第92話 師の背中


「──よォ、トキ。元気そうだな」



 そう声を投げ掛けられた直後、トキは迷わず短剣を引き抜いた。腹の奥底から煮えくり返る憎しみを抑える事も出来ず、怨恨のおもむくままに彼の短剣が彼を貫かんと一閃いっせんする。


 トキの故郷を奪い、家族を奪った憎い男は、にんまりと口元に狂気的な笑みを描いた。トキは眼球を血走らせ、無心に剣を振り回す。恨みの篭もったその低い声が、片時も忘れた事などないその男の名を紡いだ。



「──アルマァァ!!」



 構えた短剣がくうを裂き、鈍色にびいろの切っ先がアルマに向かって何度も振り下ろされる。しかしそれは目の前の彼を捉える事無く全て空振りに終わり、代わりに重たい蹴りの一撃がトキの腹に沈み込んだ。



「っぐ……!」



 激痛と共に呼吸が止まり、彼の体は壁際に強く叩き付けられる。「トキさん!!」とセシリアが悲痛に彼の名を叫んだかたわら、リボルバーを構えたロビンは即座に地を蹴ってアルマに銃口を突き付けた。



「装填、〈黄玉トパーズ〉!」



 シリンダーが音を立てて回り、黄緑色の光を帯びた弾がカチン、と装填される。


 直後、ドォン! とけたたましい銃声が鳴り響き、黄緑色の雷撃はアルマへと直進した。ほとばしる閃光は彼を貫き、轟音ごうおんと共に火花を散らす。衝撃によって舞い上がった灰が彼を覆い隠し、ロビンは目尻を吊り上げると酒の残った頭を押さえて眉を顰めた。



「……やったか?」



 おそらく、彼の放った雷撃はアルマに直撃しただろう──と、そう考えた矢先。立ち上る灰の中からは黒い蛇の群れが飛び出し、ロビンに向かって鋭い牙を剥き出した。



「──!!」



 ロビンは目を見開き、即座にリボルバーを構える。



「装填、〈藍玉アクアマリン〉!」



 紡いだ言葉と共にシリンダーが回転し、青みを帯びた淡い光が魔銃に宿った。ロビンは自らの足元に向かってそれを撃ち込み、刹那、巻き起こった凄まじい風がその場を包むように吹きすさぶ。



「きゃあ!?」



 セシリアは悲鳴を上げ、近くの柱にしがみついた。テーブル上に並んでいた食器やグラスは吹き飛ばされ、次々と床に叩き付けられて砕け散る。

 室内の備品を大きく揺らす猛風はロビンへと迫っていた黒蛇をも容易く吹き飛ばし、アルマの周囲を覆うように舞い上がっていた灰を散らした。


 やがて楽しげに笑う彼の赤い瞳と視線が交わり、ロビンは手汗を握り込む。彼の魔弾を受けたアルマの体には、傷一つ見当たらなかった。



(……俺の魔弾が直撃して無傷かよ……。なるほど、コイツかなりやべーな……)



 つう、と伝う冷たい汗。射程圏内に居ながら余裕の笑みを崩さないアルマは、銃を構えるロビンを見つめると興味深そうに目を細めた。



「……ほーう? 魔銃士たァ珍しいな、人間の魔力が衰退したこのご時世で。反応の速さもなかなかの物だし、やるじゃねーの、青年」


「……そりゃどーも」


「さっきの玩具アレックスは簡単にバラバラになっちまって、やりがいがなかったが……こっちは、楽しくバラしてやれそうだ」



 蛇のような長い舌がこぼれ、アルマは狂気的な笑みと共に舌なめずりをした。壁際で蹴られた腹部を押さえて立ち上がったトキは忌々しげにアルマを睨み、奥歯を軋ませる。



「アルマ……ッ! テメェ……!!」


「くくっ……相変わらず威勢だけは良いなァ、トキ。しっかし、まさかお前がここまでしぶといとは思わなかったぜ。二度も崖から突き落としたってのに、まーた死に損ないやがって」



 悪運の強ェ野郎だなァ、と続けるアルマを、トキは憎しみを帯びた眼で睨み付けた。短剣を握り込み、アルマの足元に積もる灰を見つめる。──元々はアレックスの体の一部だった、その破片を。



「……テメェだけは……っ、何度死んででも、必ずこの手で殺してやる……!」


「ほう? そりゃ随分と楽しみだが……悪いなァ、トキ。今日はお前にゃ用はない」


「……!?」



 アルマの瞳が怪しく細められた刹那、床の一部の表面が黒く色付いて膨らみ、やがて破裂するように弾けるとその場所から無数の蛇が溢れ出した。



「──今日の俺が用あんのは、なんでな」



 にんまり、弧を描く口元。

 すると瞬く間に蛇は一箇所に寄せ固まり──やがて、一部の黒蛇がの脚に絡み付く。



「きゃあああ!?」


「──セシリア!?」



 トキとロビンは同時に叫んだ。トキはすぐさま蛇に囚われている彼女の元へ駆け寄り、ロビンはアルマに向けて魔銃を放つ。



「装填、〈黒玉ジェット〉──連射ぶっ放し!!」



 連続した発砲音と共に黒い弾丸が発射され、アルマへと向かって乱れ飛んだ。だがアルマは焦る様子もなく、極めて冷静に自身の指を打ち鳴らす。


 瞬間、一瞬で黒い蛇が彼の周りを取り囲み、乱射された〈黒玉ジェット〉の魔弾を打ち消してしまった。



(……っ、くっそ! 闇魔法の質は向こうの方が高い……! 無闇に乱射しても無効化されちまうか……!)



 ロビンは眉根を寄せ、苦く表情を歪める。


 その一方で、セシリアの元へと向かったトキは、短剣で彼女の脚に絡み付いた蛇を削ぎ落としていた。しかしいくら引き剥がせど、黒く盛り上がった床下からは延々と蛇が湧き続けるばかりで埒が明かない。



「チッ……コイツら、無限に増殖しやがる……!」


「トキさん……っ」


「くそ……! 待ってろよ、俺がどうにか──」


「きゃあ!?」


「!!」



 刹那、ずぶりとセシリアの足元が黒い床の中に沈み込む。無数の蛇が群がる床の中へと今にも引きずり込まれてしまいそうな状況に、トキは息を呑んだ。



「セシリア、捕まれ!」


「っ……! と、トキさっ……!」


「くそ、全然動かねえ……!」



 トキはセシリアの腕を掴み、必死に引き上げようとするが沈み込んだ体はびくともしない。アデルとステラも駆け寄って共に引っ張るが、それでも結果は同じだった。


 彼女の体はうぞうぞと這う無数の蛇に巻き取られ、次第に締め付ける力も強まって行く。



「……っう、あ……! 苦、し……」


「セシリア……っ」


「……くくく、良いだろ? それ。蟻地獄ありじごくならぬ、蛇地獄へびじごく~ってな。飲み込まれたら最後、お持ち帰り成功だ」


「っ……アルマ……!!」



 余裕綽々と顎髭をなぞるアルマを、トキは憎らしげに睨み付ける。その間にもセシリアの体は蛇に巻き取られ、彼女の体を引きちぎらんばかりに締め付けた。「うあぁ……っ」と苦鳴を漏らすセシリアは、徐々に地中へと引きずり込まれて行く。



「……っ!!」


「あーあ、苦しいねえ、可哀想に。抵抗するとどんどん締め付けられるぜ? セシリアちゃん」


「テメェ! ふざけんな!! コイツを放せ!!」


「そりゃ出来ねえ相談だなァ。妹分テディから聞いちまったんでね。──セシリアちゃんが、〈最初の涙プリミラ〉の在処を知ってるって」


「……!」



 セシリアは目を見開き、アルマの赤眼せきがんを見つめた。ややあって、彼女は蛇に締め付けられる苦痛に耐えながら声を絞り出す。



「……っ、私は……! そんなの……っ、知りません……っ」


「おーおー、嘘はついちゃダメだぜ、可愛いお嬢さん。元々はアンタの持ち物だったんじゃねェのか? コレ」


「……!?」



 きらり、節くれだつ手の中で神秘的に輝く青い宝石。見覚えのあるのそれを視界に入れ、セシリアは大きく目を見開いた。


 ──それは紛れも無く、あの日ディラシナで魔女に奪われた、彼女の“女神の涙ラクリマ”である。セシリアは一目見ただけで、すぐにそう理解出来た。



「それ……私の……!」


「……あー、やっぱりなァ。前に魔女マスターが言ってたの思い出したんだよ、『汚ねえ街で可愛い野ネズミから奪い取った』ってな。もしやと思って借りて来たが……思った通り、この〈最初の涙プリミラの欠片〉の持ち主はアンタだったってわけか、セシリアちゃん」


「……っ」


「──って事は、魔女マスターが呪いをかけたっていう“一緒に居た薄汚いコソ泥”ってのは、お前か? トキ」



 ゆっくりと、アルマの赤い双眸がトキを見下ろす。彼の首元に巻かれた藍色のストールの奥、僅かに覗くを視界に捉えたアルマは「おいおい、マジかよ」と呆れたように笑って喉を鳴らした。



「……くくっ……どこまで死に損ないなんだ? トキ。お前ほんとすげーな」


「……っ、テメェ……」


「あー、面白ェ。さっさと死んどきゃ楽だったのによ、生き延びちまって散々だなァ。同情するぜ、お前の兄貴分として」



 あざけるように見下ろす彼と視線を合わせ、トキは歯噛みして両手を強く握り込む。


 溢れ出す憎しみを抑えきれずにアルマを睨み付ければ、彼は楽しげに笑った。程なくして指を打ち鳴らし、その赤眼がロビンの姿を捉える。



「……っ!」



 まずい、とトキは即座に察した。



「ゴリラ、そこから退け!!」


「──!!」



 酒が回っているせいかいささかぼんやりしていたロビンは、トキの声で我に返る。弾かれるように顔を上げた直後、彼はその場から飛び退いた。


 刹那、盛り上がった床下からは黒蛇が溢れ出す。



「装填、〈紅玉ルビー〉──」



 ロビンはすぐさま魔銃を構えた。

 しかし、彼がそれを放つ前に後方の壁からも黒蛇が現れる。



「……!?」



 ロビンは目を見開き、苦く舌を打って身をひるがえした。だが蛇の群がるスピードには一歩及ばず、とうとう脚を取られた彼の体に一瞬で無数の蛇が這い寄り、ロビンの動きを封じてしまう。


 ギチギチと強い力で締め付けられ、彼は「ぐぅ……っ」と苦しげに呻くと、やがて蛇の群れに全身を覆い尽くされた。



「……っ!!」


「あーあ、人間の割には随分と頑張ったけどなァ。惜しかったねえ、あのゴリラくん」


「ロビンさん……!」



 セシリアが悲痛に彼の名を紡ぐ。その瞬間、彼女の体も一気に深く沈み込んだ。悲鳴と共に蛇の群れに飲まれるセシリアの手を掴み、トキは体ごと持って行かれそうになる程の強い力に抗って踏み耐える。アデルはトキの体を捕まえて支え、ステラはセシリアの体に這い登る蛇を尻尾で振り払っていた。


 しかし無情にも、その体はどんどん沈んで行く。



「……っ……セシリア……!」


「うっ……く……トキさ……」


「くそ……っ」



 このままでは、セシリアがアルマに奪われてしまう。既に彼女の体は蛇の群れに締め付けられ、白い肌には青黒い鬱血痕が目立ち始めていた。徐々に手の力も緩み、トキは歯を食いしばって彼女の手を強く握る。



「へえ。頑張るじゃねーの、トキ」


「……っ、アルマ……!」


「でも無駄だぜ? 結局、お前は弱い。幼なじみアレックスお友達ロビン愛する女セシリアも、何一つ守れない。お前が弱いせいでな」


「……!」



 くく、と歪に弧を描く口元。アルマの言葉が呪いのように耳の奥へと染み渡り、トキの背筋は凍り付いた。


 刹那、セシリアの体は更に強い力で引きずり込まれる。直後、握っていた彼女の手はついにトキの手の中から滑り落ちた。



「いやっ……!」


「──っ、セシリアッ!!」



 目を見開き、身を乗り出すが──伸ばした手は届かない。

 そしてとうとうセシリアは、黒蛇の群れの中へと飲み込まれてしまった。



「……っ」



 未だに群がっている黒蛇の群れ。セシリアの姿が消えたその中心に向かって叫ぶステラの悲痛な鳴き声がその場に響く中、トキの瞳からは徐々に光が失われていく。



「……セシ……リア……」


「あーあ。残念だったなァ、王子様」



 はらり。不意に彼の頭上から、薄紫色の花弁が舞い落ちた。やがて、トキの頭の上には薄紫の花で作られた花冠がゆっくりと乗せられる。


 奥歯を軋ませ、トキは膝を付いたまま手の中の短剣を握り込んだ。



「──お前は結局弱いんだ。お前のせいで誰かが死ぬ。ろくでもないお前は、いつまでも生きてやがるのに」


「……黙れ……」


「故郷も滅びた。家族も死んだ。幼なじみも灰になって、お友達と愛した女もお前の前から消えちまう。なあ? トキ……お前はいつまで“死に損ない”を続けるんだ?」


「黙れよ!!」



 トキは怒号を上げ、頭に乗せられた花冠を振り払って地を蹴った。短剣を握り込み、大きく振りかぶってアルマに振り下ろす。


 だがやはりその切っ先は彼に届かず、蹴り飛ばされたトキは小さく呻いて後ずさった。そのまま彼が体勢を立て直す間も無く、アルマはトキの胸倉を掴み上げる。トキは目を見張り、抗おうと試みたが、細いその身は容易く投げ飛ばされて部屋の壁に叩き付けられた。


 後頭部を強打したトキはその場に崩れ落ち、地面に短剣を滑り落とす。



「……っ……ぐ……」


「可哀想になァ。ろくでもねェお前だけ、いつも独りで取り残されて。このまま楽にしてやるよ、すぐあの世に送ってやる。お前の兄貴分としての、最後の情けだ」



 コツコツとブーツの踵を踏み鳴らし、蹲るトキへとアルマが迫る。しかしそんなアルマの行く手を阻むように、トキの目の前には白銀の毛を逆立たせた狼の背中が立ちはだかった。



「グルルル……」


「……っ、アデル……!?」



 アデルは金の眼を吊り上げ、低く唸ってアルマを威嚇する。よく見ればステラも彼の後ろで震えながら大きく羽根を広げてアルマを牽制しており、その両眼を“警戒色”である赤に色付けていた。


 ──俺を、庇おうとしている。


 そう察し、トキは声を荒らげて怒鳴る。



「馬鹿、やめろ!! お前らは出てくんな!!」



 怒号を放つが、立ちはだかる二匹は微動だにしない。その場でアルマを睨み付けたまま、トキの身を敵から庇おうと威嚇し続けていた。


 アルマは赤い双眸を細め、二匹を見下ろす。



「へえ~、なかなかペットに慕われてるじゃねえか。良かったなァ、トキ。ペットから先に死んでくれるってよ」


「……やめろ……っ! おいふざけんな! お前らさっさと逃げろ!!」


「さーて、どっちから殺そうか」



 楽しげに紡ぎ、アルマは顎髭をなぞる。一歩彼が歩を進めた瞬間、アデルは牙を剥き出して彼に襲い掛かった。



「アデルやめろ!!」



 トキが悲痛に怒鳴るが、その叫びも虚しくアデルは一瞬で黒蛇の群れに取り囲まれる。彼は威嚇しながら蛇を噛み殺そうと牙を剥いたが、圧倒的なその数には勝てず瞬く間に体を蛇に埋め尽くされた。


 うごめく無数の蛇に群がられ、力無い鳴き声だけが耳に届く。


 ステラはぶるぶると震えながら、それを見つめていた。



「……プ……プギ……」



 弱々しく鳴けば、アルマの瞳と視線が交わる。途端に震え上がった子豚を楽しげに見つめ、アルマは大きく広げられたその羽根を鷲掴んだ。



「プギャ!?」


「おー、活きがいいねえ」


「プギー! プギギー!!」



 逃れようと暴れるステラを床に叩き付け、「ピギィ!!」と甲高く鳴いた丸い体をアルマは足蹴にする。


 トキは息を呑み、「ステラ!!」とその名を叫んだ。



「プギー……ッ、プギー……!」


「おーおー、暴れちまって。この豚、確か前会った時も居たっけなあ。よく懐いてて可愛いこった」


「……っ、やめろ……! そいつから、離れろ……!!」



 トキは痛みで悲鳴を上げる体を無理矢理動かし、落ちている短剣に手を伸ばす。しかし元より魔力も不足していた彼の体は、痛め付けられたせいかうまく動かす事が出来ない。


 それでも、トキは重い腕を必死に前に伸ばした。



(何でだよ……何でいつもこうなるんだ……)



 床に落ちた短剣を見つめる視界がぐにゃりと歪む。彼は地面に這いつくばり、悔しげに奥歯を軋ませた。


 また、守れない。

 また、全部失うんだ。


 お前のせいで、と耳元で誰かが囁いたような気がした。トキは呼吸を震わせ、更に前へと手を伸ばす。



(俺は、いつも、何も出来ない……)



 ずっと見ているだけだった。己の弱さに絶望しながら、それでも強くあろうとして、でもやっぱり届かなくて。


 何も守れないまま、全て消えて行く。

 ろくでもない自分は、いつまでもこの世界に取り残されているのに。


 そう考えてふと、彼の脳裏に浮かび上がったのは、己の名が刻まれた空っぽの十字架。眠る家族の隣に並ぶ、中身のない己の墓だった。



「……俺も、あの中に入ってりゃ良かったんだ……」



 ぼそりと呟かれた言葉が、心を黒く塗り潰していく。伸ばした手は、まだ短剣に届かない。



「あの時、死んでりゃ良かったんだ……っ、死んだ方がマシだったんだよ……!」



 死んだ方が、きっとマシだった。

 あの時死んでりゃ、こんなに苦しむ事もなかったんだ。


 ──でも。



「……でも……っ、それでも……!」



 歯を食いしばり、震える手を伸ばす。

 灰の散乱する床を這い、彼は少しずつ前に進んだ。


 その手が短剣に届くまで、あと僅か。



「それでも、俺は……っ!」


「──生きるって決めたんだろ、馬鹿弟子」



 不意に、背後から届いた声。ぽすりと頭に乗せられた大きな手が、トキの髪を不器用に撫ぜる。彼が目を見開いた頃、床に落ちた短剣は別の手に拾い上げられた。


 直後、頬に懐かしい風を感じる。



「お前の入る墓は、此処にはない」


「──!」



 淡々と声を紡ぎ、トキから奪った短剣が目にも留まらぬ速度でアルマへと迫った。アルマは目を見開き、足蹴にしていたステラから離れて即座に後退する。


 拘束を解かれたステラは脱兎のごとく逃げ出し、「プギギー!」と鳴きながらトキの胸へと飛び込んだ。彼は震えるステラを抱き留め、目の前に現れた男の背中を見上げる。



「……」



 懐かしい風の中で揺れる、肩まで伸びた金の髪。少し猫背がちな立ち姿。その素っ気ない態度と物言いも──トキは、よく知っている。


 それは、彼がずっと見て来た大きな背中。

 ディラシナの街に流れ着き、彼に短剣を突き付けられて、“死んだように生きる”と決めた、あの日から。



「──このクソガキの親の仇だか、兄貴分だか、蛇だか何だか知らねえが、」


「……あ?」


「勝手にコイツの死に場所を決められちまうのは、少し気に入らねーな」



 相も変わらず淡々と、無表情に彼は言葉を続ける。青い双眸を持ち上げ、光るの指輪を手にした己の師──マドックは、指輪を嵌めた右手を掲げた。


 一つは、〈六番目ゼクス〉のアウロラ。

 そしてもう一つは、知らぬ間にトキの指から抜き取られていた、〈三番目ドゥリ〉のドグマの指輪である。


 それらを指に嵌め、トキの前に立ちはだかったマドックは静かにアルマへと視線を向けた。



「コイツの生き方は、コイツ自身が決めるんだ。誰に何を言われても」



 ──ゴウッ!


 その言葉の後、金の指輪は青い光を放ち、大きく立ち上る炎と共に長い髪を靡かせた妖艶な美女が現れる。トキは大きく目を見開いた。

 なぜならそれは、マドックの魔力によって本来の力を取り戻し、生前の姿さながらにした──ドグマだったからである。


 ドグマは切れ長の目を吊り上げ、アルマを睨み付けた。

 対するアルマは訝しげに目を細め、マドックを見つめている。



「……ドグマに、アウロラ……? おいおい、アンタ〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を二つ同時に扱うつもりか? やめとけよ、膨大な量の魔力を吸い取られて死ぬぜ? たかが人間ごときじゃ」


「ああ、そうだろうな。、一瞬で魔力不足になってガス欠だ。下手すりゃ死ぬ」


「……、テメェ……」



 アルマは眉を顰め、冷静に答えたマドックを睨んだ。



「……ただの馬鹿じゃなさそうだが……、一体何者だ?」


「……期待してるとこ悪いが、俺は何者でも無い。ただの賊のはしくれで、ただの飲んだくれのロクでなし。それから──」



 彼はトキから奪った短剣を握り、その切っ先をまっすぐとアルマに向ける。トキは黙ったまま、彼の大きな背中を見つめていた。


 あの日から、ずっと見て来た──その背中を。



「──アイツの、ただの保護者師匠だ」



 いつか追い付こうと無意識に追い掛けて来た師の背中は、やはり大きくて、頼もしかった。




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