第13話

 珈琲を飲む千歳さんを見上げる由希の中で思う。僕が描く物語を千歳さんが読んでくれる未来があるのかな。

 読んでもらえるだけの未来を、僕は作れるだろうか。

 飲まれてしまった記憶。

 思いだせなくても総てを知ったなら。

 佐藤が笑うそばで……僕は笑えるだろうか。

 幼い笑顔と、彩音に向けられた笑顔が重なって眩しさを呼ぶ。


「……松宮さん知ってます? 病院のそばにある公園を」

「いえ、この町のことは何も知らないんです。知人が入院しなければ、来ることはなかった」

「そう。巡り合わせってわからないものね。……可笑しくない? 珈琲の好みはブラック……それだけじゃないわ。甘いものを好まないのに砂糖を思わせる名字だなんて。主人に出会わなければ、こんなことにはならなかったの」

「おばさん、甘いものが嫌いなの?」


 由希の問いかけに、僕は申し訳なさに包まれた。女性に向かっておばさんは失礼だ。小さな頃のこととはいえ佐藤のお母さんなのに。


「どうして嫌いなの? 美味しいよ?」

「美味しいことは知ってるのよ。由希君……だったかしら。君は、私が怖くないの?」

「どうして? お母さんと友達になったんでしょ?」


 由希の問いかけに続く母さんの笑い声。珈琲を飲みかけた千歳さんも微笑んでいる。


「友達って響きあったかいと思いませんか? 由希、くるみちゃんと話せて楽しかった?」

「うんっ。くるみちゃんも笑ってくれたよ」

「……絵本を買ってあげた時、あの子はすごく喜んで……笑っていたの。あの子が笑わなくなったのは、主人が会社を追い出されてから。理由は……主人の友達がついた嘘」


 由希が飲むオレンジジュース。

 甘みと酸味に混じる微かな苦味は、僕が千歳さんの話から感じ取るものなのか。


「松宮さん、そんな顔をしないで。主人は今違う会社で働いているし、人間関係も上手くいっているの。でも……友達がついた嘘は噂として広まったまま。ミスを自分のせいにされたのに、主人は友達を責めずに……自分から辞表を出したのよ」


 由希達の前を看護師達が通り過ぎていく。丸美さんは佐藤と一緒にいるんだよな。

 母さん達が長いことここにいたら、丸美さんにまた迷惑をかけかねないけど。


「公園……私と主人が出会った場所で、主人を騙した友達が近くに住んでいる。私達が出会った場所を、くるみに見せてあげたい……だけど公園に近づくのが怖いの。主人を苦しめた噂がくるみを……傷つけるんじゃないかって」


 自身を落ち着かせるように、千歳さんは珈琲を飲む。

 暑い夏の午後。

 院内を包む冷房は、珈琲を少しだけは冷ましてるかな。


「くるみが倒れて、運ばれたのがここだったのよ。私……焦ってたのね。主人を傷つけた人が近くにいるのが嫌で……噂が怖くて、くるみを早く連れ出したかった。裏切られることが怖くて、人を信じられなくなっていた」

「……ご主人は、優しい方なんですね。優しくて強い方です」

「不器用で一生懸命な人よ。私は彼の不器用さに惹かれたの。そばにいると安心出来て、私から交際を申し込んだの。主人に会えて……そうだ、私ずっと幸せだったんだ。馬鹿ね……嘘や噂に流されて忘れるなんて」

「知ってます? 忘れることも必要だってこと」

「……それ、お義母さんの受け売り?」


 千歳さんの問いかけに母さんは笑った。なんだか不思議だな。

 少しずつ、誰の心にも染み渡る八重婆ちゃんの優しさ。モカは宇宙いっぱいの優しさだって言ってたけど、ひとつだけの優しさだって奇跡を生む。

 誰かを支え包み込む優しさ。それは誰もが使える魔法だ。


 そうだ……モカ。


 モカは怯えてた。

 絶望庭園の住人、ルナに出会ったことがモカの恐怖を呼んだ。

 僕が戻らないままじゃ、モカに何かあったら誰が守って……大丈夫……だよな。

 月の住人達が元の世界にいるんだから。何かがあっても、彼らが助けてくれる……絶対に。


 ——モカ、聞こえるか? 話せるようになったら……和也と佐藤がどうしてるか教えてくれ。和也は大丈夫だろうけど……僕は佐藤を……泣かせたままだから。


「……心が悲鳴を上げた時、忘れさせてくれる何かが現れるとお義母さんは言うんです。誰かの励ましや、新しい気持ちで夢中になれる何かが。思いだしだ時、忘れていたことの大切さは大きなものになっているって。だから忘れることも必要なんです」

「私の幸せが、大きくなって帰ってきた。だからかしら……くるみに笑ってほしいと思うのは」

「笑うのは、くるみちゃんだけですか?」

「……いいえ」


 千歳さんは席を立ち自販機に近づいた。空になった紙コップを捨て、スカートのポケットを探るなり『あっ』と声を漏らす。


「……私が買う番だと思ったのに。お金病室にあるんだった」


 千歳さんの声と、由希の弾む想いが僕に気持ちの高鳴りを呼ぶ。僕達は千歳さんが秘める優しさに包まれた。


「松宮さん。珈琲のお返しは……後日」

「そんな、お返しなんて」

「くるみが退院したら、何処かで食事を。公園……お弁当がいいかしら」


 佐藤とよく似た目に宿る強い光。

 千歳さんの手が由希の頭を撫でた。


「幸せは自分の心が決めるんでしょう? 私は思ってたんだもの。くるみを公園に連れて行きたいって。大切な場所を見せてあげなくちゃ」

「私達にも、見せてくれるんですね」

「……ただのお返しです。そろそろ戻らなきゃ」


 病室に向かう千歳さんのあとを追う。由希の足取りは軽く、見上げる母さんの笑顔が誇らしい。


「これからは、くるみちゃんのお見舞いにも来れそうね」

「うんっ‼︎」


 由希の弾む声に、通り過ぎる看護師達がクスッと笑った。佐藤は何してるんだろう。丸美さんと一緒に、絵本を読んでるのかな。


 🧩🧩


「丸美さん、くるみは?」


 扉が開くのと同時に千歳さんの声が響く。厳しさが消えた声に丸美さんは微笑んでいる。


「眠っていますよ。検温が終わってすぐに……安心したんでしょうね」

「安心?」

「お母さんを助けてくれる人がいるって。見てくださいお母さん、くるみちゃんの顔を」


 丸美さんに言われるまま、千歳さんはベッドに近づいた。佐藤を見るなり、『松宮さん、来てくださいっ』と声を弾ませた。


「夢を見てるのかしら。くるみが笑ってるの……嬉しそうに」

「行きましょうか、由希」


 母さんと一緒に、由希は佐藤に近づいていく。

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