第20話

 僕と同化する暗闇がひび割れていく。体が壊され粉々になる前に、絶望庭園に帰らなければ。


 与えられた体が人間ひとと同じように、痛みや死の苦しみを感じられるなら。暗闇から離れても自由でいられるなら、人間だと言える幸せがあるだろうか。

 人間ひとの姿をしながら人間と違う僕は、姫君とリフの優しさの中で生きている。

 僕の居場所は絶望庭園。

 姫君とリフがいれば何もいらない。それなのに、由希の声に感情的になるなんて……僕らしくもない。

 由希も由希だ。

 幼い君の中の、僕の声を聞こうとするなんて。君を憎む叫びを聞いて何になる?

 絶望庭園に帰らなきゃ。

 僕が死んだら、姫君とリフを悲しませてしまう。暗闇が壊れる前に帰るんだ。そしてもう2度と……絶望庭園からは出ない。


「ボクの声が聞こえる? ……ボクには聞こえるよ……君の声が」


 由希を慕う魔法使いか。

 気安く話しかけるな、僕は……由希とは違うんだから。


「由希君の思い出……あったかいね」


 黙れ。

 もうすぐ訪れる夜の闇。

 夕暮れが闇に落ちれば猫を引きずり込み、猫が放つ光と共に飲み込むことが出来る。……だが木野瀬ブン太。

 彼と猫の繋がり……それは、どれだけの強みを秘めているのだろう。

 彼の声から感じ取る不安はなく、猫の動きにもためらいはない。猫が命の危険に晒された時……彼はどう動くのか。


「……危険になんて晒させるか。ルナは大事な相棒だからな」

「ニャーオ」


 僕の想いを読み取った彼は言い、応えるように猫が鳴いた。僕を嘲り心を踏みにじるのは由希だけじゃない。


「……踏み躙る? 勝手に現れて何を言ってるんだか。帰るなり死ぬなり好きにしろ。……ルナ」

「ニャーオ」


 彼の声が響いた直後、猫が僕に向けて放ち続けた光が消滅した。

 僕が同化した暗闇は、ピキピキと音を立て続ける。僕の苦しみが壊し続けてるのか。苦しみが望むものはなんだ。僕が望むのは、姫君とリフのそばにいることだけなのに。


「嘘だ。……君の本当は」


 魔法使いが……黙れと言っただろ。

 由希が呼び寄せた暗闇の中にいる皮肉。姫君とリフを裏切って、絶望庭園を捨てた者と対峙する皮肉。

 猫は何故、絶望庭園から逃げ出した?

 姫君とリフの優しさを捨ててまで。


「……優しさ……か」


 彼の呟きに宿る冷たさは、姫君の声から感じた冷たさによく似ている。

 ……似ているだけだ。

 僕は随分と感傷的になっている。


「由希ったら、いっぱい食べたのねぇ。またご飯を作ろうかしら……そうだわ、今度は凛子さんと一緒に」


 お婆様の優しい笑顔が、僕に懐かしい想いを呼ぶ。幼い由希の中で、浮かぶ想いのまま僕は話しかけてたんだ。


 肉じゃがと野菜炒め。

 僕も一緒に食べてたら『美味しかった』って言えたのに。『ごちそうさま』って言いたいな。

 お母様の手作りコロッケ。『食べたいな』って言えば作ってくれるよね?

『一緒に作ろうよ』って言えたら、お母様と一緒に台所に立てるかも。お母様を見てるだけかもしれない。それでもお姉様と一緒に、コロッケが揚がるのを待っていられる。

 お姉様。

 僕は……僕として由希の中にいるんだよ。僕はね、明るいお姉様が大好きなんだ。『大好き』だって言えたらいいのにな。

 仕事休みの日、由希と遊ぶお父様。

 僕は由希より、キャッチボールが上手いんじゃないかな。だからお父様と……キャッチボールが出来たらいいのに。


「これから仲良くなれたらいいね。ボクは君と……仲良くしたいな」


 舌ったらずな魔法使いの声。

 君も月の住人達も、僕の世界を恐れている。僕達の世界が歩み寄れるはすばないんだ。

 僕は絶望庭園と、暗闇の中でしか生きられない。

 誰とも仲良くなんて……


「なれるよ。……由希君の中にいた君は、いっぱいの優しさを知っているから」


 音を立てる暗闇が、夜の闇の訪れを告げる。僕が思うままに……暗闇は動きだす。

 夜の闇と同化して、猫と由希を飲み込んでやる。

 暗闇には……過去も今もないんだから。


 苦しみを浮かべたままの由希。

 目覚めなければ、何も知らずに消えていくだけだ。君を飲み込んだら……君が訪れた過去も全部飲み込んでやるよ。

 それで僕の苦しみも消える。

 幼い君が悲鳴を上げ、粉々になればお婆様を恐怖で包んでしまう。

 待っててお婆様……すぐ楽にしてあげるから。僕にくれた優しさと一緒に、夜の闇の中で……眠るんだ。


 僕が生み出した黒い手の群れが、由希を覆い隠していく。

 木野瀬ブン太。

 彼の声は響かず猫は動かない。

 僕を哀れんでるのか?

 人間ひとではない彼が、人間ひとではない僕を哀れむなんて……滑稽だな。

 君はどう動くんだ?

 由希を飲み込んだら猫も飲み込んでやる。猫が飲み込まれた時君は……


「……知りたければ飲み込んでみろ。僕は言った……ルナを、危険に晒させはしないってな」

「ニャーオ」


 猫は動かずに、由希を覆い隠す手の群れを見つめている。

 飲み込んでみろ……か。

 彼は何を考えてる?

 猫の黒い目が、僕を見透かすように輝いた。


 ひとつの手が感じ取る冷たく濡れた感触。

 これは……血?

 由希が過去を巡る前の屋上。

 猫がつけた傷から流れたものか。

 黒い手を濡らす赤。

 夜の闇に落ちた夕焼けと同じ色。

 由希の中で見たことがある。

 お婆様が描いた夕焼けの空。描きあげたお婆様の穏やかな横顔。


『もうすぐ絵本を描き終えるの。太陽が照らし続ける、夜が来ない世界の物語よ。……違うのよ由希、この夕焼けは息抜きに描いたもの。子供の頃……主人と出会った頃に、一緒に見上げた夕焼けを描いたのよ。主人と出会った時から続く幸せ。由希、温かい世界の中で……繋がりは紡がれ続けていくのよ。いつまでも……ずっとね』


 あの日、由希に向けられたお婆様の温かい笑顔。夜が来ない世界に何があるのか知りたかった。

 由希の中でお婆様に話しかけたんだ。


『夜が来ない世界には何があるの?

 お婆様と一緒に、その世界に行けたらいいのにな。……お婆様が描いた物語を、由希より早く読めればいいのに』


 話しかけながら僕は願った。


 ……僕の声が、由希に聞こえればいいのに。僕の声が聞こえたら……由希はお婆様に言ってくれるかな?

 僕の声を……お婆様に届けてくれるかな?

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