第10話

 暑い陽射しの下で佐藤は嬉しそうに笑う。由希……女みたいな名前が、こんな風に笑顔を呼んでたなんて。


「くるみちゃん、私にも見せてくれる? ゆき君ってどんな字を書くの?」

「これ」


 佐藤は笑顔のまま、丸美さんにメモを差し出した。


「へぇ、由希君って書くの。くるみちゃん、由希君と一緒に戻りましょう」

「うん。……お母さん今日も怒るかな。病室から出たの」

「お母さんが怒るのはくるみちゃんが心配だから。今日は喜ぶかもしれないわね。友達が出来たって教えてあげないと」

「笑ってほしいな。お母さんに」

「大丈夫よ。きっと笑ってくれる」


 由希は佐藤と肩を並べて、丸美さんを追うように歩きだした。ぷっくりな丸美さんのうしろ姿と、由希の隣で笑う佐藤。

 佐藤が抱きしめるように持つ八重婆ちゃんの絵本。


「由希君も小児科にいる?」

「ううん。お母さんについてきただけ。お母さんの友達が入院してるんだ」

「お見舞い? また……病院に来る?」

「うん。そしたらまた、くるみちゃんに会えるね」


 僕に流れ込む由希の想い。

 それは八重婆ちゃんの絵本を、持ってた子と会った嬉しさだけじゃない。そばで笑う女の子が可愛くて、名前を呼んでくれることが嬉しくて……弾むように喜んでいる。


 中学生の時も高校に入学してからも、僕は女子と親しくなかった。興味がないんじゃない、僕の一番の関心ごとは絵本作家の夢と、それに伴う空想と執筆だったから。

 夢のことばかり考えてて、大切なものを忘れていた。

 弾むような喜び。


 そばで笑ってくれたことが嬉しくて、それなのに……僕は佐藤を泣かせたんだ。


「ほんと、お前って馬鹿な奴」


 木野瀬の声が響く。

 何処だ?

 木野瀬は何処にいる?


「いる訳ないじゃん。僕はルナが見てるものを見て、ルナの力でお前に話しかけてるんだから。見てるだけだ」


 あの猫はまだ僕を見てるのか?

 どうして?


 ——お前、何者なんだ。何を考えてる。


「自分が追いかけられてるって思ってんの? お前もそのパズルも、利用価値はありそうだけどな。僕達は潰してるだけさ。……忍び寄る絶望の闇を」


 ——お前何か知ってるのか? 絶望の闇って……絶望庭園から……何か。


「さぁね。今授業中なんだ、余計ことしてるとあらぬ誤解を受けちまうな」


 ——授業? そうだ、佐藤はどうしてるんだ……木野瀬。


「木野瀬? ……おい、木野瀬っ‼︎」

「由希? どうしたの?」

「転校生だよ八重婆ちゃん。あいつは……あいつと猫は、僕達を見てるんだ」

「落ち着きなさい。彼らが見ていても、過去に起きたことは変わらないのよ」

「木野瀬は言ったんだよ『見てるのは今だけだ』って。何かが起きるんじゃ」

「何も起こりはしないわ。それに由希はひとりじゃない。元の世界に帰ればみんながいる。友達もモカも……まかろんはうすにも、月の住人達がいる。みんなが由希を助けてくれるわ」

「……みんなが?」


 木野瀬は絶望の闇を潰してるって言った。それは何を意味してるんだろう。

 絶望庭園から逃げてきた猫。

 月の住人達が恐れる絶望と暗闇か。


 由希の体がピクリと揺れた。佐藤が手を握ってきたからだ。

 病院に入り由希達が向かう病室。握られた手から佐藤の震えが伝わってくる。


「やだな……お母さんに怒られるの」

「僕も一緒に謝ってあげる、大丈夫だよ」

「うん」


 白い壁と、微かな消毒液の匂いに包まれながら思う。

 佐藤はなんの病気だったんだろ。今は元気なんだし、ちゃんと治ってるんだよな。

 由希達が足を止めた病室。

 記された苗字は佐藤だけ……個室なのか。

 扉に触れた佐藤の小さな手。触れたまま開けることが出来ないでいる。


「くるみちゃん、私が開けるわ」

「ううん。由希君、一緒に開けてくれる?」

「いいよ」


 由希が扉に触れ力を込める。驚いたな、出会ったばかりの僕を……佐藤がこんなに頼ってくれてたなんて。


「くるみっ‼︎」


 扉が開いた直後、声を上げた女性と体を震わせた佐藤。

 母親か。

 大きな目が佐藤によく似ている。


「何してるの‼︎ 私がいない隙にまた抜けだして‼︎」

「お母様、くるみちゃんは反省しています。もう、勝手に出たりは」

「丸美さん‼︎ 叱るべきことは叱ってくださいよ‼︎ あなた方がしっかりしなければ、この子に何かあったらどうするんですか‼︎」


 母親の厳しい声に、丸美さんと佐藤は固まり動けないでいる。近づいてきた母親が、由希を見て眉をひそめた。


「見かけない子ね。どうしてここにいるの?」

「くるみちゃんのお母さん? 僕、くるみちゃんと友達になったんだよ」

「友達?」


 呟いた母親の顔に浮かんだ翳り。由希に見える母親が傾いたのは、由希が首をかしげたからか。


「くるみ、友達ってどういうこと?」

「由希君だよお母さん。由希君ってこう書くの」


 佐藤が差しだしたメモを受け取るなり丸め、母親は丸美さんに手渡した。

 メモを広げかけた丸美さんの手が止まったのは、厳しい目で見られていることに驚いたからか。


「くるみ、元気になれば友達は沢山作れるの。今は体を治すことだけを考えなさい。いいわね?」

「由希君優しいよ? この絵本、由希君のお婆ちゃんが」

「会ったばかりの子を、友達なんて思っちゃ駄目。いらっしゃい」

「待ってよ、どうして友達だって思っちゃ駄目なの?」


 由希の問いかけに母親は振り向いた。母親の顔に笑顔はなく、厳しい光を宿した目が由希を見下ろしている。


「ねぇ、どうして?」

「悪いけど、見ず知らずの子に話すことはないわ」

「……由希? よかった、ここにいたのね」


 母さんの声がする。

 由希に見えたのは近づいてくる母さんと、母さんに頭を下げ始めた丸美さん。丸美さん言ってたもんな。由希をすぐに連れて行くって。

 由希に振り回され、佐藤の母親と母さんに気を使って……災難だな丸美さんは。


「看護師さん? 気にしなくていいんですよ? 子供達がすることですもの。すぐに戻らないことくらいわかってました。知人が元気そうだったんで、様子を見に来たんです」


 母さんの明るい声に、丸美さんは安心したように笑みを浮かべたが、佐藤の母親は厳しい光を宿した目で、母さんを見つめている。

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