10-5 「抵抗は終わりですの?」


 ルカが香苗を我が身から引き剥がしたのと、二階席からじっと二人の様子をうかがっていた玄武が矢を射かけたのが同時であった。矢はジュリエットドレスの裾に突き刺さって震えた。すかさず木守が飛びかかったが、少女は長い前髪で目元を翳らせつつにやりと笑うと、さながら見えない糸で吊られたように、ゆらりと闇に浮かび上がった。木守の牙は千切れた裾の端を噛んだ。


「さすがに油断しきって変身を解いていたわけではありませんのね。褒めてさしあげますわ。おめでとう、ほんの少し生き永らえましたわね」

「芙蓉、貴様ッ!」


 一体どうやって生き永らえたのだろう。紅葉狩は確かに芙蓉という悪しき魂を香苗から取り去ったはずなのに――と、ルカは頬をかすめて何かが浮かびあがっていくのに気付いた。ほとんど本能的にそれを手に掴んだルカは、掌を開いてみて、そこにぼろぼろに崩れた紫色の蝶の残骸を見出した。あっと息を呑んだルカは、続けて幾匹もの毒の蝶がたった今羽化を迎えたがごとく、暗い講堂のなかに美しい埃のように浮遊するのを見た。


 無数の蝶は足元の氷を透かして来たるのである。氷の下に横たわる人々の元より飛び立って。


「一体なにを……」


 同じ光景を二階席から目撃していた玄武が唖然として言うと、そちらに背を向けていた芙蓉は横顔だけで振り返って長い睫毛の下から流し目を向けた。


「あら驚いていただけましたこと、玄武?先ほどあの気色の悪い生き物をお前がわたくしにけしかけたでしょう。ですからわたくし、あまりにおぞましくてどうしても耐えられずにこの体を抜け出しましたの。幾匹もの、幾千匹もの小さな小さな蝶に身を変えて。そして蛹が羽化を待つように香苗が目覚めるまでのあいだの束の間、眠っていたのです。おかげで甘い蜜にもありつけましたわ。人々の精気という蜜にね」

「まさか……!」


 玄武が目を瞠ると、芙蓉は高らかな哄笑を響かせた。その間にも蝶は人々の生命の力を運んで芙蓉の元へ集い来る。蝶は芙蓉の髪に、皮膚に、衣服に、靴に止まっては次々に芙蓉と同化していくようであった。木守が食い止めようとしていたが、もはや焼石に水である。


 玄武が芙蓉目掛けて矢を放とうとする。しかし、蝶を掌に集めた芙蓉が右手をかざすと、そこに新たな鞭が現れて、神渡を玄武もろともにしたたかに殴打した。玄武は「ああっ!」と声をあげて二階席の壁に弾き飛ばされた。玄武は後頭部を打ちつけてうめいた。


「玄武!」


 ルカは鈴を手に取った。が、芙蓉はルカの次なる行動を見透かしていたように、もはや目もくれずして鞭をルカに向かって振るった。咄嗟に木守が頭突きをしてルカを庇ったが、蛇の体に跳ね飛ばされたルカは、氷の上で受け身を取ろうとして床を見失った。その瞬間に、氷の床がすっと消えてしまったのである。


 ルカの身は廊下に折り重なって倒れている観客の体の上に落ちた。右半身に鈍い衝撃を受けてルカは身を屈める。頭だけは辛うじて守ったが、なんだかくらくらするのはなぜだろうか。きっと蝶の毒のせいに違いない。蝶の翅からこぼれおちる鱗粉が砂のようにきらきらと光って講堂内に満ちている。たった今、ルカがその胸の上に倒れ込んでいる、生徒の父兄らしき男性のシャツの襟元から飛び立った蝶からも……ルカははっとした。男性の胸がもはや鼓動を打っていないことに気がついたのだ。男性の皮膚は蝋のように白く、冷え切っていた――もはやそこに血が通っているとは思えない。


 思わず手を伸ばして蝶を捕えようとしたが、蝶はルカの指をすり抜けてしまう。そういえば鈴はどこだろう。弾き飛ばされた衝撃で取り落としたらしい。講堂は氷の床が消えてもなおその冷気を留めて冷え切っているというのに、ルカは嫌な汗が額ににじむのを感じた。玄武は気を失っているようだし、自分は毒の鱗粉に窒息しかけてまともに動けず、しかも四神の鈴を見失ってしまったときている。こういう状況を言い表す言葉はよく知っているが、あまり使いたくないものだ。


 さながら悪い夢のなかにいるようだ。毒の蝶の夥しさたるや、そのささやかなはずの翅の音がわずらわしく聞こえ、呼吸さえも苦しくなるほどだ。芙蓉は無限の蝶の女王として、その中心に君臨している。心なしかその顔は――これまで芙蓉芙蓉と呼びながら、やはり香苗の顔をしていたにもかかわらず――かつての芙蓉のそれに近づきつつあるような気がしてならない。冷然とこちらを見下ろしている表情だけではなく、その造作そのものが。これは無限の蝶の見せる幻であろうか。


 肩を鞭で打たれて、上半身を起こしかけていたルカは再び床に伏した。先ほどの男性の胸の上から転がり落ちて、ルカの体は、男性と手を取り合っている女性のかたわらに収まった。女性の皮膚も男性と同様に青ざめていて、呼吸をするそぶりは見られない。この講堂は、今、何百という人の骸に埋め尽くされている。ジュリエットが運ばれるはずだった、キャピュレット家の霊廟のように。


 芙蓉の鞭はうつ伏せに横たわるルカの背に次々と振り下ろされた。雷に打たれたような衝撃に、ルカはのけぞりながらも情けない悲鳴をあげないように必死で歯を食いしばる。皮膚が破れていく。背骨までもが砕けそうだった。かたわらの女性の胸元を飾るパールの光が、涙でにじんでいく。


「抵抗は終わりですの?」


 苦しい息を吐くルカに、言い返す余裕はとてもなかった。滴り落ちる汗が目に入ったが、霞む視界を拭うこともできない。


「案外あっけないこと。でも、わたくし、待ちましたものね。あらゆる苦難にもあらゆる退屈にも耐え忍んで。ですから終わりにしてさしあげますわ」


 鈴、鈴、鈴……鈴はどこにあるんだ。鈴さえあれば…………


「わたくしを毒婦と呼んだことを、最後の痛みで後悔なさい」


 痛み?指先から感覚が剥がれ落ちていくというのに――私は今、何を見ている?今、何に触れている?駄目だ。これでは前世と同じだ…………



 前世…………


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