第六話 恋する湖畔
6-1 北条院香苗の日記(九月十六日 木曜日)
……生まれた家は京の南にございました。母はかつて宮仕えの身でありましたが、とある身分ある殿方の子を身ごもりましたことから北の方の嫉みを買い、宮中を追われることとなりました。頼る身寄りもない母親が行きついた先のあばら屋で産みました子こそ、わたくしでございます。
母はやがて新しい男と結婚いたしました。わたくしの父の足元にも及ばない卑しい者ではありましたが、乳飲み子を連れて生活のあてもない母にはいたしかたなかったのでございましょう。
はじめは親子三人、貧しいながらにそれなりにまっとうな生活を送っておりました。しかし、ひとり、またひとり、と子が――わたくしにとっては父親違いの弟妹たちですが――生まれるにつれて、生活は荒れ、日に日に困窮するようになりました。まるで堕落のお手本のように継父は酒に浸り、母や子を殴りつけるようになりました。生活に追われる母はたくさんいる子どもたちの顔すら見分けられないといったありさまでしたわ。けれども、ただひとり、美しいわたくしのことは偏愛しておりました。この子だけは身分が違うのだからといって、継父にも指一本たりとも触れさせようとしませんでした。何かにつけて母は嘆息したものです。
「ああ、お
えぇ、母のそんな嘆きがなくとも、わたくしは自分の美しいことを充分に理解しておりました。幼いころのわたくしの遊び場所といったら路の端ぐらいなものでしたけれど、わたくしが路に出るとすぐに近所の男の子たちが後を追いかけまわしはじめるのですもの。わたくしはこの汚らしい男の子たちを心底嫌悪しておりましたが、下僕のように扱っても彼らがなんとも言わないので好きなように使ってやりました。いえいえ、たとえ帝であろうとお后であろうと、わたくしほどには彼らに対して力を持たなかったでしょう。わたくしの命令は必ず遂行されました。わたくしの行為は必ず称えられました。もしなにか気にくわないことがある時や、虫の居所の悪い時などは、彼らを蔓や布の切れ端などで編んだ鞭で折檻いたしました。
おかしなことに、彼らはどれだけ
わたくしは、寝ていると耳元までやってきておどかす鼠を退治するために母が木の実をつぶして毒を調合するのを間近でよく見ておりました。ある時、見よう見まねで作ってみて、その時はまだそれをどうしようとも思っていなかったのですけれど、これをあの子たちに飲ませたらどうなるのだろうと気になって、これは何とも言わずに飲ませてみたのです。憐れな二人の生贄は、何も聞かずに飲みました。えぇ、もちろん大変悶え苦しみましたわ。わたくしはわたくしの
……さて、わたくしの家のことに話をお戻しいたしましょう。そのころにはわたくしの家の荒廃も極まり、見るに堪えないようすに陥っておりました。恥を承知で申すのですよ。母でさえもとうとう堕落してしまいました。このころ継父が急に血を吐いて死んだため(お酒の飲みすぎでしょうか)、八人の子をひとりで抱え込むようになっていたのです。日に日に美しかった母の容色は衰え、目は濁り、知性と品位は失われていきました。生活のために一線を越えたところから、母はたちまち坂を転がり落ちていきました。
昼頃に起きてきて、片手に酒を、片手に乳飲み子を抱き、だらしなくはだけた胸元から乳を含ませていた母の姿を覚えておりますわ。ほんとうに、今思い出しても胸がむかむかいたします。醜悪な姿でした。家じゅうを漁っても食べるものなどないというのに、母だけはぶよぶよと太っていたのもまた憎たらしく思われました。そんななかでも母はわたくしに縋り、姉妹のなかたったひとり美しいわたくしをいよいよ頼みの綱にしようというので、わたくしはたまらず家を出ました。わたくしはまだ九つだったのですもの!後を追われるのは嫌でしたので、例の木の実の毒を、以前よりもう少し強めに作って、家の水桶と酒に混ぜておきました。その後消息も聞きませんが、きっと薬は効いたことでしょう。
自由になったわたくしは、
しかし、わたくしは、わたくしの美しさと出自の高さを忘れたわけではございません。「お前は宮仕えをしたところでひけをとらないだろうにねぇ」という母の言葉はなおもわたくしの胸に刻まれておりました。
ある夏の日、珍しく伴も連れずにわたくしが川辺で涼んでいると、ひとりの身なりのいい男が揉み手をしながら、にこにことわたくしの方に近づいて参ります。けげんな顔でわたくしが見やると、男はこんなところで思いがけず高貴なお方がお
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます