第17話

「もしもし? 凛子さん? ……そう、春奈が」


 八重婆ちゃんは落ち着いた様子で話している。母さんから聞くことは、月の住人が知らせているままだろうし慌てることもないんだけど。


「……えぇ。無理はしないようにね。わかったわ、息子が帰って来たらそう伝えるわね」


 電話を切るなり、八重婆ちゃんは由希の頭を撫で笑いかけてきた。頬っぺたについてるの、刻んだ野菜のカケラかな。母さんが言ってたっけ。『お義母さんの不器用さは筋金入りだった』って。

 母さんが指した不器用って料理のことだったのか? ……となると味付けはどうなんだろう。美味しいのか不味いのか……濃いのか薄いのか。


「春奈が運ばれた病院、凛子さんの知人が入院してる所だそうよ」

「お母さんの? くるみちゃんがいる所だ‼︎」

「うふふ、由希が出会った女の子ね?女の子の最初の友達は、由希なんですって?」

「……ねぇ、八重婆ちゃん。誰が教えてくれるの? やだなぁ、僕より早く教えちゃうなんて」

「私に1番にお知らせしたいのね? これからは、由希の前に教えてもらわないようにしましょうねぇ。みんなは由希を見守って……おやいけない、由希が大きくなるまでの秘密なのに」


 由希は台所に向かう八重婆ちゃんのあとを追う。僕は小さい頃から、月の住人達に見られてたのか。

 八重婆ちゃんは月の住人達は長生きだって言ってたけど、モカも僕より長く生きてるのかな。

 舌ったらずで臆病なうさぎが、僕より年上なんて考えたくもないけど。


「凛子さんと春奈はね、明日帰って来るみたいなの」

「どうして?」

「春奈がお腹を壊したでしょ? ……たいしたことはないんだけど、先生の配慮で1日だけ入院になったそうよ」

「はいりょってなぁに?」

「そうねぇ、なんて言えばいいかしら。春奈を休ませてくれる優しさ。春奈は甘いものをいっぱい食べて、お腹が痛くなってしまったの。でもね、痛くなったのはお腹だけじゃなくて心も……春奈ったら、涙脆い子だったのねぇ」


 僕に怒られたことで姉貴がこんなに傷ついてたなんて。覚えてないこととはいえ、なんだか悪いことしたな。


「それでね、帰って来るのは明日の午後みたいなの。さぁ、晩御飯を作らなくちゃ。息子は今日も残業だろうから、食べるのは由希とふたりだけね」


 八重婆ちゃんが包丁を持ち、野菜を切る音が台所に響きだした。


 トントントン。

 トントントン。


 リズミカルな音にあくびが漏れ、由希は瞼をこすりだした。


「八重婆ちゃん……眠いよ」

「おや、疲れたのかしら。晩御飯が出来たら起こしてあげる……眠るといいわ」


 八重婆ちゃんに背中を押されるまま、由希は台所を出て部屋に向かう。父さんと母さんと由希の部屋に。

 僕が部屋を与えられたのは小学生になってからで、ひとりだけの部屋は寂しさと胸の高鳴りを同時に呼び寄せた。

 ひとりになると夜の闇が怖い。だけど自由が詰まった宝箱部屋の中は心地よくて、僕の夢は自由の中でどんどん膨れていったんだ。


 小さな頃のこと……佐藤のことを忘れてなければ、僕の夢はもっと違った形に膨れていたのかな。

 佐藤がスケッチブックに描いたケーキみたいなぷち王様。佐藤と一緒に、ぷち王様の物語を生み出してたかもしれないし、ここで過去の総てを知ったら。僕は物語を生み出すことが出来るだろうか。

 金色の冠とマントの小さな王様。金色のふわふわした髪とモコモコの髭。

 モンブランケーキみたいなぷち王様か。ケーキみたいな格好なのに、ケーキのことを知らない王様なんて面白いかも。

 ケーキを知らないことを、子供達に笑われてムキになる意地っ張り。そんな王様が活躍する物語を……佐藤とモカと一緒に。







 ……。

 ……。


 由希の寝息に重なるように響く声。

 眠りについた由希の中で僕は暗闇に包まれている。


 ……。

 ……。


 混じり合う由希の寝息と命の声を聞きながら、暗闇の中見えるものはないかと考える。

 夜の闇は月や灯りに照らされて温かいけど……今僕を包む暗闇は、光がなくどろりとしてる。


 ……。

 ……。


 なんだか……怖いな。

 由希が目を覚ませば暗闇は消えるんだ。八重婆ちゃんが晩御飯を作り終えて、由希を……起こしに来てくれたら。

 晩御飯はまだ出来ないのかな。


 ……。

 ……。


 声は続く。

 叫びのような悲鳴のような、言葉にはならない何かが流れ続ける暗闇。

 小さな頃の僕の中に、こんな世界があったなんてゾッとするな。


 ……。

 ……。

「……君。……由希君」


 ……モカ?


 由希の寝息と命の声に混じる舌ったらずな声。モカの奴、話せるようになったのかな。


「由希君、気をつけて」


 気をつけるって何を?

 ここは過去の世界。

 何も変わらず変えられない世界で、何に気をつけろっていうんだ。


「絶望の闇には……過去も今もないの」


 ……え?


 ——モカ? それ、どういう……


 何処からか流れてくる生温かい風。

 何も見えない暗闇と、響き続ける命の声に混じりだした音がある。

 なんだ?

 オルゴールのような音色。


「由希君……逃げてっ‼︎」


 逃げるって何処へ?

 由希が目を覚まさなきゃ……この暗闇は。


「……臆病者の精一杯の勇気ってやつか」

「木野瀬⁉︎ 臆病者ってモカの……うぐっ‼︎」


 見えない何かが僕の首に巻きついた。振り払おうと動かした両手を何かが掴み……


「なんだ……これ」

「……わからないのか? 絶望の闇だ」

「絶……?」

「由希? どうしたの⁉︎ 呼吸が」

「絶望の……闇だ」

「絶望? ……まさか」

「八重婆ちゃ……苦し……」


 動けない。

 暗闇の中で僕を捕まえたもの。

 絶望の闇が現れた。

 どんな姿をしてる?

 何も見えない……こいつは、どんな姿で由希の記憶を飲……


「……そいつに姿なんてない。馬鹿宮、絶望の闇は暗闇そのものさ」

「暗……闇?」

「お前、過去が変わらないって油断してたな? 臆病者が言った通り、絶望の闇には過去も今もない。暗闇は何処にだって存在するからな」

「由希君っ‼︎ 逃げてっ‼︎」

「……臆病者は黙ってろ。……助けてやるよ」


 木野瀬が呟いた直後、暗闇の中に滲み現れた白い影。


 ……ルナ?


 屋上から姿を消したはずのルナが……僕の前に現れた。

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