第6話

 猫が僕を見上げている。

 なんで猫がいるんだ?

 黒い目の猫なんて初めて見た。


「松宮君、血が」


 佐藤が差し出したハンカチと、赤く濡れだした僕の右手。


「……ルナ。僕の指示なく、人を傷つけるなって言ってるだろ」

「ニャ〜オ」


 木野瀬と話すように猫が鳴いた時、僕を包んだ妙な感覚。

 動物が突然現れた……昨日、黒うさぎが現れたのと同じじゃないか。ルナと呼ばれた猫の木野瀬と親しげな反応。


「こいつに傷つけられ泣いた。大丈夫だよ、ルナの怒りを僕はわかってる」


 傷つけられた?

 泣いた?


 佐藤のことを言ってるのか? そんなはずは……僕と佐藤が話してたことを、木野瀬は知らないんだから。


「……お前が思うとおり知らないな。知らなくてもわかるんだ。……ルナが見たことと、読み取ったことが僕に流れてくるから」


 見える?

 読み取った?

 ルナの……力?

 この猫は黒うさぎのように……魔法が……


「……魔法? ルナの力を、くだらないのと一緒にするなよ。臆病者のうさぎとなんて」

「ニャ〜オ」


 罵るように泣いた猫が近づいてきて、木野瀬が佐藤に近づいていくのが見える。佐藤が戸惑い気味にあとずさるのは、木野瀬が言ったことが理解しきれてないからか。

 佐藤は何も知らないから。

 僕と黒うさぎが話せることも、黒うさぎが魔法を使えるってことも。

 僕だってわかってないんだ。黒うさぎがどれだけの魔法を使えるのかを。

 僕を見上げる猫と、僕の手を赤く染めた血。佐藤からハンカチを受け取れなかったことへの罪悪感。


 ——ヘンテコ。猫のこと何か知らないか? ヘンテコ? ……おい、ヘンテコ‼︎


 何も聞こえない。

 肝心な時に黙ってるなんて、僕が名前を呼ばないことにへそを曲げたのか?


 ——……おいモカ、教えてくれよ‼︎ 見てるんだろ、モカ‼︎


「ニャ〜オ」

「……お前」


 猫の鳴き声と木野瀬の声が重なった。振り向いて見えたのは、木野瀬に腕を掴まれもがく佐藤。


「ふられるなんて可哀想にな。お前は知らないだろ? こいつには大事な女がいるってこと」


 佐藤の顔に浮かんだ翳りと、鳶色の目に滲みだした涙。

 何言ってんだあいつ‼︎


「ふざけるなっ‼︎ 女なんて」

「いるだろうが。……八重って奴が」


 木野瀬の呟きが、僕の中を巡り心に突き刺さる。八重婆ちゃんの優しさと、描きだしたパステルカラーの世界は夢見る未来の始まりだった。

 八重婆ちゃんがいたから僕は、ひとつだけの夢を抱きしめてここにいる。

 だけど……


「……して」


 掠れた声で、佐藤が呟いた。


「離して……ください。私……ただのクラスメイトだから。松宮君と……親しくは」

「だろうな。お前らは、昨日まで話しすらしていなかった。驚くなよ……僕の話を聞いてただろ」


 木野瀬の顔が近づき佐藤は目を見開いた。木野瀬が浮かべた微かな笑み。


「お前、僕を選ばないか? 悪いようにはしない……傷ついてる奴をほっとけないだけだ」


 木野瀬が歩きだし、佐藤が腕を掴まれたまま引きずられるように歩く。木野瀬の力強さは、佐藤が離れようとするのを許さない。


「ルナ、家に帰ってろ。……心配するな、学校を追い出されるようなことはしない。気になる女も現れたしな」

「ニャ〜オ」


 ひと声鳴いてルナは消えた。

 戸惑いと苛立ちが混じり合ったものが、込み上げて体を震わせる。


「……何処に行くんだ」

「教室。ルナに言ったことが聞こえなかったのか? 学校を追い出されるようなことはしない」

「佐藤を離せよ」

「離してやるよ、お前が見えなくなったらな」

「松宮君……怪我。……保健室に」


 ……保健室?


 佐藤に言われるまま、赤く濡れた右手を見た。ハンカチ……受け取るんだったな。


『名前で呼ぶのやめてくれないかな』

『僕達は、同じクラスってだけで親しくはないし』


 僕が言ったことは、佐藤にとってどれだけの悲しさと苦しさだった?


『……由……松宮君を名前で呼んでたの。松宮君も私をくるみちゃんって呼んでくれた』


 僕が忘れ思いだせないことを、佐藤はどんな気持ちで思いだしていた?


『くるみちゃんは、由希君のこといっぱい考えてるんだよ』


 僕のことをどう考えてた?

 同じクラスになって話せることはないか。佐藤が覚えているだけの小さな頃のことや、僕が好きな食べ物のこととか……どうしたんだよモカ。

 なんで黙ってるんだ。

 佐藤のことになると、お前はすぐに反応してたじゃないか。

 おい……モカッ‼︎


「由希、落ち着きなさい」

「……八重婆ちゃん?」


 何処からか聞こえる八重婆ちゃんの声。姿は見えない……だけど、八重婆ちゃんは僕のそばで語りかけてくる。


「モカは今怯えているの。怖い動物ものに出会ってしまったから。モカだけじゃない……月の住人達が怯えていた」

「月の住人?」


 八重婆ちゃんの創作ノートに書かれていたもの。

月の住人は、子供の姿をした人間達とうさぎの姿をした魔法使い達。

 モカは魔法を使える。

 八重婆ちゃんはモカを、月に住む魔法使いだって言いたいのか?

 創作ノートに書かれていたのは、絵本の構想じゃなくて……八重婆ちゃんが知っている世界だったのか?

 月の住人が怯えていたって……どうして?


「八重婆ちゃん……あの猫は」

「絶望庭園の住人だった猫。悲しみや痛み、苦しみに包まれた闇の世界が絶望庭園。月の住人達は絶望を恐れ……絶望庭園の住人は、幸せも喜びも飲み込もうとしている」

「……絶望庭園」

「あの猫は絶望庭園から逃げてきたようね。逃げた理由はわからないけど、モカは猫を見て驚いたのよ。暗闇に飲まれたらどうしよう……怖い……怖いよ……って」


 温かい風に包まれ、見えてきたのは体を震わせるモカの姿。ピンク色のクッションの上で黒い体を丸めている。

 可愛らしい雑貨と、いくつかのぬいぐるみが並ぶ……佐藤の部屋か?

 昨日モカを連れ帰ったばかりだし、ゲージとか準備出来てないんだな。

 机の上に置かれたモカの黄色いリュックサックと、リュックに入っていたキャンディ。

 閉じられた日記帳と開かれたままのスケッチブック。

 描かれている可愛らしい絵は……王様?

 金色の冠とマント。

 ふわふわ金色の髪とモコモコ金色髭。


『由希君。……ねぇ、由希君』


 僕の奥底から響く幼い女の子の声。

 親しげに弾む響き……佐藤か?


『私ね、可愛い王様を思いついちゃった。モンブランケーキみたいなぷち王様なの。いつか……八重お婆ちゃんが絵本にしてくれたらいいな‼︎』


 ぷち王様?


 ……そうだ、僕はぷち王様を知ってる。小さい頃誰かと話してたんだ。話していたのは……佐藤だったのか?



 いつ……何処で、僕は佐藤と話してた?



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