6-2 「二人、うまくいくかなぁ?」
「いってきまーす!」
あくる朝のことである。母親に見送られて、舞は大きな荷物を背負いながら学校に向けて出発した。今日は七時半に学校に集合したのち、貸し切りバスに乗って百合煎へと向かう予定である。昨夜のニュースで見た天気予報では、百合煎のあたりは三日間とも快晴で過ごしやすいとのことであったので、舞はなにひとつ憂いなく――結城司のことがひっかかっているとはいえ――九月の空の下に飛び出していった。しかし、もしテディが居間のソファの上ではなちゃんに羽交い絞めにされている事実を知っていれば、舞とて多少の憂いを覚えたはずである。
「あらあら、ダメよはなちゃん。それは舞のお友達なんだから」
母親はかくのごとくのたまって白猫をテディベアから引き剥がしたが、人目がなくなり、左大臣が窓へ向かって駆けだしたころには、舞の後ろ姿はとうに通りから消えていた。左大臣はその場でがくりと膝を折った。
「……それでうちに来たのかい?」
「はい。姫さまがいらっしゃらないと京野家ではろくに身動きもできませぬものでして。いやはや、ご迷惑をおかけいたしまする……!」
「まあそれは構わないが、大したお相手はできませんよ。なにせ明日から文化祭だからね」
「えぇ、わかっておりますとも。置いていただけるだけで充分でございます……!ルカ殿がお留守の間は、例の作業を進めさせていただきたいと存じております」
制服を着込んだルカはうなずいて立ち上がった。時刻はすでに九時を回っている。普段ならばとうに学校に着いていなければならない時刻だが、今日は準備日であるので登校時間は個人の裁量に任せられていた。クラス劇を発表する生徒たちは七時の開門前から学校の前に並んでいるだろうし、玲子のように何をする気もない生徒は全く登校しなくても特に文句は言われなかった。ルカはいつも通りに登校しようと思っていた矢先、這う這うの体で左大臣が白崎邸にたどり着いたので、迎え入れて椅子を勧め、猫に襲われ身動きがとれぬうちに舞が気づかずに出発してしまった経緯などを聞いていたが、ひと段落ついたここらでひとまず登校することに決めたのである。
「ではごゆっくりと。私もそんなに遅くはならないと思うが」
「いやはや、かたじけない。ルカ殿も道中お気をつけなされ。わたくしなど三回も
ルカが苦笑しかけたとき左大臣がぴたりと口をつぐみ、すとんと椅子の上に腰を落としたのは、扉をノックする音が原因であった。「はい」とルカが答えると、「入るからね!」と明るい声がして、ルカが止める間もなく母親のソーニャが顔をのぞかせた。
「ルイ、あなた何時に家を出るつもりなの?さっき香苗ちゃんからでん……」
そこまで言いかけて、母親が突如キャーッと悲鳴をあげたので、ルカは思わず怯んだ。
「な、なに……?」
「そ、それ……!」
母親がピンクのマニキュアの光る手で指さした先には、左大臣の姿がある。日頃の鍛錬の甲斐あって微動だにせず、まさしくテディベア然としているのだが、その瞬間、ルカはしまったと思った。恐れていた事態が起こったのだ。母親の悲鳴の理由もルカはたちまち理解した。
「かーわいーっ!!」
やはり……きらきらと輝く母の目から顔を背けて、ルカは掌で額を覆った。
「かーわいーっ!!どうしたの、この子?うちにこんな子いたっけ?それよりルイがテディベアと向かい合って座ってる姿が最高にかわいいっ!」
「ち、違うんだ母さん、これには
一体どんな理由だ、と自分でも思わずにはいられないルカであった。
「誰とおしゃべりしてるのかと思ったら、テディベアちゃんとおしゃべりしてたのね!もうー、ルイったら、案外ロマンティックなところあるじゃなーい」
「違う……!」
もっともらしい言い訳も思いつかなかったルカは、肘で娘を突っつくソーニャにただ力強くそう叫ぶしかなかった。
(はて、母御はルカ殿を「ルイ」とお呼びになっているようだが)
ソーニャの存外力強い腕に抱きしめられながら、毛一本動かせぬままに左大臣は思考回路だけをめいっぱい稼働させて物思う。
(一体なぜであろうか。何か事情があるのだろうが……しかし、
「あ、れ……左大臣……?」
「早くこっちにきなよ」と呼ぶ友人の声に「今行く!」と答えつつ、舞は改めてリュックサックのなかを点検してみた。リュックサックのなかは弁当箱の包みを取り出した今もなおぎゅうぎゅうと苦しげに詰まっていて、到底テディベアが入り込む隙間などない。あまりの息苦しさについに左大臣も逃げ出したものかと疑った舞は、リュックサックを降ろした木陰のまわりを見渡してみながら「おーい左大臣」と小声でささやきかけてみるのだが返事はなかった。
(ま、まさか置いてきた……?!)
「まーいー!なにしてんの?お弁当食べようよー!」
心ここにあらぬままに返事をして、舞は弁当を持ってふらふらと友人たちの方へと向かう。ちょうど昼時、桜花中学校二年A組一行は
「次、どこいくんだっけ?」
と尋ねたのは
「えっとね、バスで龍明町まで行って、そこからは自由行動だよ。その後は三時に集合だって」
答えたのは
「あー自由行動か。やだなぁ、結城のやつと一緒かよ……」
「ねぇ、困っちゃう。何考えてるんだかぜんぜんわかんないんだもんねぇ」
「それで私たちは最初どこ行くんだっけ?」
「
「そうだっけ?」
(ど、どうしよう……左大臣がいなくても私やっていけるのかな……)
舞は何を口に入れているのかもわからないままに無言で箸を動かし続けていた。その間、理沙と優美はひそひそと小声でささやきあっていたが、やがて同時に舞の方へとにじりよってくる。舞もようやく物思いから覚めて、けげんな顔で二人を交互に見遣った。
「……で、舞はどう思うの?」
「えっ、なんのこと?」
「決まってんじゃん。二人のことだって」
「二人、うまくいくかなぁ?」
「せっかくの行事なんだよ?!ここでくっつかなくてどうすんの?」
くっつく……二人……ああ、と舞は察した。百パーセント中の百パーセント、まちがいなく恋愛の話である。
理沙はキッ!と舞の方を向いて迫った。
「舞だってそう思うでしょ?」
「えっ、あっうん……でも、二人って?」
一体なにを聞いていたの?!と、優美までもが詰め寄ってきた。
「決まってるじゃない!二人と言えば、東野君と……!」
翼のことか、と言いかけた口は思わぬ名前に塞がれた。
「美香のことでしょ!」
舞は風が湖面を渡っていく音を聞いた気がした。群青色の湖面を白く波立たせる風はきっと真向かいに青々とそびえる龍明山の麓の森にまで届いたはずだ。だが、梢の揺すぶられる気配はない。木立は変わらず深閑としている。
聞きまちがいだろうか?美香?今美香と言った?美香と東野君……?そんな、まさか、そんなはずが……
「えっ、ちょっ、舞まさか気づいてなかったの?うっわ」
理沙が声をひそめつつも露骨に驚いたようすを示す。優美もあきれた様子だ。
「えー、誰がどう見たって気づくよねぇ?」
「うん、気づくっしょ。最近のようす見てれば」
「ずっと二人でしゃべってるし」
「最近帰んのも一緒だし」
「今回だって班が一緒だし」
まだ呆然としている舞に、ほら見てみろと理沙がこっそりと背後を指さした。舞はほとんど機械的に振り返る。舞たちから少し離れた丘の上で、五班のメンバーが弁当を広げている。ひと班だけめずらしく男女でわかれていない。メンバーの顔は日差しの下でほとんど影になってはいたが、舞はうつろな目をさまよわせてようやく隣り合って座っている美香と恭弥の姿を見つけた。その瞬間、どきんと胸が鳴った。
「ほら、ね?」
優美にろくに返事ができぬまま、舞は見てはならなかったものを見たかのように顔を逸らした。幸いにも優美と理沙はにやにやするのに忙しく、舞の動揺に気づいていない。
「ったく、美香ってば、あんなにかわいくなっちゃってさ」
「それでも私たちにはなんにも相談しないんだもんね」
「まっ、言えないだろ美香じゃ。恋愛にも男にも興味ありませんって言い張ってたわけだし」
「そっかぁ。相談しないところがまたかわいいのかぁ」
「そーいうこと」
二人の会話は、対岸の森から湖を渡ってささやきくるかのように思われる。舞は日差しが弁当箱の玉子焼きをぬるませていくのを食欲も忘れて、ただ見下ろしている。
美香と東野君…………
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます