第3章.花の街と麗しの花嫁
第11話 真昼の雨宿り
1
ぼこぼこ、と鍋の中の湯が音を立てて沸騰する。中では魚の頭がぐつぐつと煮立ち、周りに散りばめられた野草が踊って今にも吹きこぼれそうだ。
そんな鍋の様子に気付くこともなく、二人は木の幹に背を預け、“クスリ”の時間に興じているわけだが。
「……ふ、ぅ……」
「……」
ちゅ、と音を立ててトキの唇が彼女の舌を
「……は、ぁ」
一度唇が離れ、またすぐに塞がれる。一見甘い行為のはずなのに、そこには愛情なんて存在しない。なのに木の幹に押し付けられた体が熱くて、たまに溶けてしまいそうになるのは、何故なのだろう。
「……息継ぎ、少しはうまくなったな」
「え……」
ふいに彼の口が開き、セシリアは薄く目を開いた。アメジストのような薄紫色の瞳と視線が交わって、あまりの近さにやはり恥ずかしくなる。
「……そ、そうでしょうか?」
ぱっと目をそらせば、少しはな、と素っ気ない返事を返された。そのまま彼の体が離れ、遊びは終わりだと言わんばかりに呆気なく二人の日課は終わりを告げる。
するとなぜか急激に心が落ち着かなくなって、セシリアはその場で俯いた。
(……ああ、どうしたんでしょう、私……)
行かないで、と思ってしまう。しかしこの行為には愛も情も孕んではいない。これは自分の我儘であり、決して口に出すことは出来ない。
一人になると襲い来る孤独が、セシリアは怖かった。
トキが村人に殴られて意識を失った時。
アデルが殺されたと聞いた時。
あの時感じたのは確かに恐怖で、しかし記憶を失って以降、初めて感じる感情だった。
──“取り残される”、恐怖。
(……駄目、強くならないと。トキさんは生きてるし、アデルもきっと、どこかで……)
頭では分かっている。ちゃんと神にも祈っている。けれどやはりどこか落ち着かなくて、セシリアはそっと両手を強く握り締めた。
「──おい」
「!」
ふと、背後からトキに呼び掛けられたセシリアはびくっと反応して顔を上げる。相変わらず無愛想な彼は憮然とした表情で「飯が出来たぞ」と言いながら近付いて来た。セシリアは無理矢理笑顔を作り、明るい声を返す。
「そ、そうなんですね! ありがとうございます!」
「……」
トキは彼女の態度に眉間を寄せた。何か言いたげな表情を一瞬見せた彼だったが、一拍置いてふいっと顔を逸らす。
「……早く食って寝ろ。明日は朝早くここを発つ」
「あ、はい……!」
素っ気ないトキの言葉に慌てて返事を返し、セシリアはその場に立ち上がった。──しかしその時、彼の黒い上着の中から何かがこぼれ落ちたのを見付けてしまい、彼女は再び地面にしゃがみ込んでそれを拾い上げる。
「……?」
可愛らしい、水玉模様の赤い包み紙。手のひらに収まるサイズのそれは、セシリアもよく知っているもので。
「……キャンディー……?」
「──!!」
呟くのと、ほぼ同時だった。
凄まじいスピードで身を
びくうっ! と途端に震え上がったセシリアは、額に冷たい汗を浮かべて頬を引き攣らせる。
「は、はい!?」
「……アンタ、今の見たのか……」
ゴゴゴ、と地鳴りでもしそうな低い声。セシリアは忙しなく視線を泳がせ、何と答えるべきか迷いに迷った。──しかし、結局彼女は素直で嘘のつけない聖女様である、もちろん口を付いて出たのは、紛れもない真実で。
「す、すみません、見ちゃいました……! 可愛い包み紙に入った美味しそうなキャンディーでした!!」
「……っ!」
ええいままよ! とばかりにぎゅっと目を閉じて一気に捲し立てれば、トキは目を見開いてその場に硬直する。
──そして訪れたのは、長い沈黙。
「…………」
「……、?」
続く沈黙に耐えかね、セシリアは恐る恐ると目を開ける。視線の先、彼女の胸ぐらを掴んだまま、トキは確かにそこに居た。──しかしその顔は、今までに見たことのない色に染まっていて。
「……、え?」
「……!」
ハッ、と我に返ったのか、トキは慌ててストールを上に引き上げて顔を隠した。しかし隠れ切れていない耳までが赤く染まっていて、セシリアはますます呆気に取られてしまう。
「……あ、あの、トキさん……?」
「……~っ!」
困惑に満ちた表情にとうとう耐え切れなくなったのか、トキは乱暴に胸ぐらを離して彼女から離れる。珍しく余裕が無さそうな彼はふいっと顔を逸らし、ストールで表情を隠したままぼそりと何かを告げた。──しかし、その声はセシリアに届かない。
「……え? あの、今何て……?」
恐る恐る尋ねる。すると彼は半ば投げやりに、頬を赤くして叫んだ。
「──だから!! たまたま持ってただけだって言ってんだよッ!!」
「ひっ……!?」
突如怒鳴られ、セシリアはへたりとその場に座り込む。トキは更に目付きを鋭くし、彼女に迫った。
「……いいか? これはたまたま、偶然、その辺にあったから、とりあえず拝借しただけだ。勘違いするなよ。俺は甘い物なんて、全ッッ然好きじゃないからな!」
「……は、はあ……」
「絶対他人に言うなよ。絶対だぞ。誰かに言ったら削ぎ落とすからなアンタ」
「い、言う人なんて居ませんよ……」
ゴゴゴ、と威圧的に詰め寄るトキは、念を押すだけ押してようやく彼女から離れた。彼は踵を返し、不機嫌そうに戻って行く。
セシリアは呆然とその背中を見送り、その場にゆっくりと立ち上がった。
(……甘い物、好きなんですね……)
──彼の守りたかった秘密は、もちろんバレていた。
2
結局、昨夜のキャンディー騒動の後。トキは一言も口を聞いてくれず、じとりとセシリアを睨み付けながら寝床についた。
一晩明けて少しは機嫌が治ったようだが、よほどあのキャンディーが地雷だったのか普段の三倍ほど対応が素っ気ない。塩対応の続く彼に、セシリアはもはやお手上げだった。
(……別に、甘い物が好きでもいいと思うんですけどね……)
うーん、と苦笑しつつ、セシリアは彼の後ろを付いていく。次の街が近いという情報だけは今朝教えてくれたため、ひとまず次なる街を目指して歩を進めた。
川沿いの山道。はぐれてしまったアデルの姿は依然として見付からず、とうとう三日が経ってしまった。
時折飛び出してくる魔物との戦いを交えながら進めば、二〜三時間など一瞬で過ぎ去ってしまう。そうこうしている間に道幅は狭くなり、木は生い茂り、斜面はどんどん急になって、見るからに山道の険しさは増していた。
「……ま、ま、待ってください、トキさん!」
でこぼこと安定しない斜面を辿々しく降りていくセシリアに対し、トキは涼しい表情でさっさと前進して行く。二人の間の距離は徐々に大きくなり、もはやトキの姿は米粒ほどの大きさにしか見えない。涼しい風に黒い髪を揺らし、気だるそうな顔で振り返ったトキはモタモタと危なげな彼女の足取りを眺めて溜息をついた。
「何してるんだ、早くしろ。そのぐらい一人で降りれるだろ」
「お、降りれますけど、慣れてないんですからそんなに速く歩けませんよ!」
「はあ……」
トキは再び溜息をこぼし、近くの木に凭れかかった。一応待ってくれてはいるようで、ひとまず置いていかれることは無さそうだとセシリアは密かに胸を撫で下ろす。そのまま大慌てで斜面を降り、程無くして彼に駆け寄れば不機嫌そうな視線を向けられてしまった。
「お、おまたせしました……」
「……」
トキは答えず、じっとセシリアの目を見つめる。──否、よくよく視線をたどってみれば、目を見つめているわけではない。彼の視線の先は、それよりも少し上。
なんだろう、と首を傾げる前に、ふとトキの手が彼女の頭に伸びる。あまりに唐突のことでセシリアは思わずびくっと肩を揺らして身構えた。
──しかし、伸ばされた彼の手はセシリアの頭に触れることは無く。カサリと音を立て、そっと離れる。
(……あれ?)
ぱちり、瞳を数回瞬いた彼女の視線の先には呆れ顔の彼。その手に握られているのは、手のひらサイズの一枚の枯葉だった。
「……え、あ……、え? 葉っぱ……?」
「頭に乗ってたぞ。ある意味器用だなアンタ。タヌキかよ」
はっ、と鼻で笑い、彼は枯葉をその場に投げ捨てる。そのまま身を翻して再び歩き始めたトキの後ろでセシリアは頭を押さえ、かあっと頬を赤らめた。
「……た、タヌキじゃないです!」
「じゃあキツネか? 化けて俺を騙くらかしてんじゃないだろうな」
「キツネでもないです! からかわないでください! もー!」
頬を紅潮させたまま、彼女も彼の後を追う。いつのまに葉っぱなんか頭に乗ってたんだろう、恥ずかしい、と俯いてしまったセシリアだったが、ふと火照った頬に冷たい雫が落ちたことで彼女の顔は持ち上がった。
「あ……」
雨、と呟かれた声をトキの耳が拾う。彼も同じく頭上を仰げば、空は暗く垂れ込み今にも泣き出してしまいそうだった。
「チッ、山は天気が変わるのが早いな」
「どうしましょう……」
「この程度の小雨なら進んでも大丈夫だろ。雷が鳴り始めない限りは……」
と、そこまで言った瞬間、空に閃光が走った。──かと思えば、数秒後にはドォォン! と
「きゃあ!?」
セシリアはびくっと身を震わせ、思わずトキの服を掴んだ。それを彼がうざったそうに振り払うが──その直後、滝のような雨がごうごうとその場に降り注ぐ。トキは眉間を寄せ、不服げに空を睨みながら舌を打った。
「チッ……」
「あ、雨宿りしましょうトキさん! あの大きな木の下とか……」
「馬鹿か、木の下は一番雷が落ちやすいんだよ! こっちに来い!」
強引に手を引かれ、セシリアは一瞬前につんのめりそうになりながらも彼の後を追いかけた。大粒の雨に全身を打たれながら向かった先にあったのは、壁にぽっかりと空いた大きな洞窟。その中に彼は迷わず飛び込み、セシリアの腕を離す。
「最悪だ、くそ」
びっしょりと雨に濡れ、体に張り付く衣服を絞りながらトキは低い声で呟いた。セシリアも同じく全身ずぶ濡れで、羽織っていたローブをそっと脱ぐ。
「急に降ってきましたね……」
「おい、もう少し奥に行くぞ。風で雨が入ってくる」
「そ、そうですね」
トキの言葉にセシリアは頷き、その背中を追いかけた。その際、くしゅん! と彼女がくしゃみをこぼし、トキは背後に視線を向ける。
「……悪いが、羽織れるようなモンは持ってないぞ。全部濡れちまったからな」
「あ、いえ、大丈夫です! 荷物の中に毛布があるので……」
ノースリーブの袖から出ている白い二の腕を手で摩り、彼女は微笑んだ。長い手袋をしているとは言え、奥に進むほど洞窟内は冷える。このまま風邪をひかれるのも面倒だな、とトキは溜息混じりにその場で足を止めた。
「……ひとまずこの辺でいいか。雨が止むまで休憩だ」
「ええ、そうですね。それにしてもこの洞窟、人の手で掘られたんでしょうか? 随分と奥まで続いてそうですけど……」
セシリアは首を傾げ、じっと洞窟の奥を見つめる。しかしそこには深い闇が広がるばかりで、内部の全貌までは分からない。まだまだ奥へ進めそうだが、外が雨で水浸しになっているため松明もなければ焚き火を焚くことも出来ず、今この先に進むのは難しそうだ。
「気になるなら見てくればいい。俺は行かないけどな」
「え、い、嫌ですよ! 真っ暗ですし、お、おばけとか……」
「おばけならアンタの後ろにいるぞ」
「ええ!?」
「嘘」
飄々と
しかし、振り向いた彼女の目に飛び込んで来たのは、上半身裸のトキの姿で。
「ひやああ!?」
声を裏返し、セシリアは咄嗟に顔を背ける。トキはうざったそうに目を細め、脱いだ衣服をぱたぱたと仰ぎながら口を開いた。
「一々うるさいな、何だよ」
「だだだだって! なんで脱いでるんですか!」
「はあ? 濡れてるんだから脱ぐだろ。男が脱いで何か問題あるのか?」
じとりと紫色の瞳がセシリアを映す。彼女は頬を赤らめ、おずおずと彼に視線を向けた。細身ではあるが、程よく引き締まった体。いつもカーキ色の大きめなケープに身を包んでいるせいか、思っていたよりも白い肌。骨張った腕に、古傷の多い背中。
ああそうだ、いつも一緒にいる彼はちゃんと男の人なんだと、男性的な身体を意識した途端にセシリアの心臓が忙しなく動き始める。
「も、問題ありますよ。落ち着かないです……」
小さな声で呟けば、トキの口元がにやりと不敵に微笑んだのが分かった。あ、しまった、と何かマズいスイッチを押してしまったことを察して顔を逸らした彼女だったが──即座に彼の体がすぐ目の前にまで迫って来て。
「……何? 俺の体見て興奮したってことか? とんだ変態だな、アンタ」
「ち、ちがいます……!」
顔を逸らしたまま、彼の揶揄に反論する。しかしすぐさま顎を掴まれ、逸らしていた顔を強引に前に引き戻された。細身ながらも筋肉質な、引き締まった体が思った以上に目の前にあり、セシリアはぐっと息を呑む。
「……顔赤いぜ、聖女様」
「や、あの、だって、こんなの恥ずかしいです……!」
「恥ずかしいのは俺だけだろ。アンタ脱いでないんだから」
とん、とセシリアの顔の横に手を付き、もう片方の手で彼女の喉元に指を滑らせる。するとセシリアはくすぐったそうに身をよじり、小さく声を漏らした。赤く染まる耳元に唇を近付け、トキはそっと口を開く。
「──それともアンタも、脱ぐ?」
掠れた声が囁き、どくんと心臓が跳ね上がった。
彼の口角はゆっくりと弧を描いて、彼女の胸元のボタンが一つ、ぷちりと音を立てて外れる。
「……え!? ちょ、ちょっとトキさん……!」
「雨に濡れただろ? 俺も寒いんだ」
ぷち、ぷち。次々と外されて行くボタン。忙しなく早鐘を打つ鼓動。
ああ、これはまずい、と先日の宿屋での行為を思い浮かべてセシリアは唇を噛み締めた。だめだと、頭では分かっているのに、抵抗できない。
色気を孕んだ彼の掠れ声が、彼女の鼓膜をそっと揺らす。
「──暖めてくれよ、聖女様」
呟き、セシリアの体は冷たい地面に押し倒された。
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