35.金持ち喧嘩せず
幸田 悟(こうだ さとる)は公立学校に通う不良だ。貧しい家庭に生まれ、170センチの50キロと、体格にも恵まれていない。しかし一度始めたケンカを絶対に辞めない根性と執念、いくら殴られても倒れないタフさ。そしてド派手に赤で染めた髪と、両耳につけた純金のピアス(横柄な態度を取っていたチンピラから奪った。彼はこれをつけることで、「アイツをやったのはオレだ」とアピールしていた)も注目を集めた。そして徒党を組むことを嫌い、盗みや恐喝、弱い者イジメを憎んだ。「ケンカ相手は自分より強いヤツだけ」という奇妙なルールも持っていた。こうした独特な気質から、不良だけではなく、真面目な高校生にも顔と名前が知れ渡っていた。
伊崎 慎太(いざき しんた)は高偏差値の私立学校に通い、185センチの80キロと体格がよく、学年成績首位でバスケ部主将、白い学ランのホックまで律義に止める優等生だった。また彼はロシア人の祖父を持つクォーターであり、髪の毛は茶色で、瞳が青かった。校則違反だったが、それを咎める者は1人もいなかった。彼は誰よりも優しく、真面目で、ついでに父親が日本有数の大企業の社長だ。教員で彼に文句をつける者はいなかった。
しかし、街の不良は別である。金髪で(学校指定なのだが)白ランを着たヤツなんて「気取ってる」以外の何者でもない。おまけに慎太は金持ちだ。倒すのは大変だが、仕留めれば多くの金をドロップするレア・モンスターだと認識されていた。
ある日、どこぞのバカたちが徒党を組んで慎太を襲った。このことが正反対の2人が出会うキッカケとなった。
「どっかの学校のヤツが、川の橋の下でボコボコにされてたぜ」友人からそう聞いた悟は、15分後に「卑怯なことしてんじゃねーぞ!」と喧嘩に突撃し、16分後にはうずくまっていた慎太を立たせ、17分後には
「大丈夫か」
「ええ、何とか」
「あとは任せろ」
「大丈夫、手伝います」
「バーカ、これくらいならオレ一人でやれるわ」
「あなたを心配しているわけじゃない。単純に僕が、やられっぱなしじゃ納得できないだけです」
「なるほど、そりゃそうだわな」
「いいですね?」
「おう。好きなだけ暴れな」
そうして18分後には、相手を全員失神させた。
「助けてくれてありがとう」
「礼はいらねーよ」
「ところで、あなたの名前は?」
「幸田 悟」
「えっ、あの有名な……言われてみると髪が赤いし、ピアスも金だ」
「オレを知ってるの?」
「このへんで知らない人間はいないでしょう。どうりで強いわけだ」
「そーいうお前も強いじゃん。オレと同じくらいだと思うぜ」
「そんなことありませんよ」
「ははは、謙遜すんな。それじゃ、またな~」
「待ってください。助けてくれた、お礼をさせてほしい」
その日、慎太は悟を家に招いた。互いのケガを治療し、慎太は悟の一か月のバイト代に相当するくらいの夕食をご馳走した。この日から2人は何となくつるむようになった。2人は育った環境こそ正反対だったが、価値観や美学の部分が鍵と鍵穴のようにピタリとハマった。やがて、
「悟。僕は君が好きだ。友だちじゃなくて、恋人になってほしい」
「マジか、お前」
「もちろん無理強いはしません。君が望むなら、友だちをやめてもいい。でも、この気持ちだけは……伝えておきたかったんです。ワガママかもしれませんが、もう我慢できないし、したくない……!」
「バーカ」
「え?」
「何がワガママだよ。謙虚つーか、なんつーか、くだらねー。オレは今……むしろムカついてる。先を越されたから」
「先?」
「オレも好きだ。先に告白したかったのに、ちくしょう」
「悟、本気ですか?」
「本気だよ。じゃ、こっちは先にさせてもらうぜ?」
悟は慎太にキスをして、2人は付き合い始めた。
2人が恋人になってから半年が経った。
初体験も済ませ、互いの家に入り浸ることも普通になった。親も事情を察し、許してくれた。万事快調、何の問題もなく関係は続いているように思えたのだが……。
その日、慎太は悟の家に転がり込んで、2人で『将太の寿司』を読んでいた。そして悟が何回読んでも面白いなぁと思っていると、
「悟……実は一つだけ、お願いがあるんです」
慎太が言った。
妙だな、と悟は思った。
声がマジだ。『将太の寿司』を読んでいる人間の声じゃない。
案の定、慎太は『将太の寿司』を本棚に戻していた。
「ごめん、悟」
「何だよ? 退屈かもしんないけど、うちに『将太の寿司』以外の本はねぇぞ」
「それは別にいいんです」
「だったら何だよ?」
「悟、最初に謝っておきます。これは確実に君の気分を害するし、最低の提案だってことは重々承知です。それでも言っておきたいんです」
「告白された時より重いな。もったいつけて、何だよ」
「……僕の趣味に付き合ってほしいんです」
「あ?」
「僕の趣味です。そのっ……アレな意味での」
「アレな意味」……その言葉を悟は反芻する。『アレ』じゃ意味が分からない。けれど、これは『アレ』が何かを察してくれという意味だろう。つまり口に出すのが憚られるようなこと、もっと分かり易く言えば
「つまり、エロいことか?」
「……近い」
悟は身構えた。いつかこういう日が来ると思っていたからだ。
誰にだって秘密がある。特殊な性癖を持っている場合もある。それは悟とて同様だ。ちょっと変わったエロに興味がゼロかと言えば……嘘になる。
『将太の寿司』全巻セットに加え、重苦しい沈黙が部屋にごろんと鎮座した。この沈黙を破るのには勇気がいったが、強い相手とのケンカこそが悟の喜び。相手にとって不足なしだ。
「で、何がしたいんだ? さすがに何でもとは言えねーけど、ある程度のことなら付き合うぞ。そ、外とかなら、ギリOKだと思ってくれ」
「悟、実は……本当に最低なんですけど、叩きたいんです。君を」
出た、SMだ。しかもS側。ということは、こちらはM側になる。
「マジか。そういう趣味あったんだ。初めて知った」
「当たり前です。こんな話、初めて他人にしました。今まで出来る人間は、傍に1人もいませんでしたから」
ずっと胸の内に秘めていたのか。いつも輝いている青い瞳が、憂いを帯びている。
悟は思った。
すでに散々頭を下げられている。それにガキの頃から殴られるのにも慣れている。少し痛いのくらい、我慢してやろう。受け入れてやろう。
「べ、別にフツーじゃね? それくらいならオレ、全然付き合うぜ。まぁ、度を超えるのは勘弁だけどな。で、鞭とかあるわけ?」
「違うんです。叩きたいのは、これでなんです!」
そう言うと慎太が白ランの内ポケットに手を突っ込む。
「これは……!」
「そう、札束です! 僕はコレで君を叩きたいんです!」
「歪みすぎだろ」
率直な感想が口をついてしまった。
札束で人を叩きたいって、どういう趣味だ? まだ鞭や蝋燭の方が分かるぞ。
疑問は費えないが、しかし、とりあえず――。
「ちなみに何処を叩くの?」
「ほっぺ」
「最低の画になるぞ」
「分かってます。さっきから散々言ってますけど、こんなの最低だって分かってるんですっよ。だけど、どうしても叩きたいんです」
「待て待て。何がお前をそうさせるんだ?」
「子どもの頃、そういうシーンをテレビドラマで見たんです。それで父さんの机にあった札束で真似して、弟のほっぺを札束で叩くごっこをしたんです」
「嫌なごっこ遊びだな」
「そしたら父さんに死ぬほど怒られました」
「真っ当なお父さんで良かった」
「でも、それがずっと胸の奥に引っかかって」
「あ~、子どもの頃に我慢させられたから、その分だけ逆に高まっちゃうやつね」
「そう、それ」
「『そう、それ』じゃないんだよ」
「で、どうですか?」
「『で、どうですか?』じゃないんだよ。事情は分かったけどさ」
気持ちは分かる。それに札束で叩かれるくらいなら、痛み的にも全然平気だ。
「分かった。いいよ」
「……はは、ははは! 本当にありがとう! 泣きそうだよ!」
「そんなことで泣かれたくねぇよ」
「それじゃ……」
「実行に移すのが早いな」
慎太は札束を構える。
叩かれる側の悟も構え、振り上げられた札束を見る。けっこうな厚さだ。たぶん100万円くらいあるだろう。100万……ごくっ。
悟が唾を飲むと同時に、
ペシン。
札束が悟の頬を叩いた。
そして往復でもう一度、
ペシン。
慎太が振るう札束が二度、悟の頬を叩いた。往復ビンタだ。
過ぎ去った100万円の往復ビンタ。しかし、悟は驚くほど何の感想も抱けなかった。紙の束で軽く頬を叩かれた。全く痛くないし、相手は恋人だし、そういう行為をしても良いと事前に散々了承済みだ。特にこれといった感想は無い。強いて言うなら、
「何これ?」
疑問を口にしたが、一方の慎太は全身を震わせ、満面の笑顔で泣いていた。
「やっと、やっと……夢が叶い……夢が叶いました!」
「そんなにか!?」
「だって、子どもの頃からの夢だったんですよ!?」
「もうちょっとマトモな夢を持て」
「よかった、君と恋人になれて、本当に良かった。心からそう思うよ」
「もっと他のことで思ってもらいたかったけどな」
「でも、君にだってあるだろう? こういうの」
「いきなりボールをこっちに投げるな。そりゃ、あるっちゃあるけどよ……」
「遠慮しないで言ってください。僕だって何でも聞きます」
「……ホントか?」
「もちろん。約束します」
「じゃ、その札束をバラして、ベッドにバラまけ。その上でヤリたい。ほら、よくラッパーとかがPVでやってんじゃん。あれみたいな――」
と言ったところで、悟は慎太の顔面の変化に気がついた。
こいつ、ドン引きしてやがる。
「ちょっと悪趣味すぎじゃありません?」
「今だけは言われたくねぇよ」
思わず悟は慎太をはたく。
その一発に動かされたのか、とりあえず慎太は悟の願望を叶えてくれた。
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