第69話君と世界の片隅で5
「………レティシア……レティ」
レイに初めて呼ばれた途端、ドキンと心臓が跳ねた。
名前を呼ばれただけなのに、こんなに嬉しくてこそばゆい気持ちになるなんて。
レイは何度か名を反芻してから、口元を隠して目を伏せた。
「な、なんか色っぽい名前……」
何とか目が開けられるようになったギル兄は、私の顔を見ながら、「名前合わないですね」と言った。
「ちょっと!私が付けた名前を馬鹿にしないで欲しいわ、そこの猫耳魔族さん!うちの娘は名前の通り、世界で一番可愛いんだから!」
「そうだそうだ」
押さえつける騎士の手からもがきつつ、両親が抗議した。
………ありがとう、お母さんお父さん。でも世界一可愛いは言い過ぎで逆に嘘っぽいから……
「………ギル、今レティを馬鹿にしたのか?」
ぎろり、とレイがギル兄を睨んだが、彼はあさっての方を向いて知らんぷりだ。
白亜様が放った光が弱まり出した時、逆光の中から、いきなり剣の切っ先がレイの腹に突き出された。
「クロ!」
魔力の盾が、その切っ先を受け止めて、レイは私をギル兄の方へ軽く押して、剣を振るアテナリア王の攻撃を次々とかわす。
大振りの剣は、王家に代々伝わる勇者の剣だ。
アテナリア王エドウィン様が、18年前に魔王を封じた時に使用した物だ。
重量感を感じる剣を軽やかに操り、目で追えないぐらい素早いエドウィン様の剣術にもレイは余裕の表情で避けて、時に魔力で受け止めている。
「逃げてばかりだな!」
息を切らしもせずにエドウィン様が挑発すると、レイは繰り出された剣を脇に逃しつつ、施された結界をこじ開け、その手首を掴むと捻り上げた。
「エドウィン!」
白亜様が叫ぶのと、エドウィン様が苦痛に唸るのは同時だった。
「なめるな、貴様達皆殺しにしても足りない」
折られた手首を押さえ、エドウィン様が剣を落として膝をつくのを、レイは冷たく見下ろしている。
白亜様がエドウィン様に駆け寄りながら、何かを唱えている。
ギル兄がアテナリアの騎士からの攻撃を、私を庇いながら避けて魔力で彼らを撥ね飛ばす。
私がレイに結界を施す直前に、白亜様が拘束の術を放つ。
「レイ!」
動けないレイに、左手でエドウィン様が剣を向けるが、私の結界に弾かれる。
白亜様が、エドウィン様の怪我を癒している間に、私はギル兄の手を振りほどき、レイの元へ駆け寄った。白亜様の拘束の術を解こうと手を伸ばしたら、ひょいと体を掬われた。
「あ、あれ?」
レイが何事も無いように、私を腕に座らすような形で抱き上げていて驚く。
「本来の力を取り戻した俺には効かないな」
同じように目を見張る白亜様に言い捨てると、レイの足元から魔力が幾筋もの紐のように地面を伝い、アテナリアの騎士達に襲いかかった。
それらは蛇のように、標的を定めると騎士達の足元から這い上がり身体を締め上げ、或いは口や鼻を塞いだ。
魔力をエドウィン様の剣だけが斬ることができるが、数が多い上に斬られてもすぐに再生し、斬っても斬ってもきりがない。
白亜様が魔力吸収を試そうとするが、その集中力を乱そうと無数の魔力の紐が彼女の結界を破ろうとしている。
レイは、それらをにいっと笑って見ていた。いたぶるのを悦ぶ表情だった。
ぞくり、と背に冷たいものを私は感じて、あの雨の夜の彼を思い出す。
レイの恐ろしい表情を変えたくて、勇気を出して頬を強めに引っ張ってみた。
「いでででで」
「レイ、恐い顔になってる」
我に返ったように、頬を擦りながら私を見たレイは、自分を落ち着かすように息を吐いた。魔力の紐が消えて、気絶した騎士が倒れている。
「……レイ?」
「………ん、恐くない、よ?」
気まずそうだが、ちゃんと私に目を向けていつもの調子で話す彼に、安心した私は、その腕から飛び下りると両親の元へ走った。
「あ、レティ!」
捕まえようとするレイの腕をすり抜けて、人質にしようとするアテナリアの騎士とタリア様の騎士が入り乱れる所へ、拘束の術を掛ける。
「ここは、我がディメテルの領土!これ以上我が地と民を侵すなら、我が国と友好国への宣戦布告とみなす!」
タリア様が言い放つが、エドウィン様はレイに再び斬りかかりながら言い返した。
「害を為す上級魔族を捕らえにきたまでのこと!それに聖女深紅は、アテナリアが育てた我が国に所属する聖女だ」
「深紅、恩を仇で返すのか?」
続けるように、白亜様の問いが私の胸を抉る。
両親の元へとたどり着き、二人に結界を張って俯くと、二人の手が私の手を握ってくれた。
「レティは、アテナリアのものじゃない。私達の娘よ」
「お母さん」
呼び掛けた直後、体が動かなくなった。
白亜様が拘束の術を掛けたのだと気付き、解術を試みようとするが、そこにエドウィン様が近付くと喉元に剣が宛がわれた。
「ネーデルファウスト!動くな!」
レイが、ピタリと固まる。
「クロ……レイ…」
私の髪を引き、仰け反った喉に切っ先が小さく食い込む。
レイはエドウィン様を怒りのままに睨み、それから隣に控えたギル兄を一瞥した。
「起動しろ」
頷いたギル兄の足元から、青い光が複雑な魔法陣を浮かび上がらせる。
セリエ様の館で見たそれに、私は息を詰まらす。
帰るんだ、レイ………
タリア様と彼女の騎士達が、両親の腕を引き背後に守る。
「手出しはさせない。彼らは我が国の民」
それを見届けて力が抜ける。
「レ、レイ………クロ…クロ、帰るんだ、ね」
ボタボタと涙が流れて、目を見開くレイがぼやける。
「レティ、いや、あの……」
「ふええん、クロぉ、元気でね、うう、私のことは気にしないで、い、いいから、えええん」
無自覚に拘束の術を解いて、へたりと座り込んで、喉に宛がわれた剣も忘れて号泣する。
「レティ……」
「うわああん、レイ君、淋しいよぉ、ひっく、好きだったよお!めっちゃ好きだったよお!」
レイは、遂に顔を覆ってしまった。
私は衝動のまま泣きながら、世界の片隅で愛を叫んだ。
「大好きだったよお!さよなら、うわああん、クロ、愛してるよおお!!」
「あ、あう、あ、か、かわいすぎ、だろ……レティ」
湯気のような魔力が真っ赤になったレイから漂い、それをギル兄が虚ろに見ていた。
「………ほら誤解してんでしょ、彼女」
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