第11話

「由希、女の子とは話せたの? お婆ちゃんの絵本だったのかしら」

「うん。……だけど」


 由希は駆け出すなり母さんにしがみついた。母さんが『どうしたの?』と聞きながら由希の頭を撫でる。


「僕くるみちゃんと友達になったんだよ。だけど、くるみちゃんが怒られちゃった」

「怒られた?」

「友達、作っちゃ駄目だって」


 しゃがみ込んだ母さんが『大丈夫よ』と両手で僕の頬を撫でた。由希はこの時、どんな顔で母さんを見てたんだろう。

 小学生になる前の僕は泣き虫だった気がする。この時も泣きそうだったのかな。母さんが『大丈夫』って言ってくれるたびに僕は安心出来たんだ。


「丸美さん、検温の時間が過ぎたんですけど、今から計ってもらえますか?」

「は……はい」

「わかるわねくるみ、勝手なことをすると病院に迷惑をかけるのよ?」

「ごめんなさい……でも」

「ベッドに戻りなさい。看護師さん達は忙しいの」

「……うん」


 振り向いた由希に見えたのは、母親のそばでうつむいている佐藤。

 絵本を持つ両手が震えている。

 佐藤は友達が出来たことを、母親に喜んでほしかったのに。


「ごめんなさいおばさんっ‼︎」


 由希の大声が廊下に響いた。

 丸美さんの目が丸くなったのが見える。母親のうしろで、由希を見つめている佐藤。


「くるみちゃんを怒らないで。約束したんだ、一緒に謝ってあげるって」

「謝るってどうして? くるみが可哀想だから?」

「違うよ。僕は……友達だから」


 通りかかった看護師達が足を止めて、丸美さんと話すのが見える。丸美さんが困ったようにうなづきながら両手を合わせると、看護師のひとりが『しょうがないなぁ、今日だけよ』と笑い、看護師達はいなくなった。

 仕事のことを話していたのかな。

 丸美さんは由希達をほっとけなくてここにいる。優しい女性ひとなんだな。

 母さんが佐藤と母親に近づいていくのが見え、由希はあとを追った。


「……お母さん」


 不安げな由希の声。

 振り向いた母さんは由希に微笑む。

『大丈夫』そう言ってくれてる気がした。

 母さんは佐藤の前にしゃがみ込み、由希は母さんの背中越しに佐藤を見た。


「こんにちはくるみちゃん。この絵本は好き?」

「うん」

「買ってくれたのは誰?」

「お母さん。誕生日のプレゼント」

「そう。嬉しかった?」

「うんっ」


 佐藤が笑ったのが見えた直後、聞こえたのは母親の咳払い。


「何か用ですか。息子さんといい貴女といい、随分と馴れ馴れしいのね。……丸美さん、早く検温を。行きなさいくるみ」


 母親に言われるまま、丸美さんは佐藤を促し病室に入っていく。佐藤が丸美さんを追い歩く姿に、母親の厳しさが和らいだように見えた。


「私、松宮 凛子りんこといいます。よかったら、少し話せませんか?」

「は?」

「今度はお母さんが抜けだす番だと……思いまして」


 母親の呆れたような目が母さんに向けられた。母さんは臆する様子もなく母親に微笑みかける。


「お断りします。帰ってくだ……ちょっと、松宮さん⁉︎」


 母さんに腕を掴まれ、戸惑った母親が声を上げた。抵抗を試みるが、母親の腕はピクリとも動かない。


「離してください、……この、馬鹿力っ‼︎」


 ……そうなのだ。

 母さんの驚くべき秘密。

 それは父さんすら抗えない、怪力の持ち主だということ。母親の腕を掴みながら、母さんは穏やかに微笑んでいる。


「離しません。貴女こそ力を抜かなければ、くるみちゃんと一緒に笑えませんよ?」

「笑えるものですか‼︎ くるみが良くなるまでは。あの子に何かあったら……私は」

「くるみちゃんは貴女に笑ってほしいんです。看護師さん……くるみちゃんのお母さん、しばらくお借りしますね」


 母さんは扉を閉め、母親の腕を掴んだまま歩きだした。母親は逃れようと必死だが、母さんの怪力を前にどうすることも出来ないでいる。

 あとを追う由希の中で思いだした。

 木野瀬に腕を掴まれた佐藤のうしろ姿を。


「飲み物は何にしましょうか? 知人は自販機のココアがお薦めみたいなんですけど、私はミルクティーが」

「離してください‼︎ 私は何も」

「悩まれていますよね? ひとりで抱えなくてもいいじゃないですか」


 母さんの口調は少しも変わらない。だけど母親の体が弾かれるように震えたのは、母さんから逃れるための抵抗だけではないだろう。


「どうして自分に閉じこもるんですか」

「……くだらない。離さないと人を呼ぶわ‼︎」

「ご自由に。貴女を助けてくれる人は、何処にでもいますもの。……苦しまないで、助けを求めればいいんですよ」


 母さんが足を止めた先に、自販機と椅子が見える。数人の看護師と患者が通り過ぎるのを、椅子に座って見つめるひとりの老人。


「どうしました? 叫ばないんですか?」


 母さんの怪力から解放された腕を母親はなぞる。厳しい光が失われた目が、何処を見るでもなく宙を彷徨った。


「貴女は悩み苦しんでいる。私も母親ですしわかるんですよ……私でよければ、どんなことでも」

「話したってどうにもならないわ」

「知っていますか? 誰かに話すことは手放すことだと……これ、由希のお婆ちゃんが言ってることなんですけど」


 照れたように笑う母さんを前に思う。

 話すことは放すこと。

 悩みも苦しみも、話すことで手放すことが出来る。手放して気持ちが軽くなった時、心は未来に動きだしていく。


「どうにもならなくても、自分だけは助けてあげてください。貴女の一番の味方は貴女なんですから。くるみちゃんを叱ることは、貴女自身を責め叱っているのと同じ。……さぁ、どうぞ自販機に。由希も何か飲む?」


 由希と手を繋いで、母さんは自販機に向かう。由希が振り向くと、うつむきながらも母親があとを追ってくるのが見えた。


「私はミルクティー。由希は?」

「オレンジジュース‼︎」

「貴女は何にします?」

「私は……佐藤です」

「砂糖? 甘党なんですか?」

「名前ですよ私の‼︎ ……佐藤 千歳ちとせ。珈琲はブラックしか飲みません」

「珈琲……なんですね? ホットでいいですか?」

「……ご自由に」


 苛立ったような呟き。

 だけど母さんの問いかけに、答える顔は微かに赤く……それはきっと、母さんに心を開きだした母親の気恥ずかしさ。

千歳さん……っていうのか。

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