4-4 「朱雀、ただ今参上いたしました」


 鈴の中の小さな桜の花弁が突如として音色とともに風にのって溢れ出し、桜嵐が吹き荒れる――桜の花びらは舞の腕に、胸に、背に、腰に、足に、そして髪に纏わりついたかと思うと眩い輝きを放ってきらびやかな麗しい衣装へと変わっていった。腕には桜の色をそのままに透かした袖が、胸元には桜の花弁をそのままに襟元に散らした背子はいしが現れた。


 背中から一度体を取り巻いた桜は一筋の川を作って領巾ひれとなり、舞の腰元に巻かれて大きなリボンを作った。太腿を取り巻いていた桜はレースの裾のついたピンク色のミニスカートに。脚にはニーハイソックスが履かされた。足元には桜の花弁の柄がついたピンクゴールドの靴。髪は伸びてふわりと腰元まで波打ち、宝石を散らした、両端に桜の花びらが二枚ずつハート型を描くように飾られたピンクゴールドの宝冠ティアラがその頂きを飾る。


 長い眠りから覚めたあとのように見開かれた瞳に、みずみずしい翡翠の輝きがならび立った。




 桜花神社に舞い降りた京姫の姿に驚き怖じたとみえて、敵はやかましい声をあげつつ長い尾を引きずって不器用にあとずさった。姫は駆け出してその後を追う。化鳥が夜空へ逃げ去ろうとするまさにその瞬間、姫はその尾を踏んで地に留めた。恐怖の色もあらわに飛び立とうともがく怪物は、姫の胸をめがけて長い嘴を数回ほど突き出したが、姫は変わらず尾を踏んだままで軽やかに身をかわした。と、姫の腕に噛みつこうと、化鳥の嘴がくわっと大きく開き赤い舌がその内に生々しくも燃え立った。その一撃を避けて姫が後ろへと飛びのくと、ここぞとばかりに怪物は飛び立たんとした。


「姫!」


 玲子が叫ぶ。もちろん、京姫とてみすみす敵を見逃してやるつもりはなかった。着地とともに姫は腰元の領巾をひらりとほどき、その領巾の端を夜空へ向かって投げかけた。桜色の領巾は怪物の足に絡みついた。なおも飛び上がらんと抗う力を左の掌に感じつつ、京姫は右手の袖の色を揺すぶって、すかさず叫んだ。


桜人さくらひと!』


 吹き荒れる桜の嵐が禍々しき化鳥をまたたく間に取り囲んでいく。化鳥の色は花の色に紛れて消え去った。あとに残されたのは怪物の断末魔のわずかな響きだけであったが、この境内にいる者の誰一人としてそれを聞きつけたものはいなかっただろう。打ち上げ花火の音が全てをかき消してしまったから。


 領巾の端がくずれおちてきてやわらかく姫の頬にかかった。京姫は少し目を細めて首を振りそれを払うと、ゆっくりと辺りを見回してみた。そびえる桜の樹の木末こぬれを風がさやかにわたっていた。木の葉は眠たげに身を揺すっている。何かの気配と感じるのは、邪悪な生の影に脅かされていた声なきものたちのかすかな息づきなのであろう、きっと……今度こそもう敵は残っていないようだった。



 京姫はほうと息をついた。それから姫は変身した自らの姿を見下ろし、そのただむきや足元を見下ろし、長い髪に触れながら、そうしてそこにある自分自身を、真にここに在るものかと確かめた。ついに変身することができた。前世の記憶を取り戻してから、今ようやくこの日になって。京姫は体が打ち震えるような気がしてならなかった。やっと私はまた戦えるようになったのだ。


「あっ……」


 すうっと、ひとりでに変身が解けた。舞は変身後の姿を留めようとするかのように、浴衣のわが身を抱きしめる。変身できるようになるためには、他ならぬ舞自身が罪をゆるさなければならないと左大臣は言った。だが、前世の姿でいることはやはりまだ複雑で、舞はまだ京姫の罪を許すことはできない。たとえ前世の姿がどれほど懐かしく、いとおしく思われても。


「清らなる我が身をもて、水底の国、玉藻の国の京を護らん……」

 

 舞はつぶやいてみる。手のなかで鈴が淡い蛍火のように光って、ふっと掻き消えた。舞はそこはかとない優しさのようなものを覚えた。私はこの身が清らなる身ではないことを知っている。玉藻の国も京も、とっくに滅びた。だから、紡いだことばに意味はない。それでもなお私は戦えるのだと、戦って守らねばならないものがあるのだと、思い出せたから変身できた。


 その詞を思い出させてくれた人――


 二の鳥居の影に立ち尽くしていた舞はふっと石段を見下ろした。立ち上がれない玲子は、相変わらず舞が降ろした場所に腰をかけて留まっていた。段差に腰かけ、膝と膝とぴたりと寄せ合って斜めに投げ出し、上半身をねじって玲子は舞をじっと見上げているようすであった。と、二人の目が合った瞬間、玲子は紅のかしらを深く垂れた。舞はそれが何を意味するかを知っていた。


 逡巡が、春の嵐のように舞の胸を訪った。結城司の顔が瞼の裏をよぎった。怒りを忘れたわけではなかった。しかし、幾星霜を経た再会の喜びには耐えがたい。もしかすると、今宵、舞を変身させたものは、実はなによりも、この喜びであったのかもしれない。戦いへとはやる若駒のごとき心より、なおはやく、喜びは運命へ向かって駆けていったのだ。それは単に懐かしい記憶に迎合しようというだけの感情ではなかった。来し方にも行く末にも罪があり痛みがある。決して消えることはない。ただ積み重ねられ続ける――そのことを知って、少女は荒野を再び歩みだしたのだ。


 舞はしずしずと石段を降りていった。石段を下りていたのは舞であり、また京姫であった。花火がやんだあとの薄闇のなかに舞のみ顔はほの白く浮かび上がり、一足ごとに樺色のおぐしは揺れて、さやさやと音を立てるかと思われた。表情は凪いだ。そこには高貴にふさわしい感情だけが取り残された。乱れのない優雅な足取りで舞は玲子のいやしているその前まで降りると、雛のようなみをつと差し伸べて玲子の頬に触れた。


「姫さま……」


 玲子は心持ち顔を上げて細めた目の奥から舞を見つめたあとで、舞の手をそっと押し戴いて再び顔を伏せた。


「朱雀、ただ今参上いたしました」


 二人が向かい合っていた静寂は、刹那、守られた。最後の菊花火の一群が夏の夜に満ちたとき、二人は示し合わせたように、ともに東の空を向いた。そして翡翠と紅の瞳に同じ色のきらめきを受けた。二人はお互い交わす言葉も思いつかずに黙り込んでいたが、手はいまだに結び合わされたままであった。




 車椅子を一台大破させておいてなぜそんなに機嫌がよいのかと父親に訝しまれながら、玲子は帰宅の途についた。桜花神社の夏祭りは無事に終わった。停電騒ぎは少しあったとはいえすぐにおさまったのだし、桜花市長はビールを幾杯か勧められてほどよい頃合になっていたし、これはおおむね「無事」と称してよいだろう。


 ケーキがあるから食堂に来るように、と父から伝言を受けていたので、玲子は一度自室に戻ったけれども、着替えさえすませたらすぐに部屋を出る予定であった。柏木もそれを心得て、主人を部屋まで送り届けたあと、着替えの邪魔にならないようにとすみやかに退室しかけたのだが、扉を出かけたところを呼び止められた。


「柏木、それを」


 着替えの服を傍らに寝台の上に腰かけた主人は、窓際の机の上に置かれた包みを指さしていた。誰かからの誕生日の贈り物であるらしいが、高級宝飾店の包装紙から推すにおそらくはルカのものであろうと柏木は当たりをつけた。ゆえにどことなく忌々しいような気持ちで女主人に包みを手渡した。


 はたしてそれはルカからのプレゼントであった。宝石をあしらった金のイヤリングの輝きに玲子は満足げに微笑んで、やがて大切そうにジュエリーボックスのなかにしまいこんだ。それから玲子はまだ包みのなかに別の何かが入っていることに心づいたらしかった。


 柏木が見ている前で、玲子はひとつめの箱を取り出した。そこには赤いリボンのついたバレッタがおさめられていたが、柏木はおやと思った。ルカの好みにしてはずいぶんと慎ましげだ。ふたつめの箱にはピンクの薔薇の模様の入った陶器のティーセット。こちらも可愛らしい品ではあるが決して高級品とは言えないようだ。みっつめの箱の中身は写真立てであり、金色の枠のなかになにやら写真のようなものがおさめられているのが、柏木にもちらりと見えた気がした。主人の動作が止まってしまったのはその写真立てが出てきた瞬間からだった。


「……お嬢様、旦那様がお待ちです」


 柏木が忠告してもなお玲子は写真立てから目を逸らそうとしなかった。


「お嬢様……」

「すぐに行くとお父さまにお伝えして。それから……それからしばらくひとりにして」


 矛盾したことを命じているとわかっていらっしゃるのだろうか。主人に抗う習慣のない柏木は仕方なくその場を後にしたが、写真立てに無心に目を注いでいる主人のいつにない様子が気にかからない訳ではなかった。部屋を去りながら遠く一瞥したとき、主人の目は潤んでいるようにも見えた。柏木はおやと思って片眉を上げた。しかし、さすがに錯覚であったのだろう。


 玲子が膝の上に載せて見つめ遣っている、その写真立てにはありし日の少女たちの姿がある――京姫、青龍、玄武、白虎、そして朱雀。四神たちは京姫を囲むようにして立っていた。まるで記念写真を撮っているかのように。背後の風景は恐らく桜陵殿の春の昼下がりで、やわらかな陽ざしと桜の花がが五人の髪に肩に降り注いでいる。みんな楽しそうに笑顔を浮かべていた。朱雀でさえも。


 写真などない時代のものだから、ただ思い出と絵筆に任せて。苦しかった時代のものだから、思い切って美しく楽しげに。もう戻れない時代のものだからこそ、それは懐かしく、いとおしく、切なくなるほどに…………




 Happy Birthday 朱雀!――絵の端にはそう書かれていた。



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