第12話

 母さんの手が、自販機に小銭を入れたまま止まっている。『どうしようかな』と呟く母さんの目が千歳さんに向けられた。


「アメリカンとブレンド。佐藤さん、どちらが好きですか?」

「どちらでも」


 千歳さんは興味なさそうに答えながら椅子に座った。母さんがボタンを押して数十秒後、取り出した紙コップから湯気と匂いが漂う。


「どうぞ、ブレンドにしました。熱いものを飲み終えるまで話せます」

「大きなカップね」

「大きいのを選んだんです」


 千歳さんが珈琲を受け取り、母さんは椅子に座るよう由希に微笑んだ。千歳さんと老人の間に、挟まれたように座る由希の前に母さんは立った。


「あの絵本、お義母さんが描いたんです。私も読んでますけど佐藤さんは読みました?」

「いいえ。絵本なんて読む歳じゃないもの」

「もったいない。くるみちゃんと一緒に読んでみてください。……由希ったら、嬉しそうな顔しちゃって」

「八重婆ちゃんのお話だもん。お母さん、僕のジュースは?」


 由希の問いかけに、母さんの口から漏れた『あっ』という声。母さんと千歳さんは顔を見合わせた。


「そうだった。佐藤さんのことで頭がいっぱいだったみたいね」


 駆けだすように自販機に近づき、母さんは再び小銭入れを取りだした。


「馬鹿力とうっかり。慣れ慣れしさといい松宮さん、直すことだらけじゃないですか」

「それ、褒め言葉ですか?」

「そう聞こえる耳も、診てもらったほうがいいですよ」


 母さんの笑い声と、自販機に入れられる小銭の音が重なる中、由希は千歳さんの横顔を見上げている。


「私の家族、みんなが変なんですよ。主人も由希のお姉さんも。一番変なのはお義母さんなんだけど……主人に出会い、お義母さんの優しさに触れて私は幸せになれたんです」

「……幸せ」

「『幸せは自分の心が決めるの』って、お義母さんは言うんです。それにね、子供達にもいっぱいの幸せをもらっています。由希のお姉さん……春奈っていうんですけど、由希を大事にしてくれる」


 姉貴が……僕を?

 僕が見てる姉貴は、スイーツ命でかなりの変人だ。僕を大事にしてるようには見えないけどな。


 母さんが買ってくれたオレンジジュース。受け取るなり由希が言ったことは『ミルクティーは? お母さんも飲むんじゃないの?』。

『あっ』と声を漏らした母さんだったが、再び自販機に向かう気は起こらなかったらしい。『あとでね』と呟きながら千歳さんに笑いかけた。


「春奈と由希は、少し歳が離れてるんです。由希が生まれる前の……流産が原因で」


 流産?

 こんなこと聞くのは初めてだ。

 父さんも母さんも、姉貴だって僕に何も言わない。由希を見る母さんの顔に寂しげな笑みが浮かんだ。


「……ごめんね。これから私が話すのは、由希には難しいこと」

「難しいって……何?」

「由希が大きくなったら、わかってくれるお話」


 老人が立ち上がり、ゆっくりな足取りで去っていく。由希の隣に座り、母さんは息を吐きだした。


「佐藤さん。私が話すことで気持ちが楽になったら……話せると思ったら聞かせてくださいね。貴女の悩みと苦しみを」

「私が思う限り貴女が……松宮家一番の変人だわ」


 千歳さんの声に微かな温もりが滲んだ気がした。照れ隠しのように珈琲を飲む音が微笑ましい。


「流産……私にとっても、家族にとっても深い絶望でした。出会えるはずの命を失ったんですもの。……由希が生まれた時春奈が言ったんです。『お母さん、私いっぱい可愛がるよ。いっぱいいっぱい可愛がる‼︎ 大事にしようね……生まれてこれなかった命が、赤ちゃんの中できっと生きてるから。生まれてこれなかった命の分も私大事にするから』。春奈は由希を可愛がって、喜ばせようとなんだってするんです」


 僕が物心ついた時から姉貴の行動は変わってた。それは僕と、生まれるはずだった命のためだったのか?

 僕が喜び笑うように。

 小さい頃に、僕は母さんの流産を知った。忘れてはいけないことだったのに、忘れたのはなんでだ。

 僕が忘れたのは……佐藤だけじゃなかったんだ。


「忘れた理由を知りたいか?」


 木野瀬が話しかけてきた。

 ルナの力で僕を見てる。

 僕が考えてることを勝手に聞くなよな。


 元の世界はどうなってるんだろう。

 時の流れが過去ここと変わらなければ、今頃は上島かみしま先生の授業中か。

 僕がいないことに上島先生が気づいてるとしたら。今ここから戻ったら、どれだけの雷が僕に落ちてくるんだろ。


「馬鹿宮は小心者か。叱られるくらいなんてことないだろ。……記憶のこと少しだけ教えてやるよ。お前は忘れちまったんじゃない。……のさ」


 ——飲み……込まれた? 記憶を?


「そうさ。飲み込んだのは絶望の闇。生まれるはずだった、命の記憶がお前の中で悲鳴を上げたんだ。手に入れるはずだった喜びも幸せも、お前に取られちまったってな。……絶望の闇は飲み込んだのさ。もうひとつの命と佐藤の記憶を。お前が思いだせないのは忘れたからじゃない。記憶そのものを飲み込まれたからだ」


 ——そんな。……まさか。


「しっかりしろよ馬鹿宮。何があったのかを過去そこで見届けろ。詳しい話は、お前が戻って来てからな」


 絶望の闇が僕の記憶を飲み込んだ?

 木野瀬が言ったことが本当なら。過去を知ることは出来ても思いだせはしないのか。

 大切なことなのに。

 大切なことだったのに……僕は。


「しっかりしろって言ってるだろうが。大切なものを、絶望の闇に奪われたのは僕も同じだ。だから僕は、ルナと一緒に絶望の闇を潰し続ける。奪われたものがある代わりに、変えていけるものがあるからな。……お前は、思いだせなくても知ることから始められる。違うか? 馬鹿宮」


 知ることから始められること。

 僕は知らなければ。

 思いだせない代わりに……過去の総てを。


「……流産の理由は」

「そこまでです、松宮さんの話は」


 珈琲を飲んだ千歳さんは天井を仰ぎ見る。由希に見える彼女の横顔は穏やかだ。


「強い女性ひとですね松宮さんは。私も話すことで、少しだけは強くなれるのかしら。くるみのためにも……もっと」

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