3-2 「桜花神社の夏祭り?」

 さて、どう話をしたものかなー―ルカはひとりちる。八月のとある月曜日、生徒会の仕事がひと段落したあとで、ルカはまだ生徒会室に残っているのだった。ここは人が来ないから思索によい。窓辺にある生徒会長の特等席からは夏めいた空が鮮やかに見える。絵画じみた青空に浮かぶ巨大な白い雲の肌には薄墨色の線が急峻なる隆起を描き、そこからすばやく滑落していく谷あいには暗い水を思わす影が深々と溜まっていた。雨水はきっとそこからもたらされるのだろうと、ルカは思う。


 鳴きわめく蝉の声は窓硝子の表面を揺すぶるのかもしれないけれど、冷房の冷気が満ちた部屋からは遠ざけられている。この冷気は他の生徒会役員をも部屋から追い払ってしまった――「会長は暑がりすぎです!生徒会室を冷凍庫にするつもりですか?!」。


 ……先ほどから何回も携帯電話を開きかけては躊躇している。土日の間ずっと考えていた。どのようにして舞の言葉を伝えればよいのだろう。玲子はどんな反応をするのだろう。たとえ傷ついたとしてそれを表に出す玲子では決してない。だからこそどんな伝え方をしていいのかわからなくなる。なんという難題をあの心優しい少女は押しつけてきたのだろう。


「つくづく困ったお姫さまだ……」


 唇に浮かんだ微笑みはすぐに消えてしまう。とざした眉に憂いと不快が立ちこめる。これというのも結城司ひとりのせいなのだと思うと。かの少年はいつもそうだ。前世でも現世でも。平和をかき乱し、あの可憐な少女の心を振り回しておいてずたずたに引きちぎってしまう。


(だから、私は許さない。たとえ彼が今なお苦しんでいたとしても。決して……)


「白崎会長」


 みずみずしい声がルカを呼び覚ます。開きかけた扉から少女が顔をのぞかせている。


「ああ、香苗……」

「まだいらしてたんですね」


 北条院香苗ほうじょういんかなえは慎ましげにそう言って部屋に一歩踏み込むと、両手で腕を抱えて身を震わせた。


「稽古はどうしたんだい?」

「今はお昼休みですわ。会長はもうお昼を召しあがりましたか?」

「いや、まだだ……」


 昼食どころではなかったんだとも言いかねて、ルカはあいまいに笑った。香苗はそんなルカの表情になんともつかない顔を浮かべている。そんな表情さえもが優美な少女だ。体育着をまとっていても真っ白な水仙を思わせるしなやかな体つき、しとやかな物腰、やわらかな口調。その人当たりのよさと聡明さで、生徒会副会長としてもルカを献身的に支えてくれている香苗は、次期生徒会長になるとみなされ、学院の皆から期待されている。ルカもそれに異論はない。香苗になら任せられる――この薄色の髪をした乙女にならば。


「どうした?何か忘れものか?」

「い、いいえ……ただ、様子を見にきただけですわ。誰かいるものと思っていましたから。会長以外にも……」

「そうか」

「おひとりのところ、お邪魔しましたわ」

「いや、邪魔なんてことはないさ」


 ちょうど行き詰まっていたところだしね、とルカは言葉には出さず、肩だけすくめた。香苗がまた困ったような顔をするのを見て、ルカはすばやく話題を転じた。


「ところで、香苗のクラスは何を演じるんだったかな?」

「『ロミオとジュリエット』ですわ」

「それで君がジュリエットってわけか」


 冗談のつもりだったのだがどうやら当たっていたらしく、香苗はかすかに頬を赤らめた。


「えぇ、恥ずかしながら……」

「ジュリエットドレスを着た君は美しいだろうね、香苗……ああ、もちろん、いつも以上に、という意味だが」

「そんな、もう……!わたくしなんかをからかって楽しいんですの?」

「からかってない。素直な気持ちだ。君はきれいだよ、香苗」


 今まで香苗に対しては、こうした口説き文句をかけてこなかったせいだろうか。香苗は意外と耐性がないとみえて、ますます頬を赤らめて顔をそむけてしまった。こんな風にすらすらと彼女を前にして話すことができればよいのに、とルカの胸を薄暗い気持ちが横切った。自分はかつて玲子の美しさを目の前で褒めたことがあっただろうか。そんなことにいまさら意味はないと知っているけれども、それこそがルカのもっとも素直な気持ちだというのに……


「先輩は昨年何を演じられたんですの?」


 水仙女学院高等学校の文化祭では、一年生だけは演劇と出し物が決まっていて、それもとある老英語教師の圧力のためにシェイクスピア劇を演じるというのが慣例なのである。今年も四クラスがそれぞれ、「オセロー」「ロミオとジュリエット」「マクベス」「ヴェニスの商人」を演じることとなっていたが、最も優れた劇を演じたクラスに与えられる優秀賞を競って、早くも互いに火花を散らしているのだった。その闘争心の熾烈さといったら、女学院生のいつものお上品な姿は何処へやら、普段は絶対的な権限を持つ上級生でさえもが一年生の教室に近づかないというありさまであった。


「私のクラスは『ハムレット』だったよ。私は何もやらなかったが……とても文化祭に参加するような生徒じゃなかったから」

「……そうでしたわね」


 応える香苗の声はほのかに暗かった。


「だが、今となっては少し悔やんでいる。演劇というものを一度やってみるのも悪くなかっただろうね。……さて、私も仕事を終わらせて帰るとしよう。香苗、君も早くクラスに戻ったほうがいい。震えてるじゃないか。風邪を引くといけない」


 よほど寒さが堪えたのか「はい……」とか細い声でうなずいて、香苗は相変わらずしとやかなゆるやかな動作で身を翻す。二三歩行きかけて、香苗が立ち止まったのが、早くも書類に目を落としているルカには物音でわかった。まだ何かあるのだろうか。仕事を終わらせて、家でコーヒーとサンドイッチの昼食をとりながら、ゆっくり玲子の電話の「脚本」を練り上げようと思っているのだが。ルカは顔を上げる。


 ……夏の日を浴びて金色の波打つ髪が輝いている。長い睫毛が落とす影は琥珀色にくっきりと、日によってますます明るんだ白い頬に落ちている。純白の学ランに身を包んだ姿が、今、香苗の目に、気が遠くなるほどにまばゆく映えるのを、ルカは知らない。


「どうした、香苗?」

「あの、会長……もし……」


 胸元で重ねた手にぎゅっと力をこめても、言葉は容易に絞り出せない。あなたは美しい。わたくしよりもずっと……


「もし、お暇でしたら、その……」


 ああ!あなたを直視することもできない。眩しすぎるせいだ、真夏の日差しが。もう何も言えなくなってしまった。舞い上がる埃さえをきらめかせるこの憎いばかりの金色こんじきの炎が、舌をも渇かしてしまって……


「その……桜花神社の………」




「桜花神社の夏祭り?」

「ちょうど君の誕生日だ。君は行かないのかい?」

「もちろん行かないわ」

「……なんで怒ってるんだい?」


 いつになくつんとした玲子の物言いが引っ掛かって、ルカはつい尋ねた。


「別に怒ってなどいないのだけれど……私は人混みは嫌いだもの。お父さまは付き合いで顔を出すそうだけれど」

「……ああ、それが不満なんだね、君は」


 夏祭りの話題を出して不機嫌になったのはこのせいか。つまり、せっかくの誕生日の夜を父親と過ごせないからだ。相変わらずだ、とルカは苦笑して食後のコーヒーを一口すすった。電話越しの玲子は何も答えない。


 最初から玲子は行かないとわかっていた。夏祭りを話題に出してみたのは、つい先ほど香苗に一緒に行かないかと誘われたことがまだ頭に残っていたためだ――ちょうどその日に海外から賓客を招く予定のルカは残念ながら断らざるを得なかったのだが。もし玲子が行くとなればその姿を遠目に見るためだけにも無理に都合をつけないでもなかったが、行かないというならもう未練はない。


「ところで何かあって?姫さまのお力は戻ったの?」


 いつもの玲子の声に、ルカはグラス一杯ほどの冷たい水を浴びせられたような気がした。


「いや、まだ戻ってはないんだが……」


 なるべく自然に言葉を運ぼうと思ったのにうまくいかないものだとルカは胸中溜息をつく。こうなってはこちらも冷水を浴びせ返すしかないのだ。不本意とはいえ。


「……玲子、今から話すことはあまり君にとって愉快な話ではないと思う」

「構わないわ、話して」


 玲子の声に臆するところはない。


「仕方ないな……玲子、君は結城司と接触しただろう。しかも、私たちにはそのことを知らせなかった」

「……えぇ」


 所在なく空のコーヒーカップをもてあそんでいる手をルカは恥じて、膝の上に置いた。玲子はまだ平静なようだ。自分ばかりが緊張していてどうする。


「その件で姫さまは大いにお怒りだよ。なぜ結城司を巻き込むのかと。彼は私たちのように戦っているわけではないのだから、前世の記憶など思い出させてほしくなかったのに、とこういう訳だ。申し開きがあったら伝えるけれど」

「ないわ」


 玲子のごく簡潔な回答に、ルカは拍子抜けした。


「……では、ただ謝罪すると?」

「いいえ、謝罪もしないわ。今は必要ないように見えるかもしれない。でもいずれは必要なことだったんですもの。漆を倒すためには必ず――遠い目で見れば、私は誤ったことをしていない。ただ、姫さまのお心を不快にさせてしまったということが悔やまれるけれども……」

「不快にしたなんてものじゃない。ひどく泣いていたぞ、舞は」


 玲子の唇が知らぬ人の名前を聞いたときのように、ゆっくりと舞の名をつぶやくのが聞こえた気がした。きっと玲子の唇は形だけでその名をなぞったのだろう。玲子がつぶやいた「舞」を引き受けるようにして、ルカは言葉を続ける。


「舞は単に結城司を憐れんでいるんじゃない。舞自身も苦しんでいる、結城司が苦しんでいる姿を見て。もうこれ以上は結城司を苦しめないでほしいと、舞はそう言った。何も今度のことだけを言ってるんじゃない。四月十二日のことも、結城司が別人に豹変してしまったことも含めてだ。もう二度と結城司に近づかないでくれと、君に、玲子さんに、そう伝えてほしいと言ったんだ……舞は」


 なぜこんなにも熱をこめて話しているのだろう。玲子を責めたかったわけではないのに。どうすれば玲子を傷つけずにいられるかをこの三日間、ずっと考えていたはずなのに。結局自分は玲子を咎めるような話し方をしているではないか……


 謝ろうとするとき、舌が痺れた―― 一抹のためらい――乾いた舌先をそっとしまいこんで、玲子の返事を待つ。玲子はひたすらに押し黙っている。その感情の音楽はルカの鋭敏な耳を以ってしても聴きとることはできなかったが、たとえ玲子が目の前にいたとして、彼女の表情はこの沈黙以上のものを語らなかったことは確かだろう。それでもルカは期待したかった。反省か、後悔か、悲しみか、もしくはそれ以外の感情が玲子の胸に波のように迫り来て、その心を洗い、小さな貝殻のような、たったひとつの、もっとも真実なる言葉が現れるのを。


 だが、「そう」というのが待ちに待った玲子の返事であった。


「……話はそれだけ?」

「いつもそうやって逃げるのは卑怯だ」


 言葉の辛辣さとはうらはらに、ルカの言葉には深い哀感が込められていた。


「それだけとしか言いようがないじゃないか、私は。だが、玲子、君が『それだけ』と称する物事は私たちにとってはあまりに重く大きな問題なんだよ。君が私たちよりはるか遠くを見据えているのは知っているが……」

「いいえ、そんなことはないのよ」


 貝殻だ、と思ってルカははっとする。


「私はそんなに遠くを見ていないわ。むしろあなたたちよりずっと……いいえ、こんな話はやめましょう。ルカ、を傷つけたのは不本意だわ、本当に。でも、私は朱雀の生まれ変わりとして、漆を永遠に封印するために必要なことをやり遂げなくてはならないと思っているわ。全てが終わるまでなにひとつとして躊躇も後悔もしないつもりよ。たとえ姫さまに恨まれてもね」

「……君が言いかけたことはなんとなくわかる気がするよ」


 そんな風に言う時、初めて玲子に対して残酷な気持ちを抱いた気がした。メイドが注いでくれたばかりのコーヒーの湯気が、冷えた頬に濡れた指先で触れていくとき。が、それと同時にコーヒーの香りがルカの唇をゆるませもする。


「それでもとにかく八月二十日は君の誕生日だ。なにか素敵なことが君にあるといいね」


 受話器の向こうで、玲子も微笑んだような気がした。


「そんなことを願う資格、私にないわ」

「だから私が願うのさ」


 ルカはそれきり電話を切った。



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