第三話 贖罪

3-1 「もうこれ以上、結城君を苦しめるのはやめて!!」

「なにこの猫」


 クラス劇の稽古からようやく解放され、無事家に辿りついたゆかりは疲れ切ったゆえの錯覚かと思いつつ目をこする。しかし、ソファの前に正座する父親と、ソファの上に鎮座する見知らぬ猫という奇妙な光景はどうやら実在するようだった。猫は青い目でゆかりを一瞥したが、すぐに興味を失ったようにふいっと顔をそむけた。体格は小柄だが、人間様を床に座らせて悠然と構えているうえに、見知らぬ人々に囲まれて少しも物怖じしないところをみると、大した猫である。


 母親がキッチンからちょこんと顔を出した。


「あら、おかえりゆかり」

「ただいま!それよりこの猫、なに?」

「ああ、なんでも舞になついてついてきたそうだ」


娘の方を振り向きもせずに父親が答える。


「はあ?ディズニープリンセスかあいつは……」

「しかし、きれいな猫だなぁ。野良猫とはとても思えん」

「それは私が洗ったからです!まったく、舞も、お父さんも。明日朝一でその子を病院に連れていく身にもなってほしいわ……命名権は私がもらいますからね!」

「えっなに、この猫飼うの?」

「当たり前だ!一度京野家の敷居をまたいだからには、寒空の下に放り出すことなどできない!」


 ようやく娘の方を振り返り力説する父親に、ゆかりは肩をすくめて溜息をつく。


「ほんとうに動物好きなんだから……」

「ゆかり、早く着替えて手を洗ってらっしゃい。もうご飯にするわよ」

「はいはいっと」


 父親がそろそろと伸ばした手に、白猫が容赦なく猫パンチをお見舞いする光景を後目に、ゆかりは階段を駆けのぼった。そういえば、舞のやつはどうしてるんだろう?つれこんだ猫もほったらかして、案外冷たいやつだ。


 舞の部屋の扉の前を通り過ぎるとき、舞の声がかすかに聞こえてきた。「もしもし……舞です」。その声の暗さにゆかりは少し驚いた。呪いの電話か!と内心つぶやきつつ、ゆかりは空きっ腹をハンバーグ(においから察するに今晩のメニューはそうだろう)で満たすべく、まずは着替えを急ぐことにした。


「私のたったひとつの恋は、たったひとつの憎しみから生まれたのね」


 『ロミオとジュリエット』第一幕より――稽古したセリフをつぶやいてみて、ゆかりは気づく。


「これ、香苗かなえのセリフだ……」




「舞?一体どうしたんだ、急に」


 ルカの声は明るかった。舞の声音の暗さにも気がつかないのだろうか。やっぱりこの人は何も知らないんだろう、と舞は思う。司に前世のことを語ったのは、すべてあの人の独断なのだ……どうして?どうしてあんなことをしたの?苦しむことを知っていて、どうして司に記憶を思い出させてしまったの?知らなければ幸せでいられたのに。


 幸せ……


「……舞?」


 黙り込んでいる舞に不審を抱いてか、ルカの声色が変わった。舞は片手に携帯電話を持ち、うつむいてベッドに腰を下ろしている。左大臣がその傍らに立ち、心配そうに舞を見上げていた。先ほど舞は今日の出来事を左大臣に話した。左大臣は狼狽しつつも、朱雀の行動をあれこれと理由を推測して必死に弁明したが、舞の胸にはついに届かなかった。自分がどうするべきだと思っているかを伝えた時、左大臣は遠慮がちに止めようとした。だが、無駄だった。舞は今、自分がするべきことをしていた。京姫としてではなく、京野舞として。ひとりの少年を想う、ひとりの少女として。


「どうした?何か悲しいことでもあったか?私でよければ……」

「……玲子さんに伝えてほしいことがあるんです」


 玲子の名が出た瞬間、ルカが息をのむのがわかった。


「なぜ、その名を……」


 ルカの声はかすれている。


「なぜ、君がその名前を……」

「私、今日、結城君に会ったんです。結城君は前世の記憶を思い出していました。六条紫蘭としての……どうしてかわかりますか、ルカさん?」


 いつになく自分の声が硬くて低い。まるで他人の声みたいだと舞は思う。別にこんな声で話さなくてもいいのにな。私はただいつになくすごく真面目で、いつになくすごく怒っていて、悲しくて……


 ルカはしばらく黙したのち、力ない声でつぶやくように言った。


「……玲子か」

「はい、玲子さんが結城君に話したからなんです」


 テディベアの黒いぼたんの瞳にわななきだす舞の白い拳が映り込む。


「姫さま……」

「どうして……どうしてなの……?どうして結城君が、前世のことを思い出さなきゃいけないの?」

「舞、それは……」

「結城君は関係ないじゃないっ!私たちみたいに漆と戦ってるわけでもない。前世のこと思い出す必要なんて全然なかった。なのに……結城君の前世がどれだけ辛いものだったか、みんな知ってるよね?それを思い出させるなんて……!」

「舞、玲子はきっと君のことを思って……」

「じゃあなんで勝手に話したりするの?!私のことを思ってなんて、そんなのやめて!そんなの卑怯じゃない!……ぜんぜん…ぜんぜん、ちがうよ……私は、結城君に苦しんでほしいわけじゃないのに。結城君、言ってたの。僕はいまだに許されていないのか、って…………ひどいよ……っ!」


 最後の言葉が震え出す。まるでルカが目の前に立っているかのごとく真正面の壁を見据えている瞳いっぱいに、翡翠の光があふれ出す。結城君、結城君、結城君……!罪深いのは私の方なのに、私の方が平然と生きているなんて!この感情を憐れみとは呼びたくない。結城君のことをかわいそうだなんて思っていない。思いたくない。司が苦しんでいることが、私には苦しい。本当にそれだけだから。


 舞はもう涙も嗚咽も止めようとしなかった。左大臣が小さな両手を舞の右手の甲に寄せた。


「ルカさん、お願い……玲子さんに伝えて。もう結城君を苦しめないで……!司が変わっちゃった理由なんて、もうどうでもいいんだ、私。玲子さんが何をしたかなんて知らない。知りたくない!とにかく結城君に近づかないで!そっとして!もうこれ以上、結城君を苦しめるのはやめて!!」

「舞……」


 まるで刑吏に手を遠のけようとするものが悲鳴をあげるがごとく叫ぶ舞に、ルカは言葉を失ったようであった。舞はすぐにそれに気がついて、嗚咽の合間に鼻をすすった。


「ごめんなさい、こんなこと頼んだりして……」

「いや、いいんだ。しかしね、舞……」

「ねぇ、ルカさん。私、どうすればいいのかなぁ……朱雀と会えるの、ずっと楽しみにしてたの。朱雀のこと大好きだった。でもね、今の私は玲子さんのこと、とても許せそうにない……」


 長い苦しげな沈黙に「さよなら」と小声で告げた。一方的に電話を切ったあとで、舞は勢いよくベッドに身を投げ出し、枕に顔を突っ伏した。冷静に話そうと思ったのに感情的になってしまった――私って最悪だ。あんなものの言い方をして、別にルカさんが悪いわけではないのに。


 自分が嫌いだ。泣いたって今更どうにもならないことは知っている。司の記憶が消えるわけではない。京姫や紫蘭の罪が消えるわけではない。そうだ、消えるわけではない。だからこそ、今もなお忘れることができないのだ、舞も司も。四神たちも。


 ゆかりが「夕飯できたってよ」と扉越しに叫んだが、舞は顔を上げられないでいた。この顔で階下に降りていったらみんなにびっくりされてしまう。もう嫌だ。幸せだと思っていた。美味しいご飯を食べられて、好きなところへ行けて、大好きなみんなに囲まれて。そうだ、前世にくらべれば現世はずっと幸せだ。それでも、私は大好きな人たちを傷つけてしまう……


「左大臣……」


 左大臣は何も言わずにそばにいてくれる。見えなくとも、舞には左大臣が枕元に立っているのがわかった。


「私、なんのために生まれ変わったのかな?」

「なんのために、と申しますと……」


 舞はようやく涙に濡れて熱い顔を上げた。


「私、なんにもできない……結城君が苦しんでるっていうのになにもしてあげられない。京姫の生まれ変わりだからって、それがなんだっていうの?」


 枕の下に手を入れる。火照った指先にシーツの冷たい感触が心地よい。


「……おまけに今は変身もできない、戦うこともできない。私、何の役にも立ってない。これじゃあ生まれ変わった意味なんてないよ……」


 左大臣はうつむいたままじっと黙っていた。きっと返答に困り果てているのだろう。当たり前だ。なんて言われれば気が済むのか、自分にもわからないほどだもの。


 舞はゆっくりと身を起こし、指で涙を拭った。仕方ない。顔を洗って夕飯を食べにいこう。あんまり遅いとお母さんがまた心配するから。ところで、猫ちゃんは大丈夫かな……お父さんが変なちょっかいをかけてないといいけれど。


「ごめんね左大臣、もう気にしないで。私は大丈夫だから。ただびっくりしたの。結城君が記憶を思い出してたから……」

「姫さまはまず許していただく必要がありますな」


 立ち上がった背中に左大臣のしわがれ声が放たれる。舞は当惑しつつ振り向いた。


「許してもらう……?」

「左様です」

「みんなに、ってこと?」


 いえいえ、と左大臣は舞を見ぬままに首を振った。


「じゃあ、誰に……」

「姫さまご自身に、です」


 舞は目を瞬かせた。


「私、自身……?」



「舞、いつまで電話してるのー?」

 母親が呼ぶ声が響いてくる。



「私自身に許してもらうって、どういう意味なの?」

「いえ、単純なことでございます。姫さまが前世の京姫の罪をお赦しになるということです」

「そんなこと……!」



「早く来ないとハンバーグ、猫にとられるぞー!」

 父親の脅迫に「今いく!」と返事をして、舞は左大臣に向き直る。



「そんなことできないよ!だって、私のせいで京が……」

「姫さまは結城殿が苦しんでいるのを見るのがお辛いのではありませんでしたかな?」


 それはそうだけど、と、わけのわからないながらに舞はうなずく。


「でもそれと何の関係が……」

「同じなのですぞ、私どもも。姫さまが前世のことでお苦しみになっているのを拝見するのは、大変辛いのです」


 いまや左大臣は舞をまっすぐに見据えている。舞に見えるのはテディベアの顔だ。しかし、舞には老翁の顔が重なって見える。その瞳が苦しげに揺らぐのが見える。舞ははっとした。



「もうご自分を責めるのはやめなされ。いや、やめてくだされ、姫さま」

「左大臣……」

「きっと天つ乙女さま、桜乙女さまも同じお思いなのでございましょう。それゆえに今は姫さまにお力を貸してくださらないのです。天つ乙女さまは、姫さまが迷いなくそのお力をお使いになることをお望みなのです。京姫の力を信じ、天つ乙女さまの力を信じ、そして前世からのえにしを信じて」


 そんなこと言われても……舞は口ごもる。京姫の罪は簡単に許すことができそうにない。前世のことを認められそうにない。もちろん、四神のみんなや左大臣とまた会えたことは嬉しいけれど……


 再び階下で呼ぶ声がして、舞は寝室の扉へと行きかけた。が、ドアノブに手をかけた舞は、右頬だけでテディベアを顧みてこう言った。


「ありがとう左大臣……私を許してくれて」

「姫さまに振り回されるのは慣れておりますからな」


 左大臣の返答に、舞はちょっとだけ笑った。そして階下へ降りていく。その表情がまた曇る。


(でも、結城君はこんな風に誰かに許してもらえないんだ。私たち、生まれ変わって再会なんてしなきゃよかったんだ……) 

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