顔をしてるのか、見えないのにわかるんだ。


 僕は今笑ってるんだって。


 心が新しい空気を吸い込んでいる。心をざわめかせるのは……未来を待っている僕自身だ。

 ワクワクするな。

 すごく……ドキドキする。


「名前で呼ばれるのいいなって。和也より先に、僕を名前で呼ぶ人達がいてさ。佐藤もそのひとりなんだけど」

「よくわかんないけど。……俺も名前で呼んでいいの?」


 和也の背中を押して、僕達は教室に向かい歩きだした。

 廊下を照らす朝日と、生徒達の笑い声に包まれながら、心のざわめきに耳を傾ける。


 ワクワクとドキドキ。

 その始まりは数日前、佐藤が僕の名前を呼んだことだった。

 佐藤がこれからも、僕の名前を呼んでくれるなら。


『由希君』


 数日前の佐藤の声がこだまする。


「松み……じゃなかった、由希。どうだ? 俺が呼んでも変じゃないよな?」

「何が変なの? 嬉しいな、和也と名前で呼びあえるんだ」

「この流れで、宮野の苛立ちに勝てればいいけどな」

「勝たなくちゃ。……ちょっと困ったこともあるからさ」

「何それ? 佐藤絡みで?」

「うん。このことも、あとで話せると思うけど」


 モカのトイレ事情。

 排泄を恥ずかしがり、何も食べないモカ。僕が考えてることは読み取ってるんだろうか。

 食べれるようになって元気になったら、舌ったらずな声でどんな言い訳をしてくるんだろう。


「おはようっ」


 和也の声が教室に響く。

 佐藤と彩音が窓際に立っているのが見えた。僕に気づいた彩音と振り向いた佐藤。彩音が佐藤の腕を掴み僕を睨んでくる。


「由希、そろそろチャイムが鳴るぞ」

「うん」


 和也と一緒に席に向かい、授業の準備を進める中木野瀬が入ってきた。

 金色がかった茶髪。今日も雅先生の小言を聞くことになるのかな。


「よぉ、馬鹿宮」

「おはよ」

「色々と大変だな」


 木野瀬は面白そうに笑う。

 彩音の怒りもモカのトイレ事情も、ルナが把握して木野瀬に教えてるんだな。まったく……モカもルナも僕の立場になってみろっての。考えてることを勝手に知られるの、いい気はしないんだけど。


「馬鹿宮、ルナの機嫌は取っといたほうがいいと思うぜ?」


 木野瀬が耳元で呟いた。

 どういうことだろう。

 機嫌を取るも何も、ルナの姿は見えない。


「宮野彩音は……大の猫嫌いだ」

「え?」


 ルナの読み取る力。ルナが彩音のことも、誰のことも読み取ってるとしたら。だけどルナは何処にいるんだろう?

 木野瀬と出会った数日前の朝。

 ルナは突然現れたんだ。

 あの時も何処いたのかわからなかった。今も姿を消して木野瀬のそばにいるとしたら。


「ニャーオ」


 猫の鳴き声にざわめきが重なった。

 聞き慣れてしまったルナの鳴き声。

 教室を見回すなかで、彩音のひきつった顔が見えた。

 小さな頃、出会った時から強気だった彩音。

 猫嫌いだなんて意外だけど、彩音は明らかに戸惑っている。教室の何処からか聞こえた鳴き声に。


「由希、今……猫の声が」

「みんな、そろそろ先生が来る。静かにして‼︎」


 和也と学級委員長 田宮栄太たみやえいたの声。静まりかけた教室内に再び響いたルナの鳴き声。

 彩音の顔から血の気が引いている。彩音を落ち着かせようとする佐藤と、教室内を見回す女子達。


「ねぇ、まさかとは思うけど。この教室呪われてないよね?」


 女子の声に彩音は体を震わせた。あれって、猫嫌いって言うより怖がってるんじゃないのか?


「何してんだ馬鹿宮、佐藤に話しかけろよ」


 木野瀬は僕の耳元で囁いた。

 もうすぐ雅先生がやって来る。

 教室のざわめきと木野瀬の校則違反。雅先生の小言はどっちに飛ぶんだろう?


「決めたんじゃなかったのか? 考えるより動くんだって。うさぎの腹ペコはキツイよなぁ」

「うさぎ⁉︎ 何? どうしたんだよ由希‼︎」


 和也の声と木野瀬の笑み。

 数日前、和也が言ってたことを思いだした。和也が可愛がっていた、ウサコと名付けられたうさぎ。

 和也が見た夢にモカは現れていた。

 和也はどう思うだろう。

 夢に現れたうさぎが、トイレ事情で何も食べてないなんて。


「おい、馬鹿宮」

「ニャーオ」


 木野瀬とルナの声に弾かれて席を立った。モカのトイレ事情は、木野瀬とルナの背中まで押したのか。僕を面白がる形で。


「佐藤、宮野は大丈夫なのか?」


 弾かれた勢いのまま出した声。

 驚いたように僕を見る佐藤と、席に向かっていく木野瀬が見える。


「宮野の具合が悪いなら……一緒に、保健室に連れて行こう」

「くるみに話しかけないでよ‼︎ なんでもな」

「ニャーオ」


 ルナの鳴き声が響き、彩音は言葉を飲む。彩音のただならぬ様子に、そばにいる女子達からも心配の声が漏れ始めた。


「宮野さん、松宮君の言う通りだよ。行って来なよ保健室‼︎ 」

「何してるの佐藤さん。松宮君が連れてってくれるって‼︎」


 ざわめきの中雅先生が入ってきた。

 今日も襟元で、髪の毛が外側に跳ねている。


「おはよう、今日はやけに騒がしいな」

「先生、何処かに猫が」

「それより先生、宮野さんの具合がっ」

「猫? ……宮野の具合?」


 教室内のざわめきに雅先生は眉をひそめる。雅先生が1番に目を止めたのは、木野瀬ではなく彩音だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます