第8話

 広い敷地に並ぶ樹木と芝生。

 見上げる白い建物と、カーテンが閉められたいくつもの窓……あれ?

 見える世界に感じる違和感。

 僕が見てるものって、こんなに大きかったっけ?


「お母さん、早く早くっ‼︎」


 僕の口から発せられた幼い声。

 これって……僕の?


「由希ったら。転んだらどうするの?」


 母さんが近づいてくる。陽に照らされた笑顔を見ながら思う。

 僕は……小さな頃の、僕の中にいるのか?


「八重婆ちゃん。……僕は」

「落ち着きなさい由希。元の世界に戻るまでは」

「だけどっ」

「過去の自分に入り込んだのよ。落ち着いて、ひとつひとつを受け止めなさい」


 そんなこと言われたって。

 小さな頃と今とでは、見えるものの大きさも雰囲気もまるで違う。手も足も短くて僕じゃないみたいだ。


「懐かしいわねぇ。由希が小さな頃のことなんて。昔も今も、由希は可愛いままね……うふふ」


 ……僕だと思わないことにしよう。僕は由希という男の子を観察する。自分のことなのに変だけど。


「由希……ここには、遊びに来てるんじゃないのよ」

「わかってるよお母さん。お見舞いでしょ?」


 お見舞い?

 由希の声を聞きながら考える。

 母さんは誰を訪ねてるんだろう。家族が入院した記憶なんてない。腹痛を訴えた姉貴が、救急車で運ばれたのは覚えてるけど。……あれって、失恋してのやけ食いが原因だったんだよな。

 先生が若いイケメンで、死ぬほど恥ずかしかったとかなんとか。

 姉貴にとって最大の黒歴史。

 それでもスイーツ命は変わらないんだから、女ってのは何処までも強い。


「病室では静かにしてるのよ?」

「うんっ、早く行こう?」


 病院に入るなり女の子とすれ違った。

 淡いピンクのパジャマ姿。

 一冊の絵本を抱え、外に向かって駆け出していく。


「待って‼︎ 待ちなさいっ‼︎」

「あうっ‼︎」


 ぷっくり体型の看護師がぶつかってきて、弾かれた勢いのまま由希は倒れ込んだ。

 呆れ気味に思う。今朝の木野瀬といい、僕は突き飛ばされてばかりだな。


「ごっごめんなさい坊や‼︎ 申し訳ありませんっ‼︎ 私女の子しか見てなくて」


 慌てた看護師の声が響く中、僕を驚かせたこと。それは由希がすぐに立ち上がったことだ。


「お母さんっ。今の女の子見た?」

「女の子?」

「あの子が持ってたの、八重婆ちゃんの絵本じゃない?」


 由希の弾む声に母さんは戸惑っている。呆気にとられたような看護師に由希は近づいた。


「あの子何処に行ったの? 追いかける前に教えてほしいな」

「教えるって……どうして?」

「絵本だよっ。あの子が持ってるの、八重婆ちゃんの絵本じゃないかな」

「絵本? お婆ちゃん? ……それより坊や、痛いところは?」

「ないっ‼︎」


 由希こいつは大嘘つきだ。

 思いっきり倒れ込んだのに、痛くないはずないだろ。僕が八重婆ちゃんのことに必死なのは、小さい頃から変わってないんだな。


「お母さん、僕あの子と話したい」

「何言ってるの。パジャマを着てたし入院してる子よ? 迷惑になるわ」

「少しでいいんだ、お母さんっ」

「……どうしましょう看護師さん。この子言いだしたら聞かないんですよ」


 看護師が困惑気味なのは、女の子をすぐ連れ戻したいことと、由希にぶつかった罪悪感で揺れているからか?

 まいったな、人を困らせた覚えなんてないけど、これほんとにあったことだよな?


「ねぇ、お母さんっ」

「坊や……体は、痛くないのね?」


 由希がうなづくと、看護師は何かを考えるように首を傾げた。


「あの子……坊やが一緒なら、私と話してくれるかしら。お母様、私の不注意で迷惑をかけてしまって」

「いっいえ‼︎ うちの息子がその……わがままを」

「坊や、少しだけ手伝ってくれる? あの子を病室に連れて行くのを」

「そしたらお話してもいい?」

「いいわよ」


 看護師と顔を見合わせた母さんが、困ったように笑い由希に微笑みかける。


「由希、私が向かう病室ところはちゃんとわかってる?」

「え? んと……5階の……あれ?」


 今度は看護師が笑った。ぷっくり顔がさらに丸くなり……これ以上は言わないでおこう。


「私が連れて行ってあげるわ。あの子を病室に連れて行ってくれるお礼に。お母様、迷惑でなければ病室を教えてくれませんか?」


 看護師が差し出したメモとペンを受け取り、母さんは手早く書き込んでいく。僕を振り回すモカに呆れてたけど、振り回すのは僕も同じだったのか。


「じゃあ坊や、行きましょうか? お母様、すぐに息子さんを連れて行きますからね」


 母さんがうなづいて、看護師は病院を出た。看護師のあとを歩く、由希の弾む想いが僕に流れ込んでくる。


 ——八重婆ちゃんの絵本。あの子はどんな気持ちで読んでるのかな? ドキドキ? ワクワク? あの子の気持ち、八重婆ちゃんに教えてあげるんだ‼︎


 🧩🧩


 小さな頃のトコトコ歩き。

 看護師のぷっくりな背中から、浮かぶイメージは面倒見のいいシロクマ。いや、シロクマよりもオットセイかな。

 散策を楽しむ老夫婦が、すれ違う間際にっこりと笑った。


「あの子が病室を抜け出すのは何度目かしら。友達が来るとかなんとか。だけど、いつ来るかわからない友達なんて」


 看護師の背中越しに見えてきた、芝生と白いベンチ。ベンチに座って絵本をめくる女の子。


「あの子くるみちゃんっていうの。可愛い名前でしょ?」


 くるみ?

 あの女の子が……佐藤?


「くるみちゃんだねっ。ありがとうっ‼︎」


 声を弾ませながら、由希はベンチに向かって駆けだしていく。由希のひとつだけの目的は女の子が読む絵本。


「くるみちゃんっ‼︎」


 女の子に近づくなり、由希は大声を出した。いきなり名前なんて……昨日の佐藤みたいで、なんか恥ずかしくなってきた。


「……誰?」


 絵本を閉じ由希を見た女の子。

 大きな鳶色の目が佐藤にそっくりだ。陽に照らされたサラサラの黒い髪。


「どうして……名前」

「教えてもらったんだ。くるみちゃんだよって。違うの?」

「違わない。私……佐藤くるみ」


 僕の心臓がトクトクと音を立て始めた。


 幼い佐藤が僕のそばにいる。

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