第16話

 絶望の闇。


 それはいつ僕の前に現れるんだろう。記憶を飲まれたあと僕は……どうなるんだ。

 絶望が僕の日々に落とされてたなんて考えもしなかった。

 由希の中に響く声が悲鳴を上げ、絶望の闇がやって来る。

 絶望の闇は……どんな姿をしている?



 由希の足が止まった。

 曲がりかけた角から、八重婆ちゃんが現れにっこりと笑ったからだ。

 艶やかな真っ白な髪と、丸みのある魔法使いのような眼鏡。由希を見る優しい目。


「八重婆ちゃんっ‼︎」

「おかえりなさい。由希が帰って来るって教えてもらったの。迎えに来たわ」

「誰が教えてくれたの?」

「秘密。由希が大きくなったら教えてあげる……うふふ」


 駆け寄った由希と、八重婆ちゃんが手を繋いで歩きだした。由希の帰りを八重婆ちゃんに知らせたのは月の住人か。

 モカの父親か他の誰か。

 八重婆ちゃんは、人間になってからも月の住人達に愛されていたのかな。八重婆ちゃんを見守り続けた彼らは、まかろんはうすという店を作り僕とモカを見守っている。

 佐藤がモカを連れて帰ったことを、八重婆ちゃんは笑ってたけど、月の住人達はどう思ってるんだろう。

 うさぎの姿をしててもモカは魔法使いだし、魔法使いがゲージに閉じ込められやしないか困ってたりして。


「懐かしいわねぇ。私が迎えに行くと、いつも由希は泣いていた気がするの」

「そんなことないと思うけど。八重婆ちゃん……僕が、佐藤のことを忘れてからのこと覚えてる?」

「覚えてるわ。私だけじゃない、息子も凛子さんも春奈も。私達はね、記憶を失くした由希と一緒に、いつも通りの日々に徹していたの。いつか思いだして、大切な友達との日々が始まっていくのだと信じていた。『信じようね』って言い出したのは春奈。由希が友達のことを思いだせると、1番に信じていたのは春奈なのよ」

「姉貴が?」

「そう。由希を笑わせようとしながら、願い続けてたのよ。由希がもう一度、友達のことを話しながら嬉しそうに笑うのを。由希が笑うのを誰よりも喜んでる……いいお姉さんね」

「そんなこと。……そうだ、それなら八重婆ちゃんは知ってたの? 僕の記憶を飲んだ……絶望の闇のことを」

「いいえ。この時は何も知らなかった。……事故に遭ったショックで、忘れてしまったのだと思っていたから」

「事故?」

「そう。由希は事故に遭ったの。……さぁ、総てを見届けましょう。何があったのかを」


 由希が見上げると、八重婆ちゃんは穏やかに微笑んでいる。魔法使いのような眼鏡越しに、見ているのは入道雲だろうか。


「……由希ったら、春奈を泣かせたの?」

「違うよ、泣いたのは僕。春姉ちゃんがどら焼き食べちゃったから」

「私へのお土産だと、楽しみにしてくれたのね?」

「うん」

「1番のお土産は由希の気持ち。それと、今教えてくれたのよ。……春奈が泣いてるって」

「春姉ちゃんが? ……誰が教えてくれるの?」

「喉乾いたでしょ。ジュースを飲みましょうねぇ」


 家に入るなり、八重婆ちゃんは台所に向かい、由希はあとを追いかけた。


「春奈は今、凛子さんと喫茶店にいるみたいなの。由希に泣き顔を見せるのが嫌だと言って、凛子さんを商店街に向かわせたって」

「春姉ちゃん、またお母さんを困らせてるの?」

「違うわ。春奈はね、由希を悲しませたくないの」


 ジュースが注がれたコップを受け取るなり、由希はゴクゴクと飲む。

 ほどよい甘みと微かな酸味。

 りんごジュースか。


「春奈ったら、由希に怒られて落ち込んでるのね。落ち込んでるのに、ケーキと特大パフェを食べてるそうよ。……あらあら、アイスクリームも頼んだみたいね。食べきれるのかしら」

「ねぇ八重婆ちゃん‼︎ 誰が教えてくれるの?」


 ……。

 ……。


 由希の問いかけに重なる命の声。

 生まれるはずだった命。

 包まれるはずだった幸せの中にいる由希を憎む存在もの

 憎しみが悲しみとなって、絶望の闇を呼んだ。そうだ……飲み込まれた記憶はどうなってるんだろう。

 消えてしまったのか、絶望庭園の何処かに残ってるのか?

 木野瀬は僕を見て、考えてることを聞いてるはずだ。

 元の世界に戻る前に、これくらい教えてくれてもいいと思うけどな……木野瀬の奴。

 木野瀬が僕を馬鹿と言い続けるなら、僕はブンブン丸って呼んでやる。


「……由希、今日の晩御飯は私が作ろうかしら。凛子さん疲れてるかもしれないものね」

「ほんと? 八重婆ちゃんが作ってくれるの?」

「えぇ。長いこと凛子さんに任せっきりで、作るのは久しぶり……味は期待出来ないけど」

「ううんっ‼︎ 八重婆ちゃんの料理、絶対に美味しいよ‼︎」


 由希の弾む声が台所に響く。

 八重婆ちゃんは『何にしようか』と呟きながら台所からいなくなり、少しの間を置いてエプロン姿で現れた。


「八重婆ちゃん、何を作るの?」

「そうねぇ、肉じゃがと野菜炒めにしようかしら。野菜炒めの色どりは……人参」


 ……人参?

 中学生になるまで、僕は人参が苦手だったんだけど由希こいつ大丈夫かな。


「……八重婆ちゃん、僕人参なんてやだ」

「おや、どうして嫌なの? 美味しいんだけどねぇ」

「美味しくてもやだっ‼︎」


 やっぱりな。

 八重婆ちゃんが作ってくれるものでも、嫌なものは嫌だったか。八重婆ちゃんは笑ってるけど、由希はどんな顔で八重婆ちゃんを見てるんだろう。

 それにしても、母さんと姉貴はいつ帰って来るのかな。

 姉貴が頼んだのってなんだっけ。確か……ケーキとパフェとアイスクリーム……あれ?

 姉貴がやけ食いで、救急車で病院に運ばれたのって、失恋が原因だったんだよな?


 リズミカルに響いていた野菜を切る音が止まった。『おやおや。……ということは』と呟きながら、八重婆ちゃんは台所を出て由希もあとを追う。


「八重婆ちゃん? 料理は?」

「今教えてもらったの。……春奈が病院に」

「病院? どうして?」

「お腹を壊したみたい。喫茶店の人が救急車を呼んでくれたみたいで。……凛子さんから電話が来ると思ってねぇ」


 八重婆ちゃんが近づいたのと同時に電話が鳴った。

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