01.氷の少女









「……なさい! 起きなさい! もう朝よ! 秋!」


 青年――――秋は、聞き慣れた女性の声で目を覚ました。

 ゆっくりと目を開ければ、目の前には呆れた表情を浮かべる女性――――母が立っている。


「やっと起きた。珍しいわね貴方が寝坊なんて。朝食の準備は出来てるから早く降りて来なさい。遅刻なんて三年生のこの時期にしたくないでしょ」


 呆然とする秋にそれだけ伝え、母は部屋から出て行った。残された秋は跳ねるように飛び起きると周囲を見渡し、最期に自分の体を見た。


(俺は確か…………アイツに…………夢、だったのか?)


 体には傷一つ、存在してはいなかった。

 自分の足が――――確かにある。食い千切られた喉も何ら違和感は無く、いつも通りに声が出せる。服装も昨日遊びに出掛けた時のものではなく、日頃から着用している寝間着となっていた。


(クソッ……思い出せない…………)


 必死に秋は昨夜のことを思い出そうとする。ここまで不可思議なことが起きている以上、何かがあったことは明白だ。けれども思い浮かぶのは、帰路につく自分と、何者か分からない男に殺される自分、そして――――


「そうだ、あの時の」


 思い出す。あの時、死に行く自分の最期に居合わせた誰か。

 その何者かが自分を助け、ここに連れてきたのか。


(いや――――)


 違うと、秋は首を振る。


 あの場で秋を助けられるのは、確かにあの時に居合わせた誰かだけ。しかし助けることは出来たとして、自分がここに居るのは何故か。


 助けられたとしても直ぐに目を覚ませるほどの怪我ではない。何せ足をもがれ、喉を噛み千切られたのだ。今も尚、治療を受けていてもおかしくない。だというのに母が、いつも通り接してくる訳がない。


 だが、秋はここに居た。自分の家の、自分の部屋で、夜を乗り越えて普通の朝を迎えた。

 傷一つ、負っていない状態で。


「どうしてだ…………」


 頭を抱えて考える。

 もしかしてあれは、悪い夢だったのかもしれない。昨日は疲れていて記憶が無いだけで、無事に帰ってきて眠りに就いた。それならば、母が何も言わないことも、怪我をしていないことも、全てが納得がいく。


 だとしたら自分は夢の中の出来事かもしれないことに悩み、悶ているのか。


「…………クソッ」


 夢と現の区別もつかないことがもどかしく、秋は強く枕を殴り付ける。

 結局、ギリギリまで考えたものの――――答えが出ることはなかった。









※※※※※※※※









「はぁ…………」


 昼休み。力無く秋は机に突っ伏していた。

 当然の如く悩みは昨晩のこと。登校してから今まで、授業に耳を傾けることなど忘れてずっと考え続けていた。


 とはいえ、答えなど出る訳もなく、ただただ疲労し、気が付けば昼休みを迎えていたのが現状だ。登校してからずっとこんな調子だからか、いつもは秋を昼食に誘いに来る面子も既にさっさと昼食を買いに行ってしまった。


(……答えも出ないし、腹も減ったし、いい加減に飯食いに行くか……)


 こうして机に突っ伏し、ひたすら考えても答えは出て来ない。取り敢えず昼食を食べて、少し頭をスッキリさせよう。そう思い、秋は椅子から立ち上がった。


 すると、何やら教室が騒がしいことに気付く。秋は近くに居た男子に理由を訊いた。


「どうしたんだ?」

「氷室蓮華が来たんだよ。だから男連中が大盛り上がりだ」

「お前も男だろ……ってマジか? あの氷室蓮華が?」

「ああマジだし、あの氷室蓮華だ。ほれ見てみろ」


 言いながら男子が廊下を指差す。視線を向ければ、確かにそこに噂の人物――――氷室蓮華が居た。


 長く、長く伸ばされた黒髪に同色の鋭い瞳を携えた少女――――氷室蓮華。この学校では、中々に有名な人物だった。


 しかし、頭が良いとか、運動が出来るから有名という訳ではない。彼女の場合は、単純にその美貌が原因だった。


 彼女は同年代とは思えない美しさを持っていたのだ。冷たく無機質な、だがそれでいて確かに人である、まさしく理想的な彼女の美貌は入学後、瞬く間に多くの男を虜にした。


 噂では生徒だけでなく教師すら彼女に告白したらしいが、別に興味が無かった秋は真偽のほどは聞いていない。だが彼女の美しさを見ると、噂は確かなような気がした。それだけ、彼女は美しかった。


 秋のクラスを訪れた蓮華を、多くの人が見詰めている。彼女は興味が無いのか無言でクラスを見渡し――――秋と目が合った。


(ッ…………!)


 瞬間、秋は悪寒に身を震わせた。恐怖の感情がじわりじわりと込み上げてくる。自然と秋は後退っていた。蓮華から逃れる為に。


 当の蓮華は秋の姿を見付けると、他の誰にも目をくれず、彼の下へと歩いて行く。秋は更に後退るが、多くの生徒がこちらを見詰める中、逃げ出すことは出来なかった。


「……月宮秋?」

「…………そうだけど……何の用だ?」

「私は貴方に興味がある。今から一緒にお昼ご飯を食べよう」

「は?」


 その申し出は、全くと言っていいほど予想外のものだった。まさか、何の接点もない彼女から昼食を誘われるとは。

 色めき立つ教室の喧騒を無視して、秋は蓮華へと問い掛ける。


「俺は君と会ったことも話したこともない筈だけど?」

「それはその通り。でも貴方が知らない所で、私が貴方のことを知ることもある。それが切っ掛けでは――――駄目?」

「駄目じゃない。でも、そんな理由でこうして誘いに来るか?」

「どういう意味? 私は貴方に興味を持った。だから来た。それだけ」


 蓮華の言葉は冷たい。それは拒絶する冷たさではなく、無感情故の冷たさだ。


(なんだ…………どこか、ズレている?) 


 秋が短い会話の中で抱いた思いは、間違いではなかった。

 事実、氷室蓮華という少女は、ズレた少女だった。彼女がその美貌から幾人もの男に告白されても、誰とも浮いた話が無いのはその為だ。


 誰も彼もが、彼女の抱えるズレに気が付く。言葉を交わせば交わすほど、彼女が普通ではないことに。だから、誰もが彼女の下を去って行く。


 しかし、当の蓮華はそのことを何ら問題視していなかった。――――否。彼女には、そんな些細なことを問題視する心はなかったと、言うべきだろう。


 故に彼女は常に独り。

 誰とも交われず、孤高の人として君臨していた。


 ――――月宮秋に自ら声を掛けるまでは。


「…………」


 秋は彼女の抱える孤独を知らない。彼が知っているのは蓮華のズレ、だけだ。

 チラリと、秋は蓮華の顔を見る。美しい少女は無言で秋の答えを待っていた。


「……わかった。行こう」


 何を考えているのか、それは分からない。だがしかし、何故か秋には蓮華の言葉が悪意のあるものだとは思えなかった。


「ありがとう」

「それで、どこで食べる気なんだ? ついでに言うと俺は今、何も持ってない」

「この場でいい。それに貴方の分も買ってきてある」

「マジか。悪いな後で払う」


 蓮華はコクリと頷き、近くの椅子に腰を下ろした。そのまま手に持っていた物を手渡してくる。


「これは……」

「コッペパン」


 彼女が差し出したのはコッペパンだった。それも購買で売っている美味いとも不味いとも言えない微妙な味が特徴の物だ。


「……なんか一緒に貰わなかったか?」


 コッペパンを買うとマーガリンかジャムが貰える。そのままだと味気無いからだ。しかし蓮華は首を横に振った。


「貰ってない。私はこのままが好きだから」

「そうか…………」


 流石に貰った物にケチを付けられる筈もなく、秋は渋々コッペパンをそのまま口に運んだ。美味いとも、不味いとも言えない微妙な味。かつて入学して直ぐの時に一回食べて以来の味だった。とはいえ、その時はジャムがあったので、今と比べると多少はマシだったが。


「それで、ご飯一緒に食べるだけなのか?」


 秋の問い掛けに、蓮華はまたしても首を横に振るった。わざわざ昼食を買ってくることまでしたのだ。ご飯を一緒に食べ、はいお終いとはいかないだろうと秋は思っていた。


「貴方の家族について教えて」


 だが、その問いは、昼食の申し出以上に予想外のものだった。

 思わずコッペパンを食べる手を止めてしまうほどに。


「…………どうしてそんなことを訊くんだ」

「言った。私は貴方に興味があるって。私は貴方の全てを知りたい。だから訊く」

「俺は君に興味を持たれる様なことをした覚えはないぞ?」

「それを決めるのは私。貴方じゃない」

「なら教えてくれ。どのタイミングで興味を持ったんだ?」

「乙女の秘密」


 口に人差し指を当て、蓮華は回答を拒む。

 こうなると彼女は決して秋に興味を持ったタイミングを口にしないだろう。これまでの短い会話の中で、秋は蓮華の特徴を把握しつつあった。


 氷室蓮華はズレている。唐突に来て一緒に昼食に誘うことも、コッペパンをそのまま食べることも、理由を明かさないことも、全て彼女のズレによるものだ。


 このズレに多くの人が幻滅し、彼女を恋い焦がれることを止めた。彼女は、なるべくして孤独となった。


 しかし秋からすれば別に気にするほどの事でもなかった。それは、元から氷室蓮華という少女に対して幻想を抱いていなかったのが大きな要因だろう。


 人はどうしても他人に幻想を見る。この人は、こうだ。あの人は、こんなタイプだ。そうした幻想はいつしか本人にとっての『その人』となり、実際に出会ったとき、抱いた幻想が真実かどうか分かる。


 大抵の場合は真実だろう。結局、人の在り方は偽れないのだ。


 氷室蓮華の場合は、そこにズレがあった。基準を大きく超越した美貌から、多くの人は彼女に共通の認識を抱いただろう。そうした認識が『氷室蓮華』という幻想を創り出し、皆にとっての氷室蓮華となった。


 だがしかし、当の彼女は見た目に反してズレた思考をしている。その普通からズレた思考は、普通以上に他人の認識する氷室蓮華を大きく乖離させる。


 通常からのズレと、幻想からのズレ。これら二つのズレが彼女を孤独にし、いつしか幻想の『氷室蓮華』が彼女となった。そしてまた、肥大化した幻想と現実のズレから蓮華は孤独となっていく。――――悪循環だった。


 救いだったのは、蓮華はそうした周りを何とも思わない性格だったこと。そして、月宮秋は『氷室蓮華』という幻想を抱かないほど、彼女に興味が無かったことだった。


 だからこそ、ズレすらもありのままの蓮華として、秋は納得した。家族についての質問も、秋に興味を持った切っ掛けを話さないことも、彼女なら、と思うことで。


「父さんと母さん、それに俺の三人家族だよ。父さんは普通のサラリーマン、母さんも働きに出てる。共働きってやつだ」

「……普通」

「仰る通り」


 直球な言葉に思わず秋は苦笑する。


「でも良い家族。きっと」


 そう言った蓮華は、無表情ではなかった。

 どこか悲しげな微笑を浮かべていた。


「ああ、良い家族だ」


 残ったコッペパンを嚥下し、秋は頷いた。蓮華は既に食べ終えていた。


「じゃあ次の質問」


 蓮華が質問し、秋が答える。

 昼休みが終わるまで、二人はそうして言葉を交わしていた。








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