7-4 「今日の第一位は牡羊座のあなた!」

 車内は静寂に包まれていた。龍明山でのハイキングを終えた二年A組一行はバスに乗り込んだ直後こそ元気いっぱいであったが、心地よい振動を浴び続けて五分十分も経つと皆一斉に揃って寝入ってしまった。目を覚ましている生徒も数名いるにはいるが、皆の眠りを妨げるのを恐れて身じろぎさえ憚り気味である。前方の席に座っている引率の菅野先生と鳥居先生もついに睡魔に屈したような気配だった。


 舞は目を覚ましている数少ない生徒のひとりだった。窓に頬を寄せる舞の翡翠色の瞳は、まさに今、龍明山の麓にうすずく夕日を真向かいに浴びて煌めいていた。落陽は山の稜線にかかっていよいよ赤く、まばゆい。しかし、木立の向こうに広がる湖面は、恰もそこが宵闇の湧き出づる場所であるかのように深い桑の実色を湛えており、水辺の葦も眠りながら風にそよいでいるように見える。


 樹々の枝が西日を遮る一瞬は舞の瞼も落ちかける。そしてまた西日におびやかされたように見開かれる。頬は火照り、手足も重たく感ぜられるほどには疲れきっているのに、頭のどこか一箇所が冷たく冴え切っていて眠れない。まるで小さな氷柱を脳に埋め込まれたかのようだ。


 眠れない理由はわかっている。夕日のせいではない――美香のことだ。今夜恭弥に告白するという美香の決意を純真なる友情でたすけつつも、舞はもうひとりの親友のことを思わずにはいられなかった。しかし、どうすればよいのかと考えはじめるとなかなか妙案は浮かばない。素知らぬふりをし続ければ翼に後ろめたいし、何か行動に移せば美香に後ろめたい。けれども、今のままの翼でいられては困るのだ。つまり、もう少し素直になってくれなくては。舞はよい方策が思いつかない。その間にも日は刻々と暮れていく。


(どうすればいいんだろうなぁ……)


 舞は窓から逸らした目を左肩の上へと向けた。バスのなかでなにか話ができればと思い、わざわざ翼の隣を選んで座ったのに、翼ときたらぐっすりと寝入ってしまっている。何も知らない寝顔が舞の胸には痛ましかった。


(多分、東野君は翼の気持ちに気づいてないと思うし。翼の気持ちも美香の気持ちも両方知った上で、東野君がどっちと付き合うか決めてくれれば、なんとかフェアになると思うんだけどなぁ……)


 まさかこんな三角関係に巻き込まれるとは思ってもみなかった。舞は移動教室出発前夜のお気楽だった自分を思い出して溜息をついた。誰にも泣いてほしくない。美香も翼も二人とも笑っていてほしい――そう思うのは欲張りなのだろうか。ああ、こんな時、左大臣がいれば相談もできるのに。


 熱い雨がこぼれかかるように翼の頬が舞の肩の上にずり落ちてきたが、翼はなおも目を覚まさない。翼の膝の上にかけられたカーディガンをそっと直してやると、その所作を受けてか、舞の太腿の上に投げ出された翼の手がかすかに動き、遠雷のように小さなうなりが肩の上から途切れ途切れに聞こえてきた。舞はひとり苦笑した。翼ったら、結構本気で眠ってるみたい。


桐蔭宮とういんのみやさま……」


 舞の笑みはたちまち崩れ落ちた。


「いやです。いかないで、宮さま。あたしを、ひとりに…………どうして……」


 舞の手を探り当てた翼の手に力がこもる。結び合ったその手の上に、涙がつと伝って落ちた。


 翼は今、前世の夢を見ているのだ。それも前世の記憶のなかで青龍にとっては最も苦しかったであろう、東宮の死の夢を。東宮が謀反の罪で捕まってからの三日間、青龍は一睡もせぬまま桜陵殿の庭を歩き回って鶏鳴を待っていた。京姫はその足音を温かいしとねのうちでさびしく聞いていた。年の暮れ間近のことである。三日目の朝に東宮は自刃したことが知らされた。


 だが、青龍が姫の前に悲しみを明らかにしたのは、年が明け、今度は紫蘭の君が窮地に立たされた折であった。東宮も紫蘭の君も同じ三条家の者どもの手によって陥れられた。青龍は京姫や四神たちの前で声高に三条家を誹り、叫んだ――真実なんてものは足蹴にされて、正義だなんてものは忘れ去られて、そしてあの方はひとりで逝ってしまった……!――そうして、青龍は初めて泣き崩れたのである。



 ……その心が恋であったと知ったのは、ようやく今になってからだった。



 舞は今すぐこの場で翼を抱きしめたかった。前世でかくも苦しい恋をして、現世でも想いが報われぬのだとしたら……あまりにも耐えがたかった。それでもやはり舞にはどうすることもできないのだ。恋だけは、どうしても。


 翼の寝言を聞いた者が自分の他にいたことを、舞は知らなかった。聞いていたとしてなんであろう?多くの者にとっては意味のない言葉である。しかし、結城司にとってはそうではなかったのだ。そして、結城司は聞いてしまったのだ。舞の真後ろの席で、沈んだ夕日を追い続ける司の瞳が揺れていた。






「今日の第一位は牡羊座のあなた!伝えられなかった想いを伝えることができるかも?ラッキーアイテムは水色のリボン!」

「……なに?」


 夕飯後のことである。ロビーのソファの上で向かい合っていると、百合煎のマスコットキャラクターである「きぬひめちゃん」のぬいぐるみを取り出して掲げつつ、唐突に裏声でしゃべり出した舞に、翼はけげんな目を向けた。


「きょ、今日の占い!」

「そりゃわかるけど」

「翼、牡羊座だったから教えてあげようと思って!」

「あたし、牡牛座だけど」

「えっ?えぇっ?!じゃ、じゃあ牡羊座!」


 じーっとこちらを睨んで不信感を露わにする翼に、舞は恥じ入って「きよひめちゃん」の影に顔を隠した。それでも駄目押しの一言(裏声)は忘れなかった。


「だ、第一位は牡牛座だよ!」


 翼の目が語っている――何が言いたいの、と。やっぱり駄目だったか。舞は「きよひめちゃん」の影で溜息をつく。遠まわしに翼の恋心を焚きつけようとしたつもりだったが、初めから失敗は目に見えていたのだ。告白は翼にとって命がけにもなるであろうから、怪しい星占いごときでは到底唆せるはずもない。しかし、知恵を絞って考えた結果がこれだとは、我ながらあきれてしまう。


「……で、今のなに?」

「ただの人形劇です」


 「きよひめちゃん」(母へのお土産)に退場していただきながら、舞は力なく答えた。


「忘れてください……」


 こうなったら真面目に諭すしかないのだろう。美香からしてみたらこれは卑怯なのかもしれない。でも、美香の恋については一言たりとも翼に話すつもりはない。ただ、翼に自分の想いと向き合ってもらうように促すだけだ。そうしなければ後悔し続けるだろうから……ごめんね、美香。


「……ねぇ、翼、ちょっと話があるからお庭に行かない?」


 舞が今度は深刻そうに切り出すと、翼は目を一瞬ふくろうのようにぱちくりさせてそれから了承した。入浴の順番待ちをしているところであったので、二人とも手に入浴道具一式を詰めた袋を抱えてロビーのガラス戸より庭園に出る。日中、山のなかを歩き回っているあいだはまだ暑さが残るこの季節に山の冷気が心地よく思われたほどであったが、夜になってくると肌寒ささえ感じられる。秋は、日の差すうちはまどろんでいて、月影が白い飛び石のような道の在り処を示し始めると、その上を踏み渡って、この百合煎の地に忍び寄ってくるのだろう。風の渡る音は、秋が舞たちのすぐ傍らを過ぎていく時の衣擦れのように思われた。やがて舞たちは東京の地で彼女を再び迎えることになるのであろう。


 庭の緑は闇に沈み、ところどころに置かれた灯籠が淡い光を支えていた。舞と翼は、やがて小さな池に流れ込んでいく人工の川のせせらぎを辿るようにして、母屋から遠ざかった。母屋の近くには、川にかかっているささやかな太鼓橋なんぞにもたれながら涼をとっている生徒もぽつぽつといて、彼らを避けているうちに、舞と翼はついに藤棚の下にまでたどり着いた。すでに季節を過ぎた藤棚は静かに憩うているように見えた。


「話って?」


 翼が尋ねた。


「漆のことと何か関係があるとか?」

「ううん、そうじゃないんだけど……あのね、直球で聞いていい?」


 なにがなんだかわからぬままに、翼はうなずいたようだった。


「東野君に告白する気、ある?」


 藤の葉の薄い影は月光を透かしていたが、雲が月にかかるとともに二人の影もその薄い影に紛れた。それを何者かが訪れた者と間違えてか、すだく虫の音がふっと掻き消えるその影のなかにも翼の頬はみるみるうちに赤くなった。


「なっ、なに、急に……!」

「もし告白するなら今日かなぁって思って」

「なんで?!」

「だ、だって、せっかくの行事だし。ほら、よく修学旅行の時に告白して付き合ったっていうの、聞くじゃない?」

「そうだけどっ!いくらなんでも急すぎるわよ!そういうのって、やっぱり事前に決めてからするものでしょ。あたしはなんの準備もしてきてないもん……今朝だって喧嘩しちゃったし……」


 翼はしょんぼりとつぶやいた。舞は入用道具を入れた袋を抱える両手の指をきつく組んだ。これはなかなか手ごわそうだ。時間はもうないというのに。かくなる上は荒療治といくしかない。舞はごくりと唾を呑んだ……確かこんなことを舞自身も美香に訊かれた気がする。


「……でも、東野君が誰かにとられちゃってもいいの?」


 翼ははっとしたようだった。


「誰かにとられるって……」

「こういう機会だもん。別の誰かが東野君に告白するかもしれないでしょ。それでも翼は平気なの?」


 会話の途切れ目に虫たちが控えめに鳴きはじめる。舞は苦しい胸を袋越しにぎゅっと押さえた。ごめんね、翼。ごめんね、美香……私、友情のためといいながら、なんで友達に脅迫みたいなことをしているんだろう。


 こちらを見つめる翼の瞳が、闇のなかに光っていた。青い光は翳った。翼が顔をうつむけたためである。


「翼……」

「舞……あたしに発破かけてくれてるんだよね?あたしがいつまでも何もしないから」


 「そうだ」と言うと恩着せがましくて、「そうではない」と言うと嘘になって。答えかねる舞の耳にふっと笑うような音が聞こえてきた。


「わかるよ。ありがとう、舞。でも、でもね……恭弥がもし誰かに告白されても、あたしには関係ないよ。その人のことをもし恭弥が好きだったら、たとえあたしが先に告白したってフラれるだけだろうし。もしあたしのことが好きだったら、その人のこと断るだろうし。舞、あたしね、まだ動きたくないの。恭弥の気持ちがちゃんとわかるまでは告白したくない。今は喧嘩しても幼馴染の仲でいられるけど、もし告白してフラれたら、きっと気まずくなって、今までどおりじゃいられなくなっちゃうもの……それが怖いの」


 やっぱり同じなんだ、翼も――舞は泣き出したくなった。司を好きだったときの自分と同じだ。翼の気持ちは痛いほどわかる。でも、そうやって二の足を踏んでいるうちに司を失ってしまった舞としては……


「でも……」


 言うべきか迷いながら、舞はついに意を決した。


「でも、翼、もし……もし、前世みたいなことになっちゃったら……」

「前世みたいなこと?」


 素直な当惑で聞き返す翼に、舞の口のなかはからからになった。


「もし、前世の青龍みたいに……好きな人と、会えなくなっちゃったら…………」


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