11-3 「あなたのことが好きでした」
『ママ、わたしはね今日からルカになるよ。だからもう泣かないで』
体があたたかい。こんな優しい気持ちになるのは久しぶり。この世界のあらゆる怖いものや冷たいものから守られているみたいだ。幼いころ、寝る前になると、お父さまとお母さまが毎晩抱きしめてくださった。あのころを思い出す。
ああ、わたくしにもそんな時代があったんだわ。どうして忘れていたんだろう……
ラベンダー色の部屋のなかで香苗はかすかに目を開けた。満ち足りて幸福な心地だった。ハニーミルクを飲んで、両親に抱きしめられて、楽しい夢のあとで目覚めた朝みたいだと香苗は思った。しばらくの間、香苗は覚醒ともまどろみともつかないあいまいな心地に身を委ね、ふわふわの羽毛布団を肩まで引き上げてみたりした。指先には力が入らなくて、布団は重くて、香苗にはできなかったけれど、誰かの手がそっと布団をかけてくれるのを香苗は感じていた。だから幸せだった。
再び目を覚ましたとき、香苗は誰かがかたわらでじっと自分の寝顔を見つめていることに気がついて、ゆるやかにそちらを見た。そして赤面していそいで起き上がった。見つめていた人は「まあまあ」と香苗をなだめて、その肩を優しく押して香苗をベッドの上に押し戻した。
「あまり急に動かないほうがいい。私のことは気にしないで、横になってくれ」
「会長……!」
恥じらいつつもおとなしく従う香苗に、ルカは微笑み「いい子だ」とつぶやいて、ほどかれて波打っている薄色の髪をそっと撫でた。香苗はもうあたたかいを通り越して熱いほどだった。
「ここは……?」
「私の家だ。君は舞台の途中で倒れてね。私の家に運ばれたんだ。私の伯父が医者をしているから、病院よりも早くみられるだろうということで」
それを聞くなり、香苗の喜びも安堵もいちどきに翳ってしまった。香苗はうつむいて首を振った。思いだしくはないけれど、知っているから。不思議そうな顔をしてみせるルカに、香苗はようやく言った。
「いいえ、会長……わたくし、何があったかおぼろげながらに覚えていますわ。恐ろしい記憶――わたくしのなかに別のわたくしがいましたわ。そうではなくて?」
ルカは唇をきつく引き結んだ。ルカの顔から優しい微笑みが掻き消えてしまったことに、香苗はなによりも深い悲しみを覚えた。まるでルカと香苗との清い思い出があの惨劇によって全て穢されてしまったようなそんな気がしたのであった。こんなことなら目覚めるのではなかった。自分の命を救おうと奮闘していた人々の叫びを、香苗は覚えている。でも、いっそ自分はあの場で死んでしまえばよかったのだ。
涙を見られたくなくてそっと背けた先で目元を拭っていると、強く穏やかな力が香苗の肩を包みこんだ。濡れた香苗の頬に細い指が触れて、静かなアイスブルーの光の方へもたげようとする。拒む力はあまりにも弱々しかった。だって、香苗はそのアイスブルーの光を恐れるとともに深く深く愛していたから。
「香苗」
「会長……わたくし、どうお詫びすればいいのか……」
「なぜ君が詫びるの?君はなにも悪くない。たったひとつ君に言えることがある。あの時の君は君じゃなかった。北条院香苗ではなかったんだ。私が断言する」
「けれども、わたくしが呼び寄せたのですわ。わたくしの浅ましい欲望が……」
涙が浮かんでいとしい顔をぼやかしてしまう。でも、その方がいっそ都合がいい。届かぬ想いを、叶うはずのない恋を、伝えるのには。
「会長、わたくしはあなたのことが好きでした」
言い切った唇の端が塩辛い。
「いいえ、今も好きですわ……わたくしにとって、あなたは光。この世界でたったひとつ貴いもの。だからこの恋も、たったひとつ、貴いものであってほしかった……!それなのに、どうして……どうして、こんなことに…………」
うなだれて、香苗は両手で顔を覆ってさめざめと泣いた。その間、ルカは香苗を抱きしめる力を決して緩めようとしなかった。チェロの調べを香苗は聴いたような気がした。何度も何度も繰り返して聴いた、ルカのチェロの調べを。この身を抱きしめている力に、香苗は労りと愛を感じた。それは、身を
「香苗」とルカが切り出したとき、香苗は聞くべき言葉を聞かねばならないことを悟ったが、今まで思い描いていたような恐怖はそこになかった。さびしい気持ちは否めなかったけれど。
「すまない……私は君の気持ちには応えられない」
まっすぐに香苗を見据えて、ほんの少し苦しそうにルカはそう言った。香苗はただ黙ってうなずいた。
「だが、この先何があったとしても必ず君を守る。香苗が私を愛してくれたことも、そして私が香苗を大切に想っているこの気持ちも、決して忘れない。それだけは約束する」
「会長……」
ああ、よかった。わたくし、
この
……コンコン、部屋の扉が控えめに叩かれてルカと香苗は同時にそちらを振り見た。香苗は思わずあっと小さく叫んだ。扉の向こうから聞こえる声は思いもがけぬ人の声であった。
「あ、あのー、入ってもいいですか?」
「ゆかり……!」
ルカは香苗の声に込められた喜びを繊細な音楽家の耳で決して聞き逃さなかった。
「ああ、入りたまえ。では、香苗、私は邪魔になるからそろそろ出ていくよ。今夜はここでゆっくり休むんだ。家にも連絡したから、何も心配しなくていいよ。明日の朝、車で送るからね。じゃあ、おやすみ」
白い部屋着に身を包んだルカは、立ち去りかけて振り返った。
「香苗……ありがとう」
美しい微笑、美しい声、そして美しい立ち姿であった。長い金色の髪、涼しげな目元、すらりとした体つきと優雅な物腰。まるで世の中の女の子の理想の王子様を具現化したかのような。こんなひとはこの世に二人といまい。だからつまり……自分はお姫様の役はもらえなかったということだ。
「香苗、大丈夫?!」
ルカと入れ替わりで部屋に飛び込んできたゆかりの姿を見て、香苗は目を丸くし、それから声を立てて笑い出した。ゆかりは最初わけがわからなさそうに、香苗の正気さえをも疑っているような様子だったが、すぐに香苗の笑いの原因が自分の服装にあるのだと気がつくと、真っ赤になって気まずそうにもじもじしながら後ろ手で扉を閉めた。ゆかりはまだロミオの衣装のままだったのだ。
「し、仕方ないでしょ!舞台の途中で駆けつけてきたんだし…………もうっ!そんなに笑うなら帰るからね!」
「心配して損した」だのなんだのぼやいているゆかりを、香苗は笑いの合間にようやく引き留めた。
「ごめんなさい、ゆかり。でもあんまりびっくりしたものだから。ねぇ、だめ、拗ねないで。こっちへ来て……ほら、あれは
まだいくらか気が乗らなさそうなそぶりでこちら歩み寄ってくるゆかりを、香苗は抱きしめた。もしキャピュレット家の霊廟で生きているロミオと再会したとして、ジュリエットもかくやと思われるほどの喜びに満ちて。
お姫様の役はいらない。わたくしはジュリエットだもの。そして、ジュリエットのお相手は王子様ではなく、ロミオなのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます